前編
剣を振る。
首が落ちる。
剣を振る。
血の花が咲く。
剣を振り続ければ、命が散り続ける。
最初は、足並みを揃えて襲い掛かってきた兵士達も、今はちりぢりに襲ってくるようになった。
もうこうなれば何も警戒する事はない。
近づく端から斬っていけばいいだけだ。
斬り進めていけばいいだけだ。
これまでに、何人斬ったかわからない。
ただただ、自分を殺そうとする相手を斬り続けてきた。
それは俺が、この国にとって犯罪者だから。
だから、皆が俺を罰するために襲い掛かってくる。
でも、罰を受けているのは誰だろう。
罰を受けるはずなのは多分俺だ。
なのに罰を与える人間ばかりが死んでいく。
何故俺は、こうしているのか……。
わからない。
それでも俺は、こうする事を選んだ。
理屈ばかりで人は動かない。
思案の末が行動を決めるわけではない。
動きたいと思う方向に、人は自然と動くようになっている。
それを俺は今理解し、実感していた。
わからないままに俺は選び、今動き続けているのだから。
俺は前の世界で、警察官をしていた。
そうなるしかなかったから……。
俺は小さな頃から、剣道を習っていた。
好きでやっていたわけじゃなくて、お父さんがそうしなさいと言ったからだ。
俺には剣道の才能があったらしい。
年齢別の大会では負けた事がなく、いつも優勝していたから多分あったんだろう。
でも、それだけだった。
それ以外は、何もかも他人よりも劣っていた。
愚図で、間抜けで、役立たず。
ただ剣道だけが上手だった。
そんな人間が大人になって、生きていくにはどうすればいいのか……。
剣道で生きていくという事は難しい。
道場を開こうにも、どうやって開けばいいかわからない。
少なくとも、剣道で戦っているだけでは開けない。
剣道だけでは生きていけない。
でも俺には、剣道以外に得意な事なんてなかった。
やりたいと思う事もなかった。
とりあえず親に言われるまま大学に進学して、卒業が近づき……。
進路に迷っていると、同じ道場に通っていた周防先輩から誘いがあった。
「なぁ、仙崎。お前、警察官にならないか?」
周防先輩は面倒見の良い先輩で、歳の離れた俺の事も可愛がってくれた。
先輩は刑事だった。
そんな先輩からの誘いである。
「なります」
誘われた俺は、特に迷う事無くそう返事をした。
警察官になるのは難しい事ばかりだった。
勉強は大変だったし、教場は厳しい所だった。
それでも、何をすればいいのかで迷うよりも、難しくとも何をすればいいかわかっている方が俺には楽な事だった。
そうして俺は警察官になった。
先輩と同じ殺人課の刑事になって、それからも先輩は俺の事を気にかけてくれた。
何度か家に呼ばれて、ご飯をご馳走になる事もあった。
先輩には奥さんがいて、子供が二人いた。
やんちゃ盛りの男の子と生まれたばかりの女の子だ。
そんな周防先輩が死んだのは、俺が刑事になってから一年ほど経った頃の事だ。
先輩と俺は、ある殺人事件を追っていた。
猟奇殺人と呼ばれるような事件だ。
犯人は何人も人を殺していた。
被害者を拘束して、足の裏に小さな傷をつけて放置するのだ。
ポタポタと雫が落ちる程度の小さな傷だ。
そこから少しずつ血が失われて、少しずつ弱らせて殺すのだ。
それも餓死しないように最低限の食事を与え、ゆっくりと失血死させる。
そんな殺し方をする犯人だった。
死体はどれもやつれていて、どれも綺麗な死に方をしていた。
先輩と俺は根気強く手がかりを追って、ついにその犯人を追い詰めた。
犯人は一人殺す度、被害者を監禁するアジトを変えていた。
そのアジトは殆どが廃墟など、人に使われていない建物ばかりだった。
そしてそのアジトはどれも、被害者が行方を眩ませた場所から離れていなかった。
周防先輩は、犯人の好む被害者像に特定のパターンがあるという事に気付いた。
そのパターンと最近行方不明になった人物をすり合わせ、犯人の標的になったであろう人物を探し当てた。
あとはその人物がいなくなる前の行動を調べて、拉致後のアジトを特定したのだ。
周防先輩と俺は、二人でそのアジトへ乗り込んだ。
その時はまだ先輩の憶測でしかなく、応援を呼ぶ事はできなかったから。
そして、先輩の憶測は当たっていた。
被害者を見つけたのだ。
その部屋に、犯人はいなかった。
けれど……。
被害者の拘束を解いている時に、入り口から物音がした。
誰かが駆けていく足音が夜の廃墟に響く。
運良く留守にしていた犯人が戻ってきて、俺達に気付いて逃げ出したのだ。
「仙崎! 俺は奴を追う! お前は被害者と脱出して、応援を呼べ!」
「はい!」
俺は先輩に従って、言う通りにした。
その結果……。
周防先輩は死ぬ事になった。
応援の刑事達と廃墟へ入った時、周防先輩は首を切られていた。
その傷は小さかったが、大きな血管を正確に傷つけていた。
大量に失血し、それが原因で死んだのだ。
犯人は逃走。
それから、ピタリと犯行は止まった。
先輩の葬儀で、俺は先輩の家族を見た。
奥さんは泣いていた。
息子さんも、必死に堪えようとはしていたが涙を流していた
まだ赤ん坊だった娘さんだけは、奥さんに抱かれて眠っていた。
その姿を見て、俺は焼香だけ済ませて葬儀場を出て行った。
逃げ出すように……。
声をかける事はできなかった。
それからすぐに、警察を辞めた。
何で、先輩は死ななくてはいけなかったのだろう?
