友
「それは本当の話なのか?」
暗殺者ギルドの受付。
受付嬢から話を聞いた不動は、そう聞き返した。
「確かです。経緯の詳細はまだ調査している所ですが……」
不動の声は、普段通りの感情を極力表に出さないものだった。
しかし、受付嬢はそこに普段とは違う感情の動きを見た気がした。
それが勘違いであるか、自分の直感が正しいのか、受付嬢がその判断を確かなものとする前に不動は言葉を続ける。
「その話は誰にも伝えないでほしい」
そう言った不動の声は、すでに普段通りの平坦なものだった。
それを聞いて、受付嬢はやはり気のせいだったかと思い直した。
「それは……。依頼にない人間が殺されています。同盟としては、この手の話は隠匿できません」
暗殺者ギルド『義憤同盟』では、誰が誰を殺したかという情報を広く公開している。
それは義憤によって人を殺すという根本的な理念があるからだ。
義に反する殺しに対して、同じ義憤同盟の人間が義憤同盟の人間を私的に制裁するという事も許容されている。
依頼をこなした結果によっても、その内容如何によっては制裁を受ける事がある。
今回のような義憤同盟メンバーによる依頼外での殺人などは特に周知され、同盟内でその可否を試される事になっていた。
そう、今回はその依頼外の殺人が起きていたのである。
詳細情報が入り次第、動き出す人間はいるだろう。
その情報がいち早く不動の所へ伝えられたのは、その殺人を起こした人間の情報を優先的に流してもらうよう不動が頼んでいたからだった。
つまり、前々から目をつけていたという事でもある。
「僕が殺す」
不動が答えると、受付嬢は少し迷ってから「わかりました」と了承した。
殺した者。
殺された者。
どちらも、不動の知る人物だった。
受付から離れ、歩き出す彼は……。
殺した者へと思いを馳せた。
不動が彼と出会ったのは、数年前の事になる。
義憤同盟には、暗殺者として最低限の技術を教わるための施設がある。
国などの権力に仕える暗殺集団には、基本的に暗殺に特化した人員を作るための施設がある。
しかし、主人を持たず、依頼による暗殺を請け負う暗殺ギルドの類でそのような施設を設けているのは珍しい。
ギルドに仕事を斡旋してもらう人間というものは、その殆どが既に暗殺の技術を持つ者であるからだ。
義憤同盟が暗殺者の養成施設を持っているのは、その理念による所が大きい。
この組織は、強い義憤を持つ者を迎え入れる。
ただ義憤だけを持ち、しかし殺しの技術を持たない人間は少なくなかった。
養成施設は、そんな者達のための施設である。
ジョエルによってスカウトされた不動は、すぐにこの施設で技術を学ぶ事になった。
施設にいる者は殆どが子供だった。
召喚者もいれば、この世界の人間もいる。
数は時期によってまちまちで、不動がこの施設へ来た時は三十人と少ないほうだった。
不動が彼と出会ったのは、この養成施設での事だ。
養成施設であてがわれた部屋は二人部屋で、荷物を置きに来た時には既に同居人が室内にいた。
不動と歳の変わらない少年である。
彼は部屋の左右の壁際に置かれた二つのベッドの内、右側のベッドに腰掛けていた。
入室した不動を目にすると、同居人は人懐っこい笑顔で出迎えた。
「あんたがルームメイトか?」
「部屋の番号が合っているので、そうだと思います」
答えると、彼はベッドから立ち上がって握手を求めた。
「俺は立花だ。よろしくな」
名前を聞いて、不動は彼が召喚者である事を知った。
「不動です。よろしく」
不動はその手を躊躇いがちに取ってから、空いたベッドの方へ歩いていく。
「あんたは、何で暗殺者になりたいんだ? ここに来たって事はそういう事だろ」
荷物をベッドに置いた不動は、立花から問われて振り返った。
そのまま黙り込んでいると、立花の方が口を開いた。
「ああ、こういうのは訊かない方がいいのかな。悪いな、歳が近そうだったからちょっと気が楽になったんだ。どんな奴が来るか、実は緊張してたんだぜ」
人懐っこい笑顔のまま、立花はそう謝った。
「僕には、必要なんです。人を殺すための技術が」
その笑顔を見たからだろうか。
その人当たりの良さに心を解きほぐされたからだろうか。
不動は素直に答えていた。
「お前には、ちゃんと目標があるんだな」
まるで、自分には無いような言い方だった。
「敬語はよせよ。あんま、歳変わらないだろう」
養成施設に入った者が最初に受けるのは、基礎体力作りのための訓練である。
走らされ、偏りがないように身体を満遍なく鍛えられ、また走らされ……。
さながら体力の一片すら残さず絞り取り、その上で動き続けさせられるような過酷さの訓練を課せられた。
養成施設での訓練は強制ではなく、いつでも自分の意思で受けるかどうか決める事ができる。
だから、この訓練の段階で耐えられずに訓練をやめる者も少なくなかった。
この運動も辛いのだが、その後の食事もまた辛かった。
極限までしごかれた体は、食べ物を受け付けない。
それでも無理やり胃に流し込み、こみ上げる吐き気を堪えるのはそうしなければ訓練に耐えるためのエネルギーが確保できないからである。
少なくとも不動にとって、これは耐え難いものだった。
他に吐き下していた者もいたので、あながち不動だけでもないのだろうが。
しかし、立花はそうではないようだった。
養成施設には、他にも同じ年頃の少年少女が何人かいた。
それでもルームメイトとしての誼からか、立花はいつも不動の隣に座って食事をした。
立花は食事が苦にならないらしく、平然と食事を平らげていた。
