第六十八話 狡猾かつ凶悪で、最も残忍な山羊の悪魔
扉を引いた。
溢れ出る光が、闇に慣れた目を覆う。何も見えなくなる。
サンティアナは息を飲む。
この中に何がいるのか。
緊張に体が強張っていた。心臓も激しく脈打つ。
目が慣れてくると、さっと視線を巡らせた。素早く、隅々にまで目を向ける。
……良かった。中には誰もいない。
警戒しながら、室内に踏み入る。室内はかなり広い。小さな子どもが数十人は走り回れそうだ。
床には赤の生地に金糸の刺繍が施されたカーペットが敷かれている。その中央には金色のソファや机。
ノモスは金色を重んじる。黄色や琥珀色もそうだ。ノモスが大事とする、財産を連想させるからだろう。
見たところ、部屋には窓がない。代わりに大きな額縁が掛かっていた。サンティアナたちを、絵画が真正面に出迎えている。腕を目一杯広げても抱え切れそうにない大きさ。中には黒が一面に塗られている。よく見ると、二つ、小さな白の点があった。
それが何を意味するのか。
サンティアナには推測しかねた。
「で? ここに誰がいるって?」
リーフィエは拍子抜けしたように両手を広げる。
「見たところは誰もいないな」
「騙されたんじゃないのか?」
リーフィエは思い出したように扉に駆け寄った。
「……ん、大丈夫だ。施錠はされてない」
罠の確認か。
「罠じゃないと思うが。パノルの震えようは本物だった」
リーフィエもそれは同感らしい。急に黙り込んだ。
そのとき、額縁に向かって右方向の扉が開いた。
出てきたのは、妙な服装をした男。ほとんどの女は間違いなく落とされてしまうであろう甘いマスクに、適度にスラリとした体型、そして放たれる奇妙なオーラ……こいつがパノルの言っていた"あの方"に間違いなさそうだった。
「すまないね、遅くなって。隣でちょっと作業をしていたんだ」
作業?
「失礼だが……その血は?」
男は自分の服を見下げた。服の裾に、赤黒いものがこびりついている。
「おっと、これは失敬……黒の生地なのによく分かったね」
「目はいい」
「なるほど」
男の目が鋭く光り、ボロボロの歯が今微かに笑った。
サンティアナは、本能が何か告げるのを聞く。
『こいつに、懐を見せてはいけない』
男は木の杖でサンティアナを指した。
「君はサンティアナだね」
少し目を見開いてしまう。
男はすっと杖を右に移動させる。
「そして君はリーフィエだ。二人ともウチの精鋭で、天才と崇められる子たち。聖職者でありながら武器を取る、数少ない勇者だ。しかし、その一方で君たちは常に嫉妬を浴びているだろう? 仲間の憎悪に、最初は苦しんだはずだ。そして今も少し気にしている」
男はスラスラとそう言ってのける。内容に間違いはない。
透視能力でもあるのだろうか? いや、あらかじめ資料を読み、そこから推測したのだろう。その余裕は十分にあったはずだ。
そうサンティアナは冷静に努める。
「無駄話はいい。早く要件を」
「まあ焦らないでくれたまえ。私の自己紹介がまだだ」
男は二人を指していた杖を下げる。それから筒の長い帽子を外し、恭しく一礼した。
「私はバフォメットという。最悪の存在だとか、狡猾の骨頂だとか言われる輩だよ」