この国の最高刑は死刑だ。
死ぬ事は一番厳しい罰だ。
なら、先輩は罰を受けたのだろうか?
悪い事をしていたのは、先輩ではなく犯人なのに……。
あの時、何で先輩と一緒に行かなかったんだろうか……。
一緒に行っていれば、先輩は死なずに済んだかもしれないのに……。
俺はただただ先輩の言葉に従って、それを疑いもせず行動に移した。
それが正しいと思った。
いや、わずらわしいと思ったんだ。
自分で考える事が。
誰かに従って生きる事が自分にとっては楽だったから、あの時も先輩の言う通りにしていれば大丈夫だろうと思って助けに行くという発想が自分にはなかった。
俺は、何で警察を辞めたのだろう?
先輩が死んで辛かったから?
先輩の家族に申し訳ないと思ったから?
警察になろうと誘ってくれた先輩がいなくなったから……。
従う相手がいなくなったから、辞めただけなのかもしれない。
誰かに何かを言われなければ、自分では何もできない。
俺はなんて、役立たずなんだろう……。
そんな事を思い、家から出られない生活を送っていた時だった。
俺は、異世界へと召喚された。
異世界に召喚された俺は、戦奴として戦場に駆り出された。
武器と防具を与えられ、戦う事を強要された。
けれど、辛いとは思わなかった。
人を殺す事に、俺は驚くほど何の抵抗もなかった。
食事も毎日与えられる。
何をすればいいのか、誰かが指示をしてくれる。
指示に従っていれば、それだけでいい。
剣道は、得意であるが好きだったわけじゃない。
それでも、ここでの生活でとても役に立った。
どうやら俺は、チートという能力を持っているらしかった。
名前は忘れたが、生き残る事に特化したクラスだったはずだ。
このチートという能力はレベルアップやスキルポイントを使って強くなっていくものだった。
けれど、何に振り分ければいいのかさっぱりわからなかった。
しかも、ファイターやらマジシャンやら、いくつかのクラスに分かれていてさらによくわからない。
幸い、同じクラスの能力者が同じ隊にいて、その人物に教わってスキルポイントを振り分ける事にしていた。
それとは別に、俺には剣術スキルSという物が最初からあった。
他の召喚者に聞いたけれど、他に持っている人間がいなかったので俺だけにあったようだ。
「お、これは凄い能力だ。死んでも、体力1で一度だけ復活だってよ。一日一回限定だが、それを考えても本当にチートだな。お前もとっておけよ」
「わかった」
その男は面倒見の良い人で、いろいろとお勧めのスキルを教えてくれた。
どんなスキルを取ったのか殆ど忘れてしまったが、その復活スキルの説明だけはしっかりと憶えていた。
とても印象に残る出来事があったからだ。
俺と同じくそのスキルを取った男は、敵に胴体を真っ二つにされて死んだのだ。
「俺は、死んだはずじゃ……。ああ、復活スキルか……。でも、意味のないスキルだな……」
男は復活した。
しかし、真っ二つになった体は治らなかった。
生き返っても、致命傷がそのままであればまたすぐに死ぬだけだ。
「余計に苦しむだけじゃねぇか……。すまねぇ、余計なスキルを覚えさせちまったな……」
そう俺に詫びて、男は死んだ。
それ以来、俺はスキルポイントを使っていない。
何を選んでいいのか、わからなかったから。
その男だけでなく、同じ隊の人間が何人も死んでいった。
召喚者はこの世界の人間よりも圧倒的に強い存在らしい。
だから、戦奴として使われる。
それはまた、相手も同じ。
戦争で有利に戦うため、多くの人間が召喚され、戦争に参加させられた。
召喚され、どれだけ経ったかわからない。
いつしか俺は、召喚者部隊の中でも古株になっていた。
従順であるから、と首輪を外してもらえた。