食事を楽しんでいる風ですらある。
「気持ち悪くならないの?」
ルームメイトとして以上の接点を持つつもりはなかったが、気持ち悪さで食べられない自分と比べて、あまりにもあっさりと食事を口へ運ぶ立花へ訊ねる。
「慣れてるからな。俺、野球部だったし」
「野球部ってこんなに辛いの?」
「いんや、ここまでじゃない。でも限界まで絞られて、体作りのために食えるだけ食えって言われるのは一緒だ。要は、慣れだよ。お前もすぐ慣れるさ」
立花のその言葉は、何日か経って実感できるようになった。
基礎訓練に慣れた頃、それと平行してより実戦的な訓練が加えられるようになった。
対人を想定した戦闘訓練である。
これもまだ基本的なものであり、主に剣術と徒手による格闘術を教わった。
その一環として行われた、剣による生徒同士の実戦練習。
不動は立花と当たる事になった。
不動は傭兵団にいた過去があり、剣の扱いを心得ていた。
しかし、立花もそれは同じようだった。
それどころか、剣の扱いは不動以上に巧みである。
立花に限らず、養成施設には不動以上に剣に長けた使い手など珍しくない。
生徒達はその多くが召喚者であるようだった。
この世界へ召喚される経緯というものは、恐らく皆似たようなものだろう。
そしてこの場所へ行き着いた者達だ。
生き延びてきたには、生き延びてきただけの理由がある。
かつて仲間から「才能がない」と言われた不動が敵わないのも、致し方ない事かもしれなかった。
訓練を終えて、部屋へ帰る。
疲れから不動は、すぐにベッドへ横たわった。
同じく部屋へ帰ってきた立花も、同様に自分のベッドへ横たわる。
「なぁ、不動」
すぐにも意識が眠りに落ちそうな中、立花が声をかけてくる。
「何で、暗殺者になりたいんだ?」
唐突な問いかけだった。
「僕は……召喚者を殺したいんだ」
「召喚者を?」
「僕は見てきた。召喚者が、この世界の人間を不幸にする所を……。それが許せないんだ」
「そうか……」
不動が答えると、立花は黙り込んだ。
けれど少しして、再び問いかける。
「なら、俺も殺したいと思うのか?」
「……君が、この世界の人間を不幸にするなら」
召喚者は存在そのものが、この世界の人間を不幸にする。
不動には、そう思えてならなかった。
そう思えてしまうほどの経験を経て、彼はここにいる。
だからこそ、不動は立花との出会いに戸惑いを覚えていた。
こんなに親しげな召喚者と出会ったのは、久しぶりだったからだ。
かつていた……。
仲間と呼べる召喚者も、自分を裏切った。
だから、どう接していいのかよくわからない。
「ふぅん。お前、凄ぇな。ちゃんと目的持ってさ」
そんな言葉が返されるとは思わなかった。
だから不動は驚き、立花を見る。
天井を見ていた立花も、顔を横に向けて不動を見る。
「俺、召喚された時は高校生でさ。進路に迷ってたんだ。でも、何もやりたい事がなくてさぁ」
「野球は?」
「好きだよ。体動かす事しか取り柄なかったし。でも、プロを目指せるほど上手くなかった。それに気付けないほど、鈍感でもなかったんだなぁ……」
「それで?」
「進学も就職も、何も決められないままこの世界に召喚されたんだ。そして、それは今も変わらねぇ……。ここに来たのも、成り行きさ」
立花は苦笑して、さらに続ける。
「俺の心には義憤がある。俺をスカウトした奴は、そう言った。でも、実感できないんだ。お前は?」
「それが義憤かはわからない。でも、強い感情ではあると思う」
「そうか……。お前の目的、召喚者を殺したいって気持ちは俺にわからない。でも、人を不幸にする奴を許さないってのはいいな。悪い奴を倒すって事だろ、それ。まるでヒーローみたいだ」
言うと、立花は上体を上げてベッドに座った。
「決めた。俺の目標も、人を不幸にする人間を倒す事だ。ヒーローになってやる」
立花は不動に笑顔を向ける。
「お前のおかげだ。やっと、俺にもやりたい事が見つかった。ありがとな」
立花は礼を言うと、「おやすみ!」と言ってすぐに寝転んだ。
そんな様子を不動は呆気に取られた様子で見ていた。
なんだったんだろう。
そう思いながら、彼も目を閉じる。
ヒーロー、か。
そう心の中で呟き、彼は眠りに落ちた。
「月〇天衝!」
訓練場にて。
立花は訓練用の丸太を狙い、剣を振り抜いた。
剣は空を切り……次の瞬間、遠く離れた丸太に切り傷が及ぶ。
「相変わらず地味な技だよな」
立花は己の能力を見て、溜息を吐いた。
この斬撃を遠方へ飛ばすというのが、彼の能力である。
「せめて、飛んでいく斬撃が見えればいいのに」
「見えると避けられるかもしれない。見えない方がいいよ」
立花の訓練を見ていた不動がそう答える。
「この剣を使ってみてくれないか」
そう言って、不動は自分の剣を渡した。
「ん、おう」
剣を受け取った立花は、同じように剣を振るった。
すると、さっきは切り傷が付くだけだった丸太が、今度は真っ二つに両断された。
その切れ味は鋭く、断面は研磨されたかのように滑らかだ。
そしてそれだけに留まらず、斬撃は丸太の後ろにあった壁にまで達し、そのまま貫通した。
細く薄くできた傷は壁を貫通し、外にある森の木を幾本か倒していた。
壁越しに木々の倒れ行く様は二人にも見えた。
「!」
思いがけない結果に立花は一度驚いてから剣へ視線をやり、次いで不動を見た。
「どうやら飛ばせる斬撃には、剣の性能が反映されるらしい。実戦にも暗殺にも使える良い能力じゃないか」
「おま、これなんだよ?」
「あげられないよ。僕にとって数少ない切り札だから」
