第六話 人間は深淵に架けられた一本の綱である
猿が火を大きくし終わったところで、クマたちは引き上げて行った。火が必要なら枝を燃やして、寝る時は消すようにとだけ言っていった。
リデルは憂鬱であった。足取りおぼつかなく、ふらふらと火の側に座りこむ。目の前のたき火が小気味の良い音を立て、火の粉を巻き上げた。火は怖かったはずなのに、今は自然と心が温まるような気がする。
しかし、この不安は拭えない。
ナキが火の向かい側で、重々しくため息をついた。
「今日は疲れましたね。良い夢が見られそうなほどです。……そ、そういえばさっきずっと黙ってましたけど、クマのおじいさんに何か言われたんですか?」
リデルの目が泳ぐ。
「べつに……なにも。よくねろってだけ」
リデルは恐る恐る、木の枝を火にくべる。その最中も、目は憂いに曇っている。
ナキは一瞬疑わしげな目でリデルを見たが、すぐににこやかな表情になった。
「まったく、先輩は可愛いですね」
かわいいゆうな、とリデルは枝を投擲した。ナキの髪の毛に突き刺さり、そのまま埋まる。
ナキは微笑んだ。
「先輩。気を遣わなくたっていいんですよ。別に、自分が変わった事にショックなんて……受けてないですから。ほら、これが焼けたら食べてくださいね」
ナキは自分の髪から抜き取った枝で、ネズミを串刺しにしていく。
リデルはさらに胸が苦しくなった。
全て自分の責任なのだ。
勝手に家族をこっちへ移すだなんて、よく考えればやっていいはずがなかった。家族はみんな、オオカミに誇りを持っていたのに。
しかも、クマの言う悪い物、それはきっと、あの怪しげな人物の指振りだ。もし、ナキが病気になったら? それとも、何か体をいじられていたら?
群れのリーダーとして、リデルは大きな責任を感じていたのだった。そして、怪しい人物のことをナキに打ち明けるのにも、恐れを感じていた。
「せん……い! 先輩! 大丈夫ですか?」
リデルは我に返る。見るとすぐ隣にナキがいて、思わずのけぞってしまった。
「どうしたんです? ほら、焼けましたよ。人間はこうして火を通さないと、体を壊してしまうそうなんです」
「からだを……こわすのか」
リデルは香ばしい匂いのするネズミの肉を、一口食べてみた。オオカミのときより、味覚が大幅に変わっているのがわかった。あっさりとした味で、食べやすい。
「おいしい……」
そう言ったのと同時に、目から雫が零れ落