首輪は召喚者の自由を奪う物で、何かあった時爆発する仕組みになっていた。
戦争が終われば、市民権もくれるという。
その市民権がほしかったわけじゃない。
でも俺は戦争に参加し続けた。
ここから逃げ出しても、何をしていいのかわからなかったから。
何も考えずに、敵だとわかる人間を殺し続ける方が俺には楽だった。
そして、戦争は終わった。
殺し続けていたら、殺す敵がいなくなった。
俺にはまた、やる事がなくなった。
行き場が無くて、とりあえず上司だった男の部下として仕事をしていたが、戦う事しかできない俺は平和な世の中では平凡以下の存在だった。
役立たず。
そう、同僚に陰口を叩かれるのを何度も聞いた。
実際にその通りだと、俺はその都度思った。
そして俺は、国境警備の仕事へ回される事になった。
その仕事は、俺の性に合っていた。
ずっと馬車に揺られていたから、勤務先は国のどの場所にあるのかわからない。
そんな場所にある砦で毎日隣国の領土を見張り、時折出没する盗賊を討伐する仕事だ。
剣が振れるなら、その方がずっといい。
砦での日々が何年か続いたある日の事だった。
「私と結婚してください!」
ある女性から、そう告白された。
相手は、近くの村に住む女性だった。
女性とは顔見知りだった。
近隣の村々を視察する任務の時に、何度か顔を合わせている。
村を訪れれば、いつも声をかけてくれる人だった。
それは好意を持っての事だったらしい。
俺の何が気に入ったのかは知らない。
俺はそんな彼女を受け入れた。
断る理由もなかったから。
そうして俺は所帯を持った。
俺は砦の寮を引き払い、彼女の住む村で家を買った。
使う事があまりなかったので、いつの間にかそれだけの貯金があった。
その家から砦へ通うようになった。
彼女は明るい性格で、からからとよく笑う人だった。
料理が上手で、家に帰ると毎日美味しい料理を振舞ってくれた。
夕食が終わると、ソファーに二人で座って話をした。
殆どは、彼女がその日にあった事を話し聞かせてくれるばかりで……。
けれど、時折俺に砦であった事を聞かせて欲しいとせがんだ。
俺は話があまり上手じゃなくて、きっとつまらなかっただろう。
毎日のように事件があったわけでもない。
それでも彼女は、俺の話を楽しそうに聞いてくれた。
そんな毎日が続いて、俺と彼女の間に子供が産まれた。
「ほら、お父さんだよ」
産婆さんに言われて部屋へ入ると、ベッドの上に座る妻がそう言った。
「女の子だって」
髪の色は黒かった。
彼女の髪の色は薄い金髪だったから、これは俺の遺伝だ。
なんとなく、俺は赤ん坊へ手を伸ばした。
頭や顔、その体を撫でていく。
手を撫でると、その小さな手が俺の小指を掴んだ。
「やっと笑ってくれたね」
彼女は俺に、そう言った。
彼女の村が盗賊に襲われたのは、その数日後だった。
俺が仕事で村を留守にしている時の事だった。
昼間、国境の監視をしている最中に村が襲われたという報せが入った。
討伐隊が編制され、俺もそこに加わった。
すぐに村へ向かい……。
そこに、俺の知る村の風景はなかった。
村人の死体。
血に濡れる路面。
家から放り出された家財道具。
「センザキ! 自宅に行け!」
隊長がそう言ってくれたから、俺は自宅へ走った。
入り口は他の家と同様に壊されていた。
中に入ると、家財道具は壊されたり、倒されたりしていた。
そんな家の中を探すと、二つの死体を見つけた。
女性と赤ん坊の死体だ。
多分、彼女だろう。
俺は側に寄り、跪いた。
彼女の膨れた頬を撫で、その手で近くに転がっていた赤ん坊の頬も撫でた。
どちらも冷たかった。
赤ん坊の手を撫でる。
もう、その小さな手が俺の指を握り返す事はなかった。
それからどれだけそうしていたのだろうか?