「いや、確かに欲しいけど……。こんなえげつないもん持ってたのか……」
まぁね。と答えつつ、不動は剣を立花から受け取った。
「僕はそろそろ行くよ。授業がある」
すでに、二人は基本的な訓練を修了していた。
基礎訓練はあの後、さらに苛烈さを極め。
衣服を着たままの長距離水泳。
装備一式を着込んだ状態での三日間に渡る山間訓練。
など、体力はもちろん、精神力を極限まで削る物になった。
不動と立花は、それらの訓練に耐えて今に至っていた。
そしてそれらを経ても、この養成施設の役目はまだ終わらない。
戦士としてならこれで十分だろうが、ここは暗殺者の養成施設である。
よって、ここからは自分の戦い方に合った技術を各々が選び、学んでいく事になる。
「今日はなんの授業なんだ?」
「今日は生物学と薬学」
「お前は勉強が好きだねぇ」
「僕には必要だからだよ」
不動が基本訓練を修了した時、彼は教官の滝本に助言を乞うた。
彼は基本訓練を新入生に施す教官であり、戦技担当の学科を受け持つ教官でもあった。
「確か、能力がないんだったな。……お前はいい剣を持っているが、剣術が得意とは言えない。それをメインに戦う事は勧められない」
「なら、どうすればいいですか?」
不動の問いに、滝本は小さく息を吐いた。
「俺の見た限り、お前は手数が多い」
「手数?」
何を指しての事かわからず、不動は聞き返した。
「状況判断が早く、それに即した行動をすぐに導き出す。不利を悟ればすぐに相手を蹴って距離を取り、剣が邪魔になれば手放し、時にはそのへんの石を投げて応戦した時もあったな」
滝本は不動の特徴を挙げていく。
そして結論を述べた。
「だから俺は、取れる手段を増やす事を薦める。やれる事が多すぎると何をしていいかわからなくなる奴もいるが、お前の場合はあればあるだけ有利に立ち回れる。だから、ここで習える事は全部習っとけ」
「わかりました」
不動はその助言を素直に受け取った。
「ふぅん。俺は滝本のおっさんに「お前は不動と逆だ。判断力はあるが、応用力がない。だが剣の才能はあるし、召喚者としての能力も剣に関係するものだ。剣だけ使ってろ」って言われたからな」
「そうなんだ」
「だから、特戦一筋だ」
特戦とは、特殊戦技学科の略である。
主に、召喚者が自分の能力を鍛えるための学科である。
「お前は特戦を取らないのか?」
「僕には召喚者としての能力がないからね」
答えながら、不動はその場を離れた。
彼が向かった生物学の授業は、一匹のゴブリンが教官として受け持っていた。
そのゴブリンは転生者で、名を春日井と言った。
スーツ姿で、眼鏡をかけている。
「ゴブリンがサハギンの一種である可能性が高いという話は前の授業でしましたね。その説を前提にすれば、ホブゴブリンはより一層陸上での活動に適応したサハギン種と言えます」
小学校の教室を思わせる部屋で、席に着いた生徒達に春日井は黒板へ解説用の絵を貼り付け、チョークで文字を書きながら授業を進める。
「ゴブリンと比べて力が強く体も大きいため、戦闘能力は高いです。卵生である事には違いないのですが、乾燥した場所での繁殖が可能。ですが、それでもゴブリンに比べると一度に産まれる子供が少ないので繁殖力は劣ります」
「人を襲う事はないんですか?」
生徒の一人が質問する。
「襲いますね。雑食ですから」
「じゃなくて、繁殖目的で」
「水場を必要としないので、それはありえませんね。井上君。ゴブリンの時にも同じ質問をしましたけど、そういう話を聞きたいだけじゃないですよね?」
「すみません。聞きたかったんです」
素直ですねぇ、と春日井は苦笑した。
「オーガほど強くありませんが、徒党を組む事もあって陸上における人型生物の中ではそれなりに脅威です。剣一本で突っ込むなどもってのほかなので、ちゃんと作戦を立てて対処してください」
はい、と数名の生徒達が返事をする。
「このように、生物というものはそれぞれの住処に適応、進化していくわけです。が、これが転生者の場合はその限りではありません」
モンスターへの転生、と春日井は黒板に大きく書いた。
「何故かといえば、この世界のモンスターに転生する者は基本的にマンデルコアの加護……つまりチート能力を持ち、なおかつ別種族へ変化する能力を持つからです」
春日井は、モンスターへの転生という部分に=変化能力と書き足した。
「一定のレベルアップ、能力値などの条件を満たす事でこの変化を起こす事ができます。たとえば、ゴブリンからホブゴブリンへ、ホブゴブリンからオーガへ、という風に。段階を経て、モンスターへの転生者は強くなっていくのです」
「それは進化とは違うのですか?」
不動は手を上げて質問する。
春日井は、あえて変化という言葉を口にした。
それが気になったのである。
「先ほど例として挙げたように、ホブゴブリンから先の選択肢にはオーガがあります。ゴブリンとオーガでは既に種族の系統が違うんです。これはもう、進化とは違います。変化です」
不動は納得する。
オーガは元から陸上生物として進化したものであると、不動は授業で習っていた。
繁殖方法も哺乳類に近く、メスは胎内で子供を育む。
水棲生物が元である可能性が高く、卵生のゴブリンから進化するのは不自然な事なのだろう。
しかしその不自然が、転生者の場合は罷り通るらしかった。
生物の授業を受け、その後に薬学の授業を受けてから不動は自室へと戻った。
すると、そこには立花以外の人間がいた。
立花の他に二人。
二人とも男性で、年頃は立花に近い。
一人は立花よりもがっしりとした体格をしており、もう一人はほっそりとした体格で眼鏡をかけていた。
