第六十四話 狂気との再会
ここはどこだろうか。ただ、とてつもなく暗い。夜だからか。いや、窓がないせいか。
廊下らしきこの空間に、等間隔に灯された炎が、徐々に奥へと吸い込まれていく。
体が動かせない。襟の後ろを掴まれ、無抵抗のままに体が引きずられている。
エルアザルは自分の手首を見た。鎖でがっちりと拘束されている。試しにガチャガチャとやってみたが、抜け出せる様子はない。
エルアザルは呆然として、暗闇に吸い込まれていく炎を見送る。
気がかりはサンティアナと、アレビヤたち三人であった。
恐らくこれから自分は処刑される。残された娘と彼らが、迫り来るノモスの――いや、悪魔の脅威から逃れられるのか、どうしても不安だった。
とはいうが、彼らを信じていないわけではない。
しかし、不穏な気配がするのである。
何か、遠くから、強大な存在が近づいているような、そんな危機感が……。
エルアザルは体の痛みを覚えた。そういえば、悪霊は荒々しいやり方で自分を気絶させたのだ。それに、長く引きずられていたのか、背中や臀部が擦れてヒリヒリする。
これは、自分で歩く方が良さそうだ。
そう思い、自分を引きずっている者に首を向ける。しかしそれは真後ろにいるようで、うまく見ることができない。
体を少し捻ってみると、体の下半分は見ることができた。
それは、華奢な少女の足。
意外だった。
老いたとはいえ男の体だ。重いに決まっている。だからてっきり、男が引きずっているものと思っていた。
エルアザルはもう少し上を見る。
穴だらけのスカート。
エルアザルは、驚きに目を見開く。
「……まさか。そんな。ありえない」
エルアザルは無意識に首を横に振っていた。
夢中になって体を捻り、更に上へと目線を向ける。
背中が見えた辺りで、やはりと思う。
それは、あのサラの姿にそっくりだったのである。あの、バフォメットがやってきた日、彼女はまさしくこのスカートを履いていたのだ。
さらに体を捻り、上へと目を滑らせる。
どこからどう見ても、これはサラだ。間違いない。あれだけ側にいたのだ、断言できる。
しかし、どうしてサラがここに?
もとより、どうして生きている?
彼女の首は、間違いなくこの自分の手で埋めた。それに、サラは流星によって神に迎え入れられたではないか。ここに居るはずがない。
そう気付いた途端、恐怖が押し寄せてきた。
では、この少女は一体?
エルアザルは唇を震わせながら、名を呼んだ。
「……サラ?」
返事を期待した。返事とともに、恥じらいながら、笑ってこちらを向くのではないかと。
しかし、返答はなかった。ただ自分の体が引きずられる音のみが暗闇に反響し、重なり合う。
エルアザルは二度目呼びかけたが、やはり返事はない。顔を見ようと首を向けようとするのだが、視界の限界と暗いのでよく見ることができない。
エルアザルはとうとう我慢できず、襟を掴む手を振りほどき、自由だった足で立ち上がった。後ろでサラであろう者がよろめくのが分かる。
これで、顔が分かる。
エルアザルは少しの恐怖と、一抹の希望のもとに、振り返った。
「……!!」
そこに居たのは、サラだった。
いや……正確には、サラの体がいた。
首から上には、別のものがいたのである。
子ヤギの頭だ。
太い黒の糸で縫い合わされた子ヤギの頭が、サラの華奢な体の上に当然のごとく居座っていたのだ。
どういうことか、理解できなかった。
体はサラの物だ。痩せた体型、この低身長、見違えるはずがない。
では、なぜよりにもよってヤギの頭が?
瞬間、サラを連れ去ったバフォメットの、あのセリフが蘇ってきた。
――この死体は有効活用させてもらうよ。
まさか。有効活用とは、このことだったのか。
死体に頭を縫い付け、ストラティオにするという、この信じがたい行為だったのか。
エルアザルの背筋が凍る。
同時に神を呪った。神は、サラを苦しませないと約束してくださったのではなかったのか。あの流星で、天使を遣わして……。
サラの体がエルアザルを捕まえようと手を伸ばし迫ってくる。
大人しく捕まるのが得策だった。しかし彼の感情はそれを許さず、エルアザルは無意識にその手を払いのけてしまう。
ストラティオには何か防衛機能でもあったのだろう。突然警報が鳴り響いて、赤い魔法陣が至る所で浮かび上がり、四方八方からストラティオが飛び出してきた。
あっという間に取り囲まれる。
さすがのエルアザルも、この数には両手を挙げるしかなかった。大人しく膝をつく。
すると、廊下に耳障りな声が響いた。
「久しぶりだね、エルアザル」
奥からトントンと、跳ねるような音が近づいてくる。
それが誰なのか、エルアザルには分かっていた。
ストラティオが、おずおずと左右に分かれ始める。
海を割ったモーゼのごとく、目の前に道ができる。
そこには、全身を死の黒に染めた男が立っていた。
「バフォメット……!」
「やあやあ、どうも。何十年ぶりだねえ」
バフォメットは帽子を取り、紳士的に腰を折る。禍々しい悪魔の角が見える。
「やはりお前が黒幕か!」
「さあ? なんのことだい?」
帽子を被るバフォメット。
「それよりおめでとう、やっぱり聖職者に戻ったんだね」
「お前に祝われる筋合いはない」
「でも、戻ってよかったんじゃないかい? 昔抱えていた罪悪感は拭われ、おまけにいつも神に救ってもらえる。一石二鳥だ」
バフォメットは薄っすら笑みを浮かべながら杖を振り回す。それが風を切っている。
「でも、生き残ったのは得策ではなかったようだね。あの時サラちゃんの後を追って自殺を選んでれば、ここまでの苦しみを味わうことはなかった」
「……」
不覚にも、確かにと思ってしまった。
自殺をすればよかったという意味ではない。
ただ、この苦しみから解放されるのはいつかと、ずっとエルアザルは考えてきたのだ。
教会からの追放、エスラスとの口論、孤独に包まれた旅、離婚、イアナとの決別、日に日に人との接し方を忘れていく自分……。
人生が嫌になったことなど、一度や二度ではなかった。
バフォメットは見透かしたような笑みを浮かべる。
「ふふ、君は十分生きたさ。いや、生かされたと言ったほうがいいかな。あともう少しの辛抱だよ」
「つまり、俺を処刑するんだろう?」
「そうだけど、その前にイベントを用意したんだ。こっちへ」
バフォメットが指を鳴らすと、エルアザルの手枷が砕け、床へゴトンと落ちた。
バフォメットが歩く背中ごしに手招いている。
今にも逃げだしたかったが、やはりストラティオが邪魔だった。一人ぐらいなら杖がなくとも祓えるが、これだけまとめてとなると無理がある。
(やむをえないか……)
エルアザルはストラティオに囲まれつつ、バフォメットのあとについて行った。