「センザキ」
隊長が呼びに来るまで、俺は家の中にいた。
二つの死体を前にしていた俺を見て、隊長は泣き出しそうな表情になった。
隊長は何か言葉をかけようとして、しかし言葉が出ないようだった。
結局、何も言わずに家を出て行った。
しばらくして、俺も家を出た。
そのまま、村の外へ向けて歩き出す。
「どこへ行くんだ?」
隊長に呼び止められる。
一度立ち止まり、口を開こうとする。
けれど、答えらる言葉が思いつかない事に気付いてそのまま黙り込んだ。
再び、背を向けて歩き出す。
隊長もそれ以上何も言わなかった。
俺はどこまでも歩いていった。
どこかへ行きたいわけじゃない。
何かをしたいわけでもない。
もう、何もない。
ただただ、歩き続けていた。
街道を行き、森へ入り、川を渡り……。
目的もなく歩いた。
腹が減れば動物を狩り、野草を採って飢えを凌いだ。
盗賊が立ち塞がれば斬って捨て、持ち物に食べ物があれば貰った。
この世界では、剣が使えれば生きていけるんだな。
前の世界とは違う。
そんな事を思った。
そして歩き続ける間、昔の事を思い出すようになった。
先輩が亡くなった時の事だ。
残された家族。
奥さんと二人の子供。
あの人達も、こんな気持ちだったんだろうか?
ある日の事。
街道で盗賊に襲われる馬車を見かけた。
商人の乗るようなものではなく、貴族が移動用に使うような馬車だ。
護衛らしき兵士達が応戦しているが、盗賊の方が優勢のようだった。
ほどなくして、押し切られるだろう。
自分が襲われているわけではない。
そう思って、素通りしようとした。
すると、馬車の中から一人の女性が飛び出した。
劣勢であると悟って、自分の足で逃げようとしたのだろう。
そしてその女性は、何かを大事そうに抱きかかえていた。
それが何かを視認した時、俺は動いていた。
その女性へ向けて。
彼女へ手を伸ばそうとする盗賊へ向けて。
距離を詰め、その頭を斬り飛ばした。
女性を庇うようにして立つ。
「何だおまえ!」
他の盗賊達が俺を囲み、怒鳴る。
俺は答えず、一番距離の近い一人を斬り殺した。
続いて、別の盗賊を斬り殺す。
次々に、殺していく。
盗賊が最後の一人になるのに、それほど時間はかからなかった。
そして最後の一人だとわかると、俺はその盗賊を殴り倒した。
馬乗りになり、剣の柄で殴りつける。
何度も何度も、拳と柄で殴った。
頬骨を砕き、顎を砕き、鉢を割り、殴り続けた。
どうしてそうしたのかわからない。
気付けばそうしていた。
男が死ぬまで……。
死んでも、殴り続けた。
「もう、死んでいます!」
女性の声に、そちらを向く。
子供を抱いた女性は、怯えた様子で俺を見ていた。
「あなたは……助けてくださったのですか?」
「……わからない」
女性の問いに、俺は素直に答えた。
助けた女性は、貴族の奥様だった。
俺は彼女を家まで送り届けた。
そこは知らない国の知らない町だった。
いつの間にか俺は、歩き続けているうちに元の国から出ていたらしい。
彼女を無事に送り届けると、その貴族から歓待を受ける事になった。
「この度は、ありがとうございました」
貴族の男は、そう言って深く頭を下げた。
頭を上げると、彼は俺と視線を合わせる。
貴族と呼ばれる人間には、この世界に来てから何度か会った。
けれど、こうして俺と視線を合わせようとする貴族は初めてだった。
「あなたがいなければ、私の妻も娘も死んでいた事でしょう」
「偶然です」
助けるつもりもなかった。
どうして、あんな事をしたのかもいまいち憶えていない。
気付けば、俺は盗賊を殺していた。
だから、そんな答えしか返せなかった。
「なら、その偶然に感謝しなければなりませんね」
「……」
「食事を用意させました。さぁ、どうぞ」
そう言って案内された食堂で、俺はご馳走をいただく事になった。
食卓には、貴族とその奥様も同席していた。
赤ん坊は居なかった。
三人で食事をする。
一品ずつ出される料理はどれも美味しかった。
この世界に来てから、こんなに手の込んだ料理は食べた事がなかった。
「それでセンザキ殿は、どちらから参られたのですか?」
「どこからかはわからない。国の名前を覚えていないから……。歩いていたら、ここまで来ていた」
ただ、この国の名前とは違ったと思う。
だから、いつの間にか国境を越えたのだろう。
「その前は、別の世界にいた」
「あなたは召喚者なのですか?」
驚いた顔で貴族は訊ね返した。
俺は頷く。
「そうですか……。旅の途中のようですが、どこを目指しているのですか?」
