第七話 祓魔師アレビヤ
「もしやと思って尾行したら、案の定だったわね。ちょっと待ってなさい。すぐに元に戻すわ」
紫の女は本を開くと、ナキに向かって言葉を紡ぎ始めた。
「[聖父・聖子・聖霊の三位一体に跪け――]」
空気がぐわんと歪んだような気がした。風がどこからともなく吹いてきて、葉のざわめきが山を駆けあがるように伝播していく。同時にリデルは、体の中を揺さぶられているような感を覚える。
「[大天使聖ミカエルの裁き、ウリエルの永久の業火、主は私の力、私の盾である]」
この変化はこの紫の女が齎したものなのだろうか、そう思っていると、ナキが突然自分の喉を両手で鷲掴みにし、しゃがれた声で呻き始めた。その呻きは徐々に激しくなり、血を吐くようなものへと変わっていく。
紫の女は声を高ぶらせる。
「[聖なる神の家。悪しき者と悪を行う者の腕を折り、その悪を一つも残さないまでに探り出せ。主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り、私は救われた]」
「やめろ……&%#*¥〒§‰……やめろ……!」
リデルは悲痛に襲われる。
「おいおまえ、なにか知らんがナキをくるしめるな!」
紫の女は腰から透明な液体の入ったビンを取り外して、ナキのいる地面に投げつけた。瓶が割れ、流体がナキの体に振りかかる。ナキの声がさらに、身の底から這い上がるようなものへ変わる。
「おい、きいてるのか! いやがってるだろ、やめろよ!」
紫の女はうっとうしそうにリデルを見下ろす。
「あのね、今はあの青年に取りついた、悪霊を祓おうとしてるの。だから邪魔しないで」
紫の女はナキに向き直り、追い詰めるように声を大きくしていく。
「去れ悪魔の遣い! [悪魔に率いられし悪霊よ]、使役者の元へ帰り、二度とこの者に取り憑かぬと誓え!」
そう唱え終わった瞬間、ナキがピクリとも動かなくなった。
リデルに鳥肌が立つ。
「おまえ、なにしたんだよ!」
リデルは目に涙を浮かべるのだが、紫の女には声が聞こえていないようで、
「また失敗だわ」
とため息をついている。
リデルがナキのそばへ駆け寄り、心臓に耳を当てた。耳の場所を間違えて頭を押し付けてしまい、ナキがぐふっと声を上げた。
「……だいじょうぶそうだ」
「ええ、悪霊は去ったわ。誓いを立てさせることはできなかったけれど」
紫の女は本を腰のホルダーに戻しながら、落ち着いてそう言う。
「なあ、ナキになにがあったんだ? アクリョウってなんのはなしをしてる?」
落ち着きなさい、と紫の女は話し始める。
「まず、あなたのお兄さんは悪霊につかれていたわ。悪霊というのはつまり、人間の体に入って悪さをする奴らね」
女が幼女のため、簡単に説明しようとしているのが分かった。ナキはお兄さんではないが。
「なんでそのアクリョウが入ってきたんだ?」
「さあ。心に弱いところのある人に取り憑くと言われてるけど、実際のところはよく分かってないの。本当に悪魔が地獄から来てるのかすらも」
「アクマ……あのおんなもゆってたな」
「悪魔っていうのは、ずる賢くてとても恐ろしい存在よ。姿形は様々で、子どもとかヤギとか、色々なのがいるわ。まあ、悪霊を何十倍も強くした奴らと覚えておけばいいんじゃない? あなたみたいな子どもが出会うことはないと思うから」
「こどもか……」
本当は大人をとうに過ぎているのだが、とリデルは思う。
「で、さっきやったのは、その悪魔とか悪霊を追い出すための儀式よ。本当は順序があるんだけど、私は強いから省略してやってるわ。ああやって聖句……特別な言葉を口に出したり、特別な水をかけたり、十字架っていう特別な道具を使ったりして、敵にダメージを与えるの。それから出て行くよう命令するのよ。悪魔なら名前を聞きださないといけないから少し難度は上がるけど、私は強いから大丈夫」
