第七十二話 空虚
「断る」
言い放つ。
「ほう。断る?」
「そうだ。ノモスが、もし仮に、そんな腐った組織なのだとしたら、私はそこに属したくないし、属しておく気もない。カロンになんて、なおさら入る気はない。私が尊敬していたのは、ノモスのあの正義に満ち溢れた姿だ」
「へえ。ということはノモスも抜けるのかい?」
「……そのつもりだ」
サンティアナは出来る限りの力を込め、バフォメットを見据える。
さっき見せつけられた、圧倒的な事実によって、サンティアナは打ちのめされた。信じていたものが、ほんの僅かの間に打ち砕かれ、崩れ落ち、細かく散乱して消えてしまった。胸には虚無が充満した。今、サンティアナの心は、空白で満ちている。
「リーフィエ君は?」
「私も断る。そんな組織、入ったら頭おかしくなるだろ」
バフォメットはため息をついた。
「幻滅したよ。君たちに望みをかけて、私は話をしたっていうのに」
「黙れ。私はお前を許さない。私を騙した罪は重いぞ」
空虚のままに。
自然な流れで、すぐに動けるよう足の配置を変える。
リーフィエも、手を懐に入れやすいところに持っていった。
「カロンに入れば、きっと正義なんてどうでも良くなるさ。まあ最初は人々を騙す罪悪感が無いでもないだろうが、それもじき慣れる。セントピエルだって、最初は君に隠し事をするのを嫌がってたが、結局最後は平気で君に嘘をつけるようになった。みんなそういうものだよ」
話の途中で、扉が開いて、隣からストラティオが出てきていた。十数匹が、ぞろぞろと。
バフォメットの話を聞いてからストラティオを見ると、これも悪魔のように見えた。角といい、目つきといい。
なぜ、今まで気づかなかったのか。まるで、催眠術をかけられていたかのようだ。とにかく今は、エルアザルに謝りたい気持ちで一杯だった。
サンティアナ、と、リーフィエがアイコンタクトしてきた。それから、ちらっとバフォメットを見る。手元で、五の指が開かれる。
『五秒後、バフォメットを討つ。』
その合図だ。
バフォメットは怪訝そうな顔をしている。
気付いていない? 行けるか……!?
秒読み。
四、三、二、一。
二人の連携では、いつもリーフィエが先に動く。
今回も同じ。
リーフィエが手錠を瞬時に引きちぎり、突如視界から消える。
ストラティオたちが慌てて体勢を立て直す。
次の瞬間には、リーフィエはバフォメットの後ろにいた。
なぜそんな動きが可能なのか。サンティアナには分からないが、それが天才というものなのだと思っている。
すぐリーフィエの短剣が光った。最短距離で空間が引き裂かれる。バフォメットは帽子だけ空中に残して消えた。と思うと、瞬きしたときにはそのすぐ隣にいた。見事だが、帽子を放っておくとは相当慌てたに違いない。
私はすかさず机を足で蹴飛ばした。予期せぬ攻撃法だったのか、机はバフォメットの脛に直撃した。顔を歪めたところに、リーフィエの短剣。今度はかわしきれず、腕が浅く切れる。黒い服の裂け目から、赤い血が滲み出す。
「特注の服だったんだよ? 他の世界からわざわざ……」
「時間稼ぎなど小賢しい!」
リ―フィエと同じく手錠を引きちぎったサンティアナが、机に手をつき、筋肉をバネにしてバフォメットに蹴りを入れた。バフォメットは諸に蹴りを受け、壁に打ち付けられる。
するとぼうっとしていたストラティオが、自分の使命を思い出したかのように一斉に襲いかかってきた。
二人は冷静にそれを処理し、最後の一体まで狩り尽くす。
リーフィエが、机の上の剣を手に取った。
「サンティアナ、剣を!」
剣を投げようとリーフィエが手を後ろにやる。
次の瞬間。
まるで暴風に煽られたかのようにリーフィエの体が揺らいだ。首や手足が変な方向へ曲がる。体が吹き飛び、視界から消失する。
同時に、鋼の折れる音がした。
「え……?」
目を疑う。
ガタン、と、木の落ちる音。振り返ると、何かを隠すように、額縁が落ちていた。壁に寄りかかって静止している。
混乱する。
今、何が起こったのか。
とにかく駆け寄る。
「リー……フィエ?」
多分、リーフィエはこの後ろに……。
額縁に恐る恐る手を伸ばす。黒い絵が口を開け、こちらを捉えている。黒。黒から連想されるもの。それは……。
手が額縁にかかりかけた時、突然、手が動かせなくなった。
「止めておけ」
声が降りかかる。顔を上げると、エルアザルの死を悼む表情が、目に飛び込んだ。