問われ、俺は首を横に振る。
「どこにも行く所はない。ただ、歩いていただけだ」
「そうなのですか……」
答えると、貴族は少し考え込む素振りを見せてから口を開く。
「あなたさえよければ、食客としてうちに招きたいのですが? どうでしょう?」
貴族の申し出に、奥様が不安そうな表情をした。
「恥ずかしながら、うちは貴族といえどあまり裕福な方ではありません。馬車を守っていた私兵をご覧になったならお解かりでしょうが、家には武勇に優れた者がいないのです」
「そうなんですか」
「なので、あなたの武勇を我が家のために使っていただきたいのです」
やりたい事などない。
何をしていいのかもわからない。
断る理由はなかった。
「わかりました。そうします」
「ありがとうございます」
貴族は、嬉しそうに笑った。
俺は部屋を与えられた。
久しぶりに風呂へ入り、ベッドの上へ寝転がる。
眠れなかった。
歩き続けている間は、眠りたくなるまでずっと歩き続けていた。
歩き続けて、眠りたくなれば昼でも夜でも関係なく眠る。
そんな毎日だった。
だからかもしれない。
夜になっても眠れる気がしなかった。
今日の料理の事を思い出す。
美味しい料理だった。
でもその料理の記憶は、すぐに別の料理に取って代わる。
肉はあまりなくて、あっても小さなベーコンの一切れが入っているだけの野菜スープ。
硬くて食べにくいパンをそのスープに浸して食べる。
それがいつもの食事だった。
たまに奮発して、シチューが出る事もあった。
もう一度食べたい……。
そう思えたのは、そっちの料理だった。
俺はベッドから下り、部屋を出た。
当てもなく、廊下を歩く。
廊下には、月明かりが窓枠の形に差し込んでいた。
大きな屋敷だ。
でも、貴族の中では裕福ではないらしい。
すると、泣き声が聞こえてくる。
赤ん坊の泣き声だ。
気付けば、そちらへ足が向いていた。
泣き声のする一室からは、灯りが漏れていた。
「お嬢様の面倒はわたくし達が見ます。奥様はお休みください」
「いいの。今日だけは、この子のそばにいてあげたいの。こうしていられる幸せがとても尊く感じられるから……」
「奥様……」
そんな会話が聞こえてくる。
その部屋へ入った。
中には、奥様と数人のメイドがいた。
室内の全員が緊張しているのがわかった。
「センザキ、様?」
中でも、一番緊張しているのは、奥様だった。
「泣き声が聞こえたので」
「耳障りでしたか?」
「いえ……」
答え、赤ん坊へ近づいていく。
奥様は咄嗟に、俺から赤ん坊を遠ざけるように抱いた。
「……少しでいいです。その子を抱かせてほしい。……いや、触れるだけでもいいので」
奥様はすぐに答えなかった。
そして……。
「……触れるだけでしたら」
そう言って、恐る恐るこちらへ泣き続ける赤ん坊を差し出した。
「ありがとうございます」
礼を言って、赤ん坊の方へ手をやった。
頬を撫で、体を撫で、手を撫でていく。
すると、俺の小指をその小さな手が握った。
とても強い力だった。
その握り心地が気に入ったのだろうか?
赤ん坊は泣き止んだ。
「どうなさいました?」
心配するような声色で、奥様は訊ねた。
「何の事でしょう?」
「泣いておられますよ。センザキ様」
どうしてなのだろうか?
俺には答えられなかった。
「この子の名前は?」
「ユスティニアです」
「ユスティニア……」
俺は教えられたその名前を何度も心の中で呟いた。
あの子には、名前をつけてあげられなかったなぁ。
食客となって数ヶ月。
この家の名前がタロンである事と、貴族の名前がガスパール様である事。
奥様の名前がジョゼフィーヌ様である事を覚えた。
この数ヶ月は特に、何も変わった事はなかった。
護衛のために何度か、旦那様や奥様についてどこかへ出かける事はあったが、剣を振るような事はなかった。
変わった事があるとすれば、奥様の警戒が少しずつ緩んできた事だろうか。
お嬢様は毎夜夜泣きする。
俺はその声を聞きつけてその都度会いに行くという事を続けていた。
普段、夜泣きの世話はメイドさんに任せているらしく、奥様がお嬢様をあやしている事はあまりない。
だから、メイドさんとは顔を合わせている内になんとなく仲良くなっている気がしていた。
お嬢様は俺の指がお気に入りらしく、指を握らせれば不思議と泣き止んだ。
そのためか、俺が来るとメイドさん達は嬉しそうな顔をする。
その話が奥様にも伝わっていたのかもしれない。
「子供が好きなんですか?」