「つよいって、やけにきょうちょうするな」
「だって強いからよ。私はどのエクソシストよりも優秀よ。いつでも頼ってちょうだい……えー。あなた名前は?」
「リデル」
いい名前ね、と女は唸る。
「あんたは?」
「アレビヤよ。あんたと違って立派な名前じゃないし、由来が由来だから、あまり好きじゃないのだけれど」
「そうなのか? いい響きだとおもうけど」
女――アレビヤは、そうかしらねと肩をすくめる。
どんな由来なのかはあまり触れてほしくなさそうだったので、聞かないでおいた。
少しして、リデルの耳にナキの眠そうな声が届く。
「うーん。僕は一体?」
ナキが起き上がり、ぼんやりと辺りを見回していた。リデルは迷わず飛びついた。
「ナキ~!」
「どうしたんですか先輩?」
先輩!? とアレビヤが後ろで驚いた。幼女を先輩と呼ぶ人間はそうそういない。
その声で、ナキがアレビヤに気づく。
「その方は?」
「アレビヤってゆうんだ」
アレビヤは自分の胸に手を当て自己紹介を始める。
「私はアレビヤ。キリスト教の司祭で、最強のエクソシストよ」
目をぱちぱちさせるナキに、リデルが補足する。
「アレビヤはナキをたすけてくれたんだ」
「助けてくれた? なんのことです?」
リデルはさっき起こったことを話した。また、勇気を出して、街で怪しい人物を見ていたことも告白した。
「首から輪っかを提げてたんですか。顔を隠してるなんて、怪しいことこのうえないですね」
「おれがとめていれば、こんなことには、ならなかったのに。すまん。いったいどこのだれなのか……」
「私、覚えあるわよ」
二人が一斉にアレビヤの方を見た。
「なっ、そんなにがっつかないでよ。やりにくいわ……。ごほん。輪っかの飾りを付けてる奴らなら、よく知ってるわ。ノモス教の人間ね」
「ノモスきょう……!」
「そんなに驚くなんて、本当に知らなかったの? あの飾りはノモス教のシンボルみたいなものじゃない。この国の人なら誰だって知ってると思ってたのだけど、意外とこういう子たちもいるのね」
やれやれと肩をすくめられる。
「ま、そいつが悪霊とどう関係してるかは知らないけど、悪霊につかれることはしばらくないと思っていいわ。エクソシストが側にいると知れたから、奴らも様子を見るはずよ。その間に、心を強く鍛えることね」
アレビヤは踵を返し、山を下ろうとする。
「おい、暗いのにだいじょうぶなのか?」
「子どもに心配される筋合いは無いわ」
アレビヤは背中を向けたまま手を振り、木々の中へと消えていった。
「……なんだかんだ色々おしえてくれて、いいひとだったな」
「助けてくれたことは感謝ですね。信用できるかは別の話ですが」
「命のおんじんなのに?」
「万が一があってはいけません」
「うーん。しんじても良いとおもうが」
ナキは立ち上がると、たき火に土を被せ始めた。
「もう寝ましょうか。明日はかなり歩くことになりそうですから」
「どこへいくんだ?」
「当てがないから長く歩くんですよ」
「あ、なるほど」
あと一息で火が消えそうなところで、あっ、とリデルが声をあげた。
「ちょっとまってくれ。ねる前にいつもしてたの、あるじゃないか。ほら、アレ」
「アレってなんです?」
「アレは……アレだよ」
リデルの顔が徐々に紅潮していく。
「だからアレじゃ分かりませんって。アレって何なんですか?」
「うぅ……! こいつ分かってるくせに!」
「ほら、具体的に言ってもらわないと」
「アレは……その……なめるんだよ」
「何を?」
「それは……」
リデルは口をうにょうにょした後、顔を真っ赤にして言った。
「アソコを……」