vol.10
すっと閃光を秘めた夜気が、僕の肺に染み渡る。
月夜に魅せられ、どれくらい時が過ぎたのだろうか。
時空を超えて、まるで時が止まったかのような感覚に襲われ、我に帰る。
水面からはさらさら揺れる月は消えている。
さっきあった月がわずかに西に傾き、時の経過を証明していた。
この僕の肺を通して、酸素とともに体中に放たれる香りはいったいなんだろう。
実体のない香りがナノサイズのしずくとなって落ち、僕の心の泉に波紋を広げる。
ぼくは、幻にも似た香りを探すように、少しアゴをあげ、その時を待った。
しばらくすると、河のせせらぎが川上から風を誘い、新春を告げる若葉の草原を舐めるように吹き降ろしてくる。
すらすらすらすらすら~
一瞬を見逃さないように神経を嗅覚に集中する。
やっぱり夜気に溶け込むかすかな花の香り・・
この匂いはなんだろう。
もし香りに鮮度があるとしたら、この香りは正真正銘の生をまとうほどの新鮮な
華の香りだった。
春の訪れを知らせるジンチョウゲの花は、ほのかに甘酸っぱく透明感ある香りを放ち、
可憐な装いで鼻先をくすぐってくれる。
そのジンチョウゲに似て非なる香りが鼻先をかすめ、今、僕の心にまとわりつく。
満月に誘われた現われ可憐な妖精たちが、僕の頬をかすめていったかのような錯覚。
でもジンチョウゲほどに、どことなく冬の冷気を残した寂しげな空気を
持ち合わせてはいない。
むしろ夏をかすかに匂わす陽気なグルーヴ感を持ち合わせ、
それでいて可憐なまでのジンチョウゲを彷彿とさせる薫り・・
なんだろう、いったい。
満月は、人の生理的欲求を研ぎ澄ます作用を持つという。
僕もそのご多分にもれず、沸き起こる衝動を抑えられず、犬が鼻をくんくんいわせて
その源を探し求めるように、風に載せて薫り来る上流に向け、土手を夢遊病者のごとく
歩みだした。