ある日、お嬢様に指を握らせていると、彼女を抱いていたメイドさんが訊ねた。
夜泣きの世話は当番で決めているらしく、毎日世話をするメイドさんが違っていた。
今日のメイドさんは、赤毛の子だ。
赤毛は一人しかいないので、なんとなくこの子だけ印象に残っている。
名前はメアリというらしい。
「わからない」
「え?」
驚かれた。
何も言わないでいると、会話が途切れた。
「……じゃあ、どうして毎日来るんです?」
「泣き声が聞こえたら来る。毎日じゃない」
「それじゃあ毎日ですよ?」
毎日夜泣きしていたのか。
気付かなかった。
「やっぱり、子供が好きなんですよ。センザキ様は」
「そうなのかな?」
「そうですよ」
俺はお嬢様を見る。
お嬢様はもう眠っていた。
「私達としては、センザキ様が来てくれるとすぐに泣き止んでくださるので嬉しいんですけどね」
「ならよかった」
平穏な日々を過ごしていたある日の事だった。
俺はその日、旦那様の護衛で王城へ同行していた。
控え室で待っていると、旦那様が慌てた様子で部屋へ戻ってきた。
「大変な事になった」
「どうされました?」
「隣国と戦争になるらしい。貴族は皆、参戦せねばならない。我が家も出兵せねば……」
「そうですか。じゃあ、頑張ります」
不安そうな様子だった旦那様は、表情を取り繕って笑顔を向けた。
「そうでした。あなたがいてくれるのですね」
「はい。戦いなら、助けになれます」
「お願いします」
そして、ガスパール様と俺は戦地へ向かう事になった。
家を出る時。
「無事に帰ってきてくださいませ」
目を涙で潤ませ、お嬢様を抱いた奥様は旦那様にそう言った。
旦那様は鎧を着込んでいる。
あまり似合わない。
「もちろんだ。センザキ様もいる」
「そうですね」
奥様は俺を見る。
「どうか、夫をお願いします」
「わかりました」
「あなたの強さは知っています。了承してくださり、少し安心しました」
奥様はそう言って表情を和らげた。
再び、奥様は旦那様と話し始める。
俺の所に、メアリが心配そうに近づいてきた。
「大丈夫なの?」
「何が?」
「戦えるの?」
「慣れてるから大丈夫」
「そう……。ちゃんと帰ってきてね。あなたがいないと……お嬢様をあやすのも大変なんだから」
「わかった」
そんなやり取りを最後に、屋敷を出た。
戦いの部隊になったのは、平野である。
そこに両軍の兵士達が互いの陣営を作り、ずらりと並んでいる。
どこを見ても視界のどこかに兵士が見える。
平野はそれだけ大勢の人で溢れていた。
陣営の中には一際大きなテントがあって、現地に到着した旦那様と俺はそこへ向かった。
テントの中には、百人以上の鎧を着た男達がいた。
それだけ大勢が中にいても広さを感じられる、そんなテントだった。
「これはガスパール殿」
旦那様を見かけて、男の一人が声をかけてくる。
「どうも、メルビン殿」
旦那様は男に小さく頭を下げて返す。
そのやり取りが始まってから、周囲の男達がこちらに意識を向けた。
そういう気配を俺は感じ取った。
「あなたも参加していたのだな」
「臣下全員の招集でありますれば」
「そうだったな。兵は何人連れてまいられたのかな?」
「どうにか、五百を集めて参りました」
「五百ですと?」
メルビンという男は、大げさに驚いて見せた。
すると、周囲から小さく笑いが起こった。
「訊き間違いではなく?」
「はい……。我が家の兵は五百です」
「それで戦になりますかな? まさか、出し惜しんでおられるのでは?」
「いえ、そのような事は……。これがうちの財力で集める事のできる限界でして……」
申し訳なさそうに、俯きがちに旦那様は答える。
「財がないと? とはいえ、同程度の領地を持つディクセン殿も二千の兵で参じているのですよ」
「とはいえ、私は領地の経営が不得手でありまして……」
「何、税を増やせばよいだけの事です」
「いえ、これでも戦のためにいつもより多く税を取ったのです。徴兵で若者も取り上げてしまった。これ以上は民の生活に差し障りがあります」
「お優しい事ですな。しかし、領民などこのような時のために飼ってやっているようなものでしょう」
「しかし……」
言いよどむ旦那様に、メルビンは笑みを浮かべて口を開く。
「まぁ、人の領地に干渉するのもよろしくありませんな。その五百の兵士だけでも、十分に陛下のお役に立てるとそう思っての事なのでしょう」
メルビンの言葉に、旦那様は顔を上げる。
「……はい! それはもちろん。兵は少なくありますが、全身全霊をかけて陛下への忠義を示したいと思います」