不動は眼鏡の方に見覚えがあった。
同じ授業を受けた事が何度かあるはずだ。
ただ、名前は知らない。
三人は向き合って座り、彼らの真ん中には酒瓶が二本置かれている。
手には酒瓶の中身であろう赤い液体で満たされたグラスがあった。
「おお。おかえり。こいつら、俺のダチな」
そう言って、立花は二人を紹介する。
「川島と山城だ」
「よう」
「よろしく」
紹介された二人が挨拶する。
「よろしく」
不動が挨拶を返すと、じっとりとした視線が川島から向けられた。
「おまえ、可愛い顔してるな」
少しの怖気を覚え、不動は顔を顰めた。
「僕は男だよ」
「男ぉ? ……興奮するな」
川島は少し倒錯しているらしかった。
「しかし暑いなぁ」
言いながら、川島はシャツを脱いで上半身裸になった。
「お前も脱げよ」
「やだよ」
不動は答えて自分のベッドに寝転ぶ。
そんな不動を川島は睨み付けるようにジッと目を細めて見た。
「何してんだ、お前?」
その様子を不審に思って、立花が訊ねる。
「いや、着てる服が透けないかなぁって」
モザイクじゃないんだから。
不動は内心で思いながら、ちょっと怖かったので剣を抱えて眠る事にした。
暗殺者の技術として、民衆の中へ溶け込むものがある。
初めて訪れた地へ怪しまれず侵入し、目標へ近づく事ができれば暗殺はしやすくなる。
その地域に混じって景色の一部となれば、迷彩として機能する。
そのためには、早く民衆に受け入れられる必要がある。
上手く潜り込めても、他の人間に警戒されていればそこにわずかばかりの違和感が発生するのだ。
場合によっては、その違和感で気付かれる事もある。
民衆との融和は、必要な技術だった。
それを学ぶため、不動達は行商人に扮して近隣の村々を巡るという実地演習を受けた。
往復一ヶ月の長期的なものである。
流浪の立場であっても、ただの旅人よりも行商人などの方が警戒心はもたれにくい。
利という目的を持つ行商人と、目的の定かではない旅人では人の警戒心は変わってくるものなのだ。
ただ、品を揃えて売り歩くだけでは、行商人に扮する事ができたとはいえない。
やはり行商人であるならば、物を売る事に慣れている必要がある。
参加者は不動、立花、川島の三名だけだった。
教官は前田という男だ。
前田は本職の商人であり、義憤同盟の協力者でもある。
世の不条理に義憤を覚えながら、それでも人を傷つける事に正しさを見出せなかった彼はあらゆる形で義憤同盟に協力している。
教官を務めるのも、協力の形の一つである。
「どうして、参加しようと思ったの?」
荷物を満載した荷馬車の中から、御者台にいる立花へ不動は声をかけた。
馬車の扱いを覚えるため、移動は生徒が順番に手綱を握る事になっていた。
立花の隣には、前田が座っている。
「俺の能力、暗殺向きだって言われたろ。だから俺も、こういう技術は習っていた方がいいと思ってな」
「ふぅん」
「まぁ、理由はもう一つあるけど」
「何?」
「施設を出た後もお前と組みたいから。それには必要だろ」
「……そうだね」
その答えに、不動の口端がかすかに緩む。
「川島、おまえは?」
立花は川島に声をかける。
「え、特に理由はないぜ。まぁ、なんとなくだ。お前らについていった方がいいと思ったからだな」
「なんだよそれ」
川島の要領を得ない答えに、立花は苦笑する。
「そろそろ、村に着きます。気を抜かないようにしてください」
弛緩した空気を引き締めるように、前田がそう告げる。
「とはいえ、あくまでもこれは演習です。怪しまれても問題はありません。先に言いましたが、自分を偽装する時に大事なのは自然体の振る舞い。余分な体の力は抜いてください」
「はい。気を抜かずに、体の力は抜くって難しいっすね」
「その辺りは慣れですよ。とりあえず、困った時は笑顔を向けるのがコツですかね。笑顔の相手には、警戒を解いてしまうものですよ」
「そうなんすか」
荷馬車が村に辿り着く。
そこは国境から近い場所にある村で、不動達にとって初めての実地演習の場となる場所だった。
ここからさらに国境を通り、隣国の都市まで行って帰ってくる予定である。
この村は始まりにして、終着の場でもあった。
「都市では各々に露店を開いてもらいますが、それまでは私の部下として私のやり方を見ながら手伝ってもらう形になります。その間に、商人のやり方を覚えてください。質問は馬車での移動中に受け付けます」
「わかりました」
荷馬車が村の中へ入ると、真っ先に興味を示したのは村の子供達だった。
普段目にする事がないのだろう。
外から来た荷馬車に、強い好奇心を孕んだ瞳が向けられる。
「どうだい、近くで見ないか? おもしろいものがいっぱいあるよ」
まだ荷馬車を停める場所も定めぬまま、立花は声を張り上げ呼び込みを始める。
完全な独断だが、前田が何も言わないという事は商人として悪くない態度なのだろう。
前田に指示され、村人の邪魔にならない所に荷馬車を停める。
すると、立花の呼び込みに興味を惹かれた好奇心の強い子供達が寄ってきた。
「接客は任せるよ」
前田はそう言って、裏方に徹する。
布を敷き、商品を置いて、露店の形になった。
「らっしゃい! らっしゃい! 安くはないけど珍しいものいっぱいあるよ!」
川島は先ほどの立花に負けず劣らずの威勢で集まった子供達に声をかける。
そんな様子に負けてられないなと思い、不動も口を開く。
「そこの可愛らしいお嬢ちゃん。お嬢ちゃんに負けず劣らずの可愛らしい人形があるよ。見ているだけじゃなくてほら、手にとって欲しいって言ってるよ」
