第七十四話 リデル幼少期
森の中。陽光が木々の間から淡く差し込み、生き物たちの喉を潤す泉の水面が、その透き通ったエメラルドグリーンをピカピカと煌めかせている。
この森は、人間の里から遠く離れた未開の地。生態系は保存され、種々は各々弱肉強食という絶対の摂理に従いながら、各自の生活を営んでいた。
大木の、巨人のような太い幹の周りを、ひらひらと蝶が宙を舞っている。黒い蝶だ。カラスのような不吉な黒が、全身を包み込んでいる。それが羽ばたき、空気とじゃれ合うように辺りを飛び回る。ふと羽ばたきが弱くなって、疲れたように高度を下げて行く。そして一休みに手頃な所——たまたまそこに居たオオカミの鼻に止まると、そのオオカミは鼻をムズムズさせて、くしゃみを一つ飛ばした。蝶が大災害に遭ったみたいに慌てて飛び去っていく。
オオカミは目で蝶を追ったが、それが食べられないことくらいは幼い彼でも十分知っていた。オオカミは鱗粉を前足で払いながら、名残惜しそうに蝶が大木の陰に消えていくのを見送る。彼は今暇を持て余していた。
遠吠えが聞こえて、幼いオオカミは耳をそばだてた。方向を聞き定めると、そちらへ跳ねるように駆けていく。
着いたのは、オオカミの家族が拠点としている場所であった。
周りと比べて一際大きな木の、大きな洞穴にふらっと入ると、そこには少し歳を重ねたように見えるメスのオオカミが、地面の上に寝そべっていた。
遠吠えは、彼女のものだった。
母親はオオカミを見つけると、
「リデル、ちょっとご飯を取ってきてくれない?」
そう頼んでくる。
リデルはちらっと、母の膨らんだ腹を見やった。
「大人には頼まないの?」
いつも、この辺りには群れの大人が何人かいるはずだ。
「それが、今日はみんな忙しいみたいなの。もっと良い住処が無いか、探しに行ってるみたいで。リデル、悪いけどお願いできる?」
リデルは首肯しかねた。
母は病弱だ。妊娠し体力を消耗している今、側を離れるのは、はばかられた。とはいえ、食べ物がないと体力の回復もできない。だからリデルは狩りに行くしかないのだが、けれども、母親とお腹の妹を置いて出掛けるのは、兄になる身としてどうなのかという思いもあるのである。
しかしすぐに、母のそばにただ寄り添っていても、なんの意味もないということに気付き、リデルは後ろ髪引かれる思いで、獲物探しに出た。
この森のことはよく知っている。だから迷うことはほとんどない。
そう思っていたので、リデルはずんずん奥へと進んでいった。
しかし途中、ウサギを発見し、跳ねる動きにつられてウサギを追いかけてしまった。一種の遊び感覚である。
で、辺りを見回すと。
そこは見知らぬ場所であった。
いつの間にか暗くなってきたと思ってはいたのだが、てっきり木の茂り加減によるものだと考えていた。
しかし、実際は、辺りが真っ暗になっていたのである。数歩先も見えない。足を踏み出すのが怖く、キョロキョロ辺りを見回すしかない。
ここはどこ?
幼い心に恐怖が芽生えると、それは肥大化し、すぐにパニックをもたらした。
リデルは辺り構わず遠吠えを投げかけた。
返事が返ってきた。
しかし、その声は自分のものだった。虚しく声が反響している。さらに混乱し、パニックは増す。
何かが動いた。
「誰!?」
オオカミは夜目が効くが、ここまで光が無いとそれも役に立たない。
「誰なの!?」
返事はない。しかし代わりに、ひたひたと、何かが忍び寄る音が聞こえ始める。
不穏な気配に、毛が勝手に逆立つ。勝手に爪が伸びて、地面に刺さる。感触が、森のものではなくなっている。
沼?
そう思った途端、体がずぶっと沈み込み始めた。
生暖かい感触。リデルはショックに頭が真っ白になって、動けなくなってしまう。
ひたひた、忍びよる足音が近づく。
それは一つではなくなっていた。
四方八方、至る所、さらには頭上からさえも音が迫ってくる。
体は沈む。
リデルはこれが夢であってくれと願った。
しかし感覚は嘘をつかない。
と、何かが前を横切る。
黒い。闇よりも黒い、何か。
一瞬だけ姿が見えた。それは、人のような四肢を持っていて……
すると突然それは、リデルの前に現れ、その顔を眼前に突きつけた。
ギザギザの歯が並ぶ、異臭のする口が、黒に浮かぶ。
食われる。
弱肉強食に生きてきたオオカミは、直感的に思った。
食われる。
逃げないと。
しかし足は半分近く埋まってしまっていた。
抜けないし、まず体が動かせない。
死ぬ。
鋭利な歯が上下に開く。
歯が近づく。
いやだ、噛み砕かれて死ぬなんて……!
しかし抗うことはできなかった。
リデルは目を瞑る。