旦那様が答えるとメルビンは頷き、その場を離れていった。
「五百の兵で何ができるというのか」
「それをああも大言を吐くとはな。笑わせてくれる」
「何、メルビン殿の取り計らいよ。この場を和ませるためのな」
こそこそと他の貴族達が笑い混じりに話す声が聞こえる。
ここは、嫌な場所だ……。
少しして、テントの奥から黄金の鎧を着た男が出てきた。
頭に王冠を被っているから、王様かもしれない。
「よく集まってくれたな。まもなく、会戦となる。皆の奮戦を期待しているぞ」
王様は、短く全員を激励する。
「陛下。一つ提案があるのですが」
王様に声をかけたのは、メルビンだった。
「ガスパール殿は五百の手勢しか集められなかったそうです」
メルビンが言うと、王様は顔を顰めた。
「しかし、今回の戦においては全身全霊を以って挑み、その忠義を示したいと申しております」
「ほう……。真か?」
王様は旦那様にそう問いかけた。
「は、はい! 少ない手勢である分、全身全霊をかける所存です!」
メルビンはその言葉に笑みを浮かべる。
王様へ再び提案する。
「その意気を汲み取り、活躍の場を用意するべきかと存じます」
「活躍の場とは?」
「無論、最前線です。そこでならば、彼も存分にその忠誠心を示せる事でしょう」
旦那様が息を呑んだ。
「と、いう話だが……。どうする?」
王様は視線だけを旦那様へ向け、そう問いかける。
「も、もちろん! 私は自分の言葉を違えるつもりはございません!」
「では、さっそく前線へ手勢を移動させるがいい」
「かしこまりました!」
青い顔になりながらも返事をし、旦那様はテントの外へと出て行く。
俺もそれに続いた。
その去り際……。
「撤回すればただの笑い話となったものを、死を選ぶとはな」
「いや、これはこれで十分に笑える話よ」
そんな声がテントの中から聞こえてきた。
声の中には、王様の声も混じっていた。
「申し訳ない事をした」
隣を歩く俺に、旦那様は謝った。
「何の事でしょう?」
「前線に出れば、生きて帰れぬかもしれません。それに巻き込んでしまった」
「戦いは、全員殺せば勝ちです。場所は関係ありません」
青い顔のまま、旦那様は笑ってみせる。
「このような時に冗談を仰られるとは……。流石は、あなたのような剣豪は違いますな」
俺としては冗談を言ったつもりなどない。
今までの経験から、戦いとはそういう物だと本気で思っていた。
戦いは、戦える者がいなくなれば勝ちだ。
殺すか、戦いたくないと思わせれば、戦える者はいなくなる。
そういうものだ。
負けそうになっても逃げればいい。
死なずに戦い続ければ、いずれは勝てるのだから。
「……逃げてくださっても構いません」
旦那様が、弱弱しい声で言った。
「逃げる時は旦那様も一緒です。あなたを守ると約束しましたから」
「そうですか……。ありがとうございます」
旦那様は、俯く。
その顔から、ぽとりぽとりと雫が落ちた。
何で泣いているんだろう?
旦那様の気持ちがわからないまま、手勢と共に前線へと移動した。
それからほどなくして、戦いは始まった。
そういう取り決めがあるのか、互いに鐘を鳴らす。
「全軍! 進め!」
その音を合図に、王様の号令がかかった。
号令は何人かの伝令の口を介して、陣中に伝わっていく。
俺達のいる場所にまでそれが伝わった。
「進め!」
馬上にある旦那様の号令で、うちの兵士達も進み始める。
すると敵側の陣も動き始める。
両者の距離が縮まっていく。
「前に出ます。陣を極力固めて防御に徹してください」
接敵する間際、俺はそう言って陣の先頭へ向かった。
「センザキ殿?」
旦那様の声を背に、剣を抜いて先頭へ躍り出る。
同時に、目に映った敵兵と相対する。
槍を持って突撃してくる男を袈裟に斬った。
一人、前に出る俺は目立つのか。
数人が俺へ向けて攻撃を仕掛けてくる。
それらの攻撃を避け、受け流し、逆に斬り殺していく。
「一瞬で、三人が……!」
「動きが見えない!」
迫り来る敵に対して作業のようにそれを繰り返し、時折旦那様を気にかける。
五百の兵士は敵の数を思えば心許ないが、守りに集中すればそれなりに持ってくれそうだった。
「陣が崩れたぞ! そこから攻めろ!」
それでも、陣の兵士が倒されればそこを隙として、陣が破られそうになる。
それを見つけると、俺はそこへ向かって攻め入る敵を相手に戦う。
陣の綻びは次々にできたが、そのたびにそこへ駆けつけて戦った。
「くっ、こいつめ! どこから沸いて出た! ぐあっ!」