少し離れて見ていた女の子を不動は満面の笑顔で呼び、手に取った人形を手招きさせるように操った。
そんな普段とは違う不動の声色と笑顔に、立花と川島は「おまえは誰だ!?」という表情で驚いた。
不動に声をかけられた女の子が、逡巡しつつも店に近づいてくる。
女の子は、他の子供達と比べても跳びぬけた器量をしていた。
「可愛い人形……」
女の子は呟くと、店から離れていく。
そしてしばらくして、女の子は一人の男性を連れて戻ってきた。
手を繋いで歩くその二人を見ていると、男性が女の子の父親だとわかる。
「さっき、この子に見せてくれた人形、まだあるかな?」
父親らしき男性は、そう不動に訊ねた。
「はい。ありますよ」
「いくらだい?」
不動が値段を告げると、男性は少し困ったような表情をした。
その様子を見て、男性にとって人形が高価な物である事に気付いた。
この村での適正価格を間違えたな、と人形を薦めた自分の失敗を悔やむ。
「わかった。それをくれ」
しかし、意外な事に男性は人形を購入する決意をした。
「ありがとうございます」
男性が人形を女の子に渡すと、女の子は嬉しそうに笑って人形を抱きしめた。
「あの、大丈夫なんですか?」
差し出がましい事だと思いつつ、不動は問う。
「ああ。今まで、こういう物を買ってあげた事がなかったから……」
「そうですか」
それから、女の子が人形を買ってもらう姿を見た子供達が親を呼びに行き、思った以上に店は忙しくなった。
「お人形さんとかもあるのね。でも、この子にはまだ早いかなぁ。……あ、その帯くれる? きっとこれからこの子を背負って動かなくちゃならないと思うし」
産まれて間もない子供を抱いた女性を相手にした頃には、もう空は赤くなりつつあった。
客も今の女性で途切れた。
「姫は返してもらうぞ! たぁー! ガチーン! シャキーン!」
「ふっふっふ、貴様の剣が我に届くかな。はっ! シュイン! シュイン!」
「タスケテー!」
不動は少し離れた場所で人形遊びをする三人を見た。
立花と川島、そして最初に人形を買ってくれた女の子である。
客が少なくなってから、立花と川島は店の近くで遊んでいた女の子と商品の人形を使って遊び始めたのである。
「これでトドメだ! 必殺コズミックスパイラルオメガ!」
「ぐあああ! 見事だ、勇者! だが、我はまだ変身を三つ残している! 最終的に一千万パワーに達する我に勝てるかな?」
まだまだ終わる様子がない。
そんな彼らに不動は声をかける。
「もう、店じまいなんだけど」
「だったらむしろいいじゃねぇか、遊んでても」
そうだけど。
と思いつつ、不動は「いいんですか?」と前田を見た。
前田は「いいよ」と手を振って答えた。
いいならいいか、と不動は溜息を吐いた。
前田と一緒に、店じまいする。
それが終わる頃になると、第四形態になった川島の人形がついに倒される所だった。
「楽しかった?」
「うん。カレン、すごく楽しかったよ」
不動が声をかけると、女の子が笑顔で答える。
どうやらこの子は、カレンという名前らしい。
「お姉ちゃんも一緒だったらよかったのに」
「いや、僕は……まぁいいか。今度はそうしようかな。どっちかが店番してくれるなら」
そういうと、立花と川島は苦笑した。
「もう、遅いから帰った方がいいよ。お父さんが心配する」
「うん。またね」
カレンが手を振って、帰っていく。
「すごく楽しそうだったね」
「まぁ、プラモとかでブンドドはよくしてたからな。お前はそういう事しなかったか?」
「僕は塗装して飾っておくタイプだったから。ゲート処理大好きなんだ」
「わかんねぇや」
立花はニッパーとか使わなさそうだな、と思いながら荷馬車に戻った。
その途中、川島が声をかけてくる。
「それよりおまえさぁ、笑顔で喋る時はいつもより声が高くなるのな」
「そうなの?」
「可愛かったぜ」
「……」
道中。
荷馬車内での事。
「猪鹿蝶」
「げっ!」
「こいこい」
「ふん、後悔するなよ」
「月見酒。花見酒」
「げげっ!」
「こいはしない」
「そんな事言わずにしろよ!」
川島を相手に、不動は容赦なく勝ちをもらった。
荷馬車での時間、三人は川島の持ってきた花札で遊んでいた。
御者をしていない時の暇つぶしである。
今は立花が御者をしているので、不動は川島と遊んでいた。
「おまえ強すぎないか?」
「二人が弱すぎるだけだと思う」
不動は立花と川島を相手に、圧倒的な勝利を収めていた。
「こういう時ほど、能力を上手く使いこなせていない事が悔やまれるな」
「そういえば、川島の能力って何?」
「一言で言えば悪魔の力だな」
「悪魔の力?」
不動が問い返すと、川島は笑みの形に作った口からかすかに炎を漏らした。
「72柱の悪魔。その名前を関する能力があってな。その一つが俺の能力だ」
「どの悪魔なの?」
「アモン」
不動も知っている名前だった。
「日本人には比較的知名度のある名前だよな」
「まぁね。自分の苗字のせいで、何度かあのキャラクターの名前で呼ばれた事があるよ」
「ああ、なるほど」
不動の言葉に納得して、川島は笑う。
「アモンって実際どういう力を持っているの? 名前だけしか知らないんだ」
「もっとも強大な悪魔って肩書きがあるな。炎が吐けて、未来と過去を透視する。使いこなせてないけどな」
だからさっき悔やんでいたのか、と不動は納得する。
未来が見えるなら、花札ではとても有利だろう。
「でも、この力の面白い所は、能力者が知っている限りのアモンという存在が扱える能力を備えているって事だな」
