第七十五話 リブラとの出会い
「コラッ! どっかいけッ!」
人間の声がした。
ひたひたがすぅっと遠くなる。怖い気配が消える。途端、周りが明るくなった気がした。
……気がしたのではなく、実際、周りは明るくなっていた。
そこは綺麗な場所だった。
湿原だ。
大きな川のようになった水溜まりが、地平線の向こうまでずっと続いている。たくさんの鳥の群れが、煌めく水面をすいすいと泳いでいる。それほど背の高くない、緑の眩しい木が、一休みするように枝を川面へ垂れている。
「キレイだな」
隣でリデルを見下ろしていたのは、幼い人間の女の子だった。
リデルは側に人間がいるのと、変わり果てた景色とに、驚きを隠せない。
「あんたは……」
ん……!? しゃべれる……!?
リデルは、自分が言葉を発したことに驚く。
一方、人間はそれを全く意に介していない様子でニコッと微笑み、問いに答えた。
「わたしは『天秤』」
「テンビン?」
「おう」
「変わった名前だね」
「名前じゃねえよ。私はリブラだ」
「リブラが名前なんだ。俺はリデル」
「リデルだな。よろしく」
リデルは頷いた。
白い鳥が、群れになって水面を蹴り、空へ飛び立っていく。
それを見ていて、突然、何かを忘れている気がした。
なんだろうか。何か、誰かに頼まれごとをしていたような気がする。
「どうした?」
リブラが顔を覗き込んできた。
「ううん、別に」
リデルはふと振り返った。
そこには、のっぺりと闇が広がっている。縦に、横に、巨大な壁のように立ちはだかっている。
しかし目を戻すと、そこは美しい湿原だ。
どうやら、リデルのいるこの場所が、闇と光の境界線になっているようだった。
「あんまり暗いところに行っちゃダメだからな。迷子になっちまうし、あいつらが遊びたいって寄ってくるから」
リブラが少し面倒くさそうに言う。
「あいつらって……あの黒い生き物?」
「そう。なぜかは分からないけど、ここにはよく居るんだ」
リデルは、あの牙を思い出してゾッとした。あれはリデルにとって、初めて獲物の気分を味わった瞬間だった。
「なあ、リデルは今までどこにいたんだ? まさか、動物がここにいるなんて思わなかった」
「動物がいないのか……? あそこの鳥は?」
「鳥? ああ、あの飛んでる生き物か? あれはリデルの記憶だな、たぶん。私も初めて見たからなんとも言えねえけど」
「記憶?」
「そう。この景色だって、リデルの記憶から作られてる。こんな景色、一度でも見たことないか?」
「……似たような所なら。でもこんなに綺麗じゃなかった気がする」
「じゃあ、それだけリデルが『綺麗だ』って思ったんだろうな。初めてこれを見たとき」
オオカミと幼女はしばらく湿原を眺めていたが、やがてリブラが立ち上がり、付いてくるよう言ってきた。
「家へ来いよ。ここは危ないからさ」
「危ない?」
すると、突然大木がひしゃげたような、とてつもなく大きな音が轟いた。
見ると、湿原に大きな地割れが走り、わずかに張られていた水が呆気なく吸い込まれて行っている。そしてその水は、空から降ってきて、また地割れへと吸い込まれていく。
「ほらな。巻き込まれたら上から下へ、上から下へって永遠に落ち続けちゃうぞ」
リブラは脅かすように言う。
それは嫌だと首を振る。ここは一体全体どうなってるのだろう。
「あの、ここは……」
「とにかくここを離れるぞ」
質問は虚しくも遮られる。
「家、来るだろ? 初めてのお客さんだ、手厚くもてなすよ」
断ろうと思ったが、リブラは何やらプランを立て始めたようで、リデルは付いていくほかなくなってしまった。