俺は旦那様の陣の周囲を駆け回るようにして、戦い続けた。
そのかいがあってか、旦那様の陣の被害は少なかった。
陣を維持し続ける事はできそうだ。
この陣が機能する限り、この程度の敵が相手なら旦那様を連れて逃げる必要もないだろう。
戦いの最中、剣が折れた。
長年使っていた物なので、仕方ないだろう。
だけど、昔の戦いではよくあった事だ。
それが何年も今の剣が持ったという事は、それだけの間、俺は戦いから遠ざかっていたという事だ。
昔は木刀を使っていたためか、俺の斬り方は叩くものに近かった。
だから、多少血で切れ味が鈍っても関係がない。
しかし無駄に力が入ってしまい、剣への負担が大きかった。
「剣が折れた!」
「今だ! 囲み殺せ!」
剣が折れた事に気付いた敵兵達が、俺を囲んで一気に攻めてくる。
俺は折れた剣を投げつけて敵を殺すと、その殺した敵から剣を奪って別の敵を斬りつけた。
「こいつ、剣を奪って……!」
それから、何時間か戦い続ける頃になると、敵兵がこちらを露骨に避けるようになってきた。
相対する敵は居るが、攻めてこず遠巻きにこちらを見るようになる。
旦那様の陣もまだ健在だ。
陣の周囲には斬り捨てた敵の死体が積み上がり、防塁のようになっていた。
それもあるから、攻め入りにくいというのもあるのだろう。
敵は旦那様の陣を避け、後ろの陣へ向かって攻めている。
今の旦那様の陣は、川中にある中州のようだった。
後ろの味方が戦う中、俺達の陣はまるで平和そのものだ。
俺は、敵の本陣へ目を向けた。
今なら攻め入る事もできる。
けれど、俺の役目は旦那様を守る事だ。
攻めてくる敵がいないなら、このままでいるべきだろう。
「センザキ殿」
声をかけられる。
見ると、旦那様が陣を出て俺の近くまで来ていた。
「危険ですので、戻ってください」
「ですが、敵が避けてくれている今が攻め入る好機に思えます? 行けますか?」
「……そうですね。ですが、どこまで行けるかはわかりません」
「なら、行ける所まで行きましょう。後背で戦う味方のためにも、その方が良いでしょう」
「わかりました。ですが、危なくなったら旦那様の安全を優先して逃げます」
「ええ、お願いします」
旦那様が陣の中へ戻り、部隊が敵陣へ前進を始める。
俺は陣の先頭を行く。
「攻めてきたぞ!」
進み始めると、敵兵が再び攻めてくるようになった。
やはり、王様の近くというものは敵の層も厚い。
「我が名はロイ! 尋常に勝負しろ!」
敵の部隊長らしき人物に勝負を仕掛けられた。
突き入れられた槍の穂先を斬り落とし、ついでに首も斬り落とした。
「ロイ様がやられた!」
「あの常勝将軍のロイ様が……」
それを機に、こちらへ向かう敵の勢いが緩んだ。
その隙に敵陣奥へ切り込んでいく。
そうして敵兵を斬り殺しながら進み、旦那様の陣は敵の本陣まで辿り着いた。
敵の総大将が指揮する部隊となれば、流石に戦いを避けるような事はなかった。
「これ以上、敵の前進を許すな!」
「王を守れ!」
敵は必死になってこちらを押し留めようとする。
そんな敵兵士を斬り捨てて行く。
旦那様の安全を優先しているため思うように進めないが、それでも少しずつ本陣の中央へと近づいていく。
敵の中に、一人だけ立派な鎧を着けた男を見つけた。
あれが総大将だろう。
その男を見ていると、視線が合った。
男の息を呑む様子が見て取れた。
強引に行けば討ち取れる。
でも、その間旦那様は無防備だ。
そんな事を考えていると、男は何かを近くの誰かに言った。
「撤退だ!」
という声が、敵陣のあちこちから上がった。
それを合図に、敵の兵士達が撤退を始めた。
「どうしましょうか?」
旦那様から声をかけられる。
「というと?」
「追撃をかけた方がいいでしょうか?」
俺は後方を見る。
味方の陣は遥か後方で敵と交戦していたようだ。
この陣だけがあまりにも突出しすぎている。
そして、どこもあまり旗色は良くなさそうだ。
敵の撤退に合わせ、追撃に出ようとする部隊がない。
「やめた方がいいです」
「そうですか。あなたが言うなら、そうなのでしょうね」
こうして、戦いは終わった。
この戦いで、旦那様は英雄として国中に名が知れ渡るようになった。
戦の最中に戦死した幾名かの貴族達。
その領地を拝領する事となった。
戦死した貴族の中には、メルビンの名もあった。
その一戦で戦争は終わり、また国は平和になった。
前にいた国は一度だけでなく、長く戦いが続いていたので少し驚いた。