「……どういう意味?」
「さっきお前が想像したキャラクター。その能力を全部使える。多分、基本的なアモンの能力に加えて、俺が知っている創作物のアモンの能力も使えるって事だ」
「翼を出せたり、破壊力のあるチョップができたり?」
「そういう事だな。まぁどれもまだ、あんまり使いこなせねぇんだが……。余分な能力がついてるから、扱いが難しくなってるのかもな」
使用者の知識によって付随された能力。
いろいろな能力があるものだ、と不動は思った。
「まぁ、お前が特別見えにくいってのもあるんだけどな」
「そうなの?」
「ああ。お前と、それに関わっている人間は見えにくい」
「ふぅん」
都市に着き、不動達はそれぞれに露店を開いて商いを行った。
結果は皆上々であり、前田からも太鼓判を押された。
あとはまた村々で商売を行いながら、来た道を辿って帰るだけである。
その道中の荷馬車内にて、不動は木を削って人形の顔を彫っていた。
「器用なもんだな」
それを見ていた立花が声をかける。
「こういうのは得意だ。それに、道具が良い」
不動が手にしているのは、亮二の剣と同じ材質のナイフだ。
本来は投擲用の物だが、刃の小ささが幸いして彫刻にも適していた。
木の表面に滑らせれば、さした抵抗もなく木が削れる。
「それ、どうするんだ?」
「カレンちゃんに売ろうと思って」
「あの子に?」
不動は小さく頷く。
「前に売った人形は高価なものだったからね。僕の手作りなら、安くつくだろ?」
人形は顔や手足などの先端部分を木で、その他の胴体などを柔らかな布と綿で作る予定だ。
どれも売れ残りの商品で、本来なら値段もつかないようなものである。
元手が殆どタダなので、かなり安く売れるはずだ。
前田にもそれならいいと許可は得てある。
「喜ぶと思うぜ」
「だと嬉しい」
「俺も、また一緒に遊ぶとしようかな」
またサボるのか。
と不動は思ったが、まぁいいかと店番を引き受ける決意をした。
不動達は、国境の砦へさしかかろうとしていた。
その先には、始めの村がある。
それは往復一ヶ月を経た授業が終わろうとしているという事でもあった。
「木だけでよくここまで可愛らしく作れるもんだな」
「顔がシンプルだからね。リアル系のフィギュアは流石に無理だ」
「十分だけどな」
「レジンとかを成型できればばもっと可愛く作れたんだけど」
「レジン?」
「あーブラシとフレッシュ系塗料がほしい」
「……新鮮なブラシ?」
荷馬車が砦に到着する。
すると、砦には前とは違うぴりぴりとした雰囲気があった。
人が慌しく動き、チェックも入念だった。
「何かあったんですか?」
その様子を不思議に思った前田が訊ねる。
「近隣の村が盗賊に襲われたんだ」
襲われた村は、これから向かう予定の場所。
カレンの住む村だった。
村は国境の砦が近い事もあり、そこに勤める兵士達が定期的に巡回する場所であった。
この辺りの盗賊はそれを承知しており、あの村を襲う事はまず考えられなかったという。
しかし、今回は運悪く巡回のない日を上手く衝かれて村を襲われたそうだった。
無法に襲われた村の惨状は、前に来た村と同じだと思えなかった。
軒並み壊された家々の扉、道には蹲る女性、未だに片付けられていない遺体。
その光景に不動は、愕然としていた。
無力感を覚え、手が震える。
何と評していいのかわからない気持ちに心が満たされ、体は竦んだ。
そして再認識した。
つくづく自分は、誰も救う事ができないのだ、と。
もっと早く村へ立ち寄れたなら、何かできたかもしれない。
根拠のない考えだ。
しかし考えずにはいられない。
村を見て回り、兵士達によって村人の遺体が並べられた場所を見つける。
そこに、跪く立花の姿と共に。
近づくと、彼の前には見覚えのある顔が横たえられていた。
カレン。
開かれたままの目は、もはや濁りきって輝きが残っていない。
切り裂かれ、血に汚れた衣服。
命がそこに宿っていない事は明白である。
「おかしなもんだな」
立花が背中を向けたまま不動へ語りかける。
「知ってたはずなんだよ。この世界に召喚されて、人間がどんな残酷な生き物なのか。なのに、今の今までそれを忘れてた。信じられねぇ。どうしてこんな事ができるんだ、って驚いちまってる」
振り返った立花は涙を流していた。
不動は何も言えず、改めて周囲を見た。
カレンだけじゃない。
他にも子供の遺体がいくつもあった。
産まれて間もない赤ん坊も、その子を抱いていた女性もそこに横たわっている。
「今、僕達にできる事をしよう」
それしかできない。
起こってしまった事は、どのようにも変える事はできない。
「そうだな……」
隠せない無力感を帯びた声が返される。
村では砦の兵士達が事後処理を行っていたが、その作業は遅々として進んでいない。
その動きが緩慢に見えるのは、やるせなさがそうさせているのかもしれなかった。
きっと彼らも無力感を覚えているのだろう。
不動達は、その手伝いを申し出た。
荒らされた家々を検分し、遺体を運び、生存者に食事を配った。
その内に日は暮れて、不動達は村の中で一夜を明かす事になった。
真夜中。
一番に気付いたのは不動だった。
心身ともに疲れきっていたはずだった。
いつもなら、朝まで覚めないような疲れ。
けれど、ふと目が覚めた。
荷馬車の中を見回し、立花の姿が無い事に気付く。
不動は外へ出る。
周囲を見回すが、やはり立花の姿はない。
まさか、とある予感が過ぎる。
不動は手早く装備を整える。
その時に、立花の装備が無い事にも気付いた。
昼間の内に、不動達は痕跡を見つけていた。
村人のものとは違う痕跡を。
無遠慮に家々を荒らした靴跡。
地面に残る馬蹄。
それらはこの村を襲った盗賊達の物だ。
発見してしまえば、追跡する事は可能だった。
それがどれだけかすかなものであろうと、それを追うための技術を不動も立花も学んでいる。
不動はその一つを追い、村の外へ駆け出した。
痕跡を確認しながら、不動はそれを追う。
その間に夜は明け、昼に差しかかろうとしていた。
そして、森林の奥に隠れる朽ちかけた砦を発見する。
侵入に、注意を払う必要が無い事はすぐにわかった。
見張り台の下には死体が倒れ、そこに首がない事を確認する。
斬り口は正面から……。
忍び寄って斬ったのではない。
物見台の上にある見張りの首を正面から斬り捨てられる人間。
心当たりは一人しか居ない。
不動は砦の中へ入った。
中は無人。
いや、人だった物は進む途中で散見できる。
そのどれもが、一刀の元に斬り伏せられていた。
そして、不動は砦の奥で彼を見つけた。
今まさに、盗賊の首を斬り落とす最中の立花を……。
命乞いをする盗賊の首が、何の躊躇いもなく斬り離される。
「立花……」
不動の声に、立花が彼を見る。
「この世界の人間を殺したのか?」
「悪いか? こんなクズ共も殺しちゃいけないのか」
不動は答えられなかった。
立花の心情は痛いほどよくわかる。
自分の信念はそれを否定しているが、自分の感情はその彼の行動を否定できない。
「人を不幸にする人間は許せない。お前はそう言った。今までの俺は、本当の意味でその言葉の意味を理解していなかった。でも今、その気持ちを実感しているよ。だが不動、お前とは違う。俺は、召喚者もこの世界の人間も関係なく、許せない人間はぶち殺してやりたい」
そう気付いたんだよ。
と、立花は小さく呟く。
立花は、この世界の人間を殺した。
この世界の人間を不幸にする人間。
それは不動にとって、憎むべき敵だ。
殺すべき相手だ。
なら、目の前の立花はその条件に合致するのではないか?
だが……。
「不動、人は人だ。どんな国、どんな世界にも、悪い奴はいる。そこに何の違いがあるっていうんだ。今回の事で、十分にわかった事だろうが!」
最後の盗賊を殺した立花は、剣を鞘に納めると不動のいる方へ向かってくる。
不動は剣の柄に手をかけた。
が……。
剣を抜く事はできなかった。
隣を通り過ぎていく立花を、不動は顔を俯けたまま見逃し……。
不意にその顔を上げた。
剣を抜き、立花に振るう。
立花はそれを察知し、不動の間合いから離れた。
刃が空を切り、立花も剣を抜く。
盗賊達を殺してやりたいという気持ちはあった。
でも、盗賊達は多分この世界の人間だ。
直接手を下すわけにはいかない。
罪人であったとしても、裁きを下すならこの世界の人間に委ねるべきだ。
その考えに至り、頼り、不動は剣を抜き放った。
自分は殺さなければならない。
この世界の人間を不幸にする召喚者を……。
だから殺さなければならない。
ここで殺せなければ、今後も殺せない。
相手も、自分の心も……。
この世界の人間を不幸にした召喚者。
それを例外なく殺すという覚悟が持てなくなる。
そう思えた。
対峙した二人は、構えを取り合う。
そして、剣を振るい合った。
「やめろ!」
声が響き、誰かが二人の間に割り込む。
川島である。
薙がれた立花の剣は川島の右腕に受け止められて火花が散る。
しかし、不動の剣は川島の拳を縦に割り裂き、肘まで到達して止まった。
締められた筋肉によって側面から挟む事で不動の剣を止めたようである。
「朝になっていないからびっくりしたぜ。まったく、何してるんだよ。おまえら」
そう軽い調子で言う川島の声には、安堵の色があった。
「俺が飛べなきゃ間に合わない所だぜ」
笑いながら言う川島の姿は、いつもと違っていた。
翼が生え、所々が変形している。
「やめろよ? お前ら。もう、これ以上はやめろ……。人死にはもう十分だろう」
「川島……」
立花は剣へ込めた力を抜き、不動も剣を川島の腕から抜いた。
縦に裂かれた川島の腕が、すぐに回復して元に戻る。
「帰ろうぜ。二人とも」
あの一件以来、不動と立花は言葉を交わす事がなかった。
その機会もなかった。
施設へ戻るとすぐに立花は施設を出ていった。
不動はさらに半年ほど技術を学んでから、施設を出た。
そして現在。
義憤同盟には、この世界の人間を殺した召喚者が何人もいる。
この世には、殺されるべき人間が存在している。
そこにこの世界の人間か召喚者かという区別は無い。
どんな国、どんな世界にも、悪い奴はいる。
それは不動にも納得できる理屈だ。
そして、暗殺の依頼をされる人間は概ね、殺されるべき人間なのだ。
だから、看過している。
それは自分が同盟のルールに従い、そして現実に迎合した結果なのか、もしくはあの時に立花を斬れなかった事で覚悟を持てていないからなのか……。
不動自身にもわからない。
例外を作る事で、彼を見逃す理由にしていたという事も考えられる。
だとしても、彼は例外ではなくなった。
依頼にない人間を立花は、自分の意思で殺した。
それはもう、暗殺者ではない。
ただの人殺しであり、標的とされる側の人間の所業だ。
もはや、殺すしかないのだ。
ある町で、立花は人通りの中へ紛れるようにして歩いていた。
陽気に笑う彼の面影は、そこにない。
こけた頬に、鋭い目、その下の隈、口角は下を向き、髭は伸び放題だった。
荒んでいる。
身も心も……。
一目見て、それがわかる。
人相の変わり様を見れば、彼の歩んできた道が決して楽な物でなかった事がうかがえる。
不意に、立花は右足の痛みに襲われる。
立花は周囲へ視線をやったが、特に怪しい人物はいなかった。
人通りから離れ、痛みの元を診る。
ふくらはぎに傷ができていた。
それもただの傷じゃない。
紫色に変色し、肉も盛り上がっている。
「毒、か……」
魔法で解毒を試みる。
しかし、効果を発揮する様子はなかった。
ただの毒じゃない。
デルギーネの加護を付与した物だ。
デルギーネの加護を受けた物は、クルメルトの加護を受けた解毒薬で治せる。
この時のために、解毒薬は常備していたが……。
立花が持ち物を探ると、それらの解毒薬が軒並み無くなっていた。
彼の口から、小さく笑いが漏れる。
容赦がねぇな……。
さぁ、これからどうするか。
彼には二つの助かる道がある。
一つは隠れ処に置いてある解毒薬を使う。
もう一つは、クルメルトの教会で解毒してもらう。
少し考え、隠れ処へ戻る事を決めた。
クルメルトの教会は、暗殺ギルドの関係者がいる可能性がある。
そちらで待ち伏せされる事も考えられた。
一秒ごとに削れて行く意識の中、立花は隠れ処へ向けて歩く。
辿り着く頃には歩く事すら困難な状態となり、意識も混濁し始めていた。
部屋のドアを開け、そして動きを止める。
独特の臭いが充満する部屋。
床には割れたビンが散らばっていた。
ビンの中身が何であったか、その臭いで目的の解毒剤だとわかる。
そして、部屋の奥には椅子へ腰掛ける一人の男がいた。
「不動……」
「久しぶり」
不動は静かに言った。
「ああ。そうだな」
答える立花。
その直後、彼は這い蹲るように倒れた。
不動が自分の前に姿を現した。
能力的に不利だと思う相手にそうしたという事は、もはや自分に助かる道は残されていないのだろう。
立花はそう悟る。
「遅かれ早かれ、こうなる事はわかってた。お前でよかったよ」
「どうして、あの人を殺したんだ?」
呟く立花を無視するように、不動は問いかけた。
「……見るに耐えない物を見て、堪えきれぬ怒りを覚え、そしてその怒りをぶつけてきた。その行き着く先があれだと思えば……笑っちまうな」
問われ、事の経緯を思い出した立花は明瞭とは言いがたい返答をする。
「答えろ。何故、カレンの父親を殺したんだ」
立花が殺したのは、カレンの父親だった。
娘のために、無理をして高価な人形を買い与えたあの父親だ。
彼が依頼もなく殺したのは、その父親だった。
「お前が知る必要なんてねぇよ」
拒絶するように、立花は答えた。
「なぁ不動。俺は、ヒーローには向いてなかったよ……。何が難しいって……善悪の判断を着けるのが難しいんだよ……」
最後にそう独白するように言うと、立花は毒によって事切れた。
暗殺者ギルドのロビー。
不動はテーブル席に着き、強い酒を飲んでいた。
普段、彼は自ら進んでアルコールの類を飲む事はない。
しかしその日は、仕事の報告をしてからずっと酒を飲み続けていた。
その向かいの席へ、無遠慮に座る人物があった。
「よぉ」
「川島か……」
顔を上げてその人物を確認し、名を呼ぶ。
「立花を殺したらしいな」
「ああ」
答え、不動は川島から顔を逸らした。
「そうか……。仕方ねぇ事だけどな。それでも、踏み止まってほしかったよ」
「彼は道を外した」
「わかってるさ。仕方ねぇって言っただろ」
しばし、二人の間に沈黙が流れる。
その沈黙を破ったのは川島の方だった。
「俺がその場に居られればよかったんだがな。でも、お前に関わる人間の未来は見え難い」
「昔、そんな事を言っていたな」
「何故なのかは最近わかったけどな。本当は、どんな人間も未来を見る事は難しいんだ。未来は、選択によって変わる物だから。その分岐点までは見えても、それ以降は見えないものなんだ。お前の分岐点はどういうわけか多すぎる。だから見通せないのさ」
言って、川島は苦笑する。
「あの時も見えていたんだ。二人が剣を持って対峙する未来が……。そこから先が見えなくて、でもどうしても止めたくて俺はお前達についていった」
不動と立花の関係が完全に断たれたあの日の事だ、と不動は思い至った。
あの時、川島がいなければどうなっていたか……。
きっと、どちらかが死んでいただろう。
「あの時は止められたから、今回も止めたかった」
「……今回は止められなかったさ」
「そうでもないと思うぜ」
いやに確信のこもった声で言われ、不動は川島を見やった。
「立花の動向調査をしていたのは俺だ。過去を透視する能力は、こういう時にうってつけだからな」
「それで?」
「立花がカレンちゃんの父親を殺したのは、盗賊の手引きをして村へ入れたのがそいつだったからだ」
不動の目が大きく見開かれた。
「その見返りに報酬を貰うつもりだった。カレンちゃんも売るつもりだったんだとさ。けど、カレンちゃんは逃げようとして殺されてしまった。その事を知った立花が、その怒りをぶつけた。これが事件のあらましだ」
不動は顔を俯け、深く息を吐き出した。
「立花はその事を話さなかったか?」
「……ああ」
「お前を気遣ったのかもしれないな。でも悪いが俺は、お前に知っていてほしいよ。あいつがお前に誤解されたままってのは、寂しいからな」
不動は席を立った。
「どこへ?」
「少し、酔いを醒ましてくる」
そう言い残し、不動はシャワールームへ向かった。
頭から熱い湯を浴びる。
排水溝に吸い込まれる湯をぼんやりと眺め、体を湯に打たせ続け……。
そして唐突に、壁のタイルを殴り割った。
傷ついた拳からは血が雫となって落ち、流れの中に落ちて滲み消えていった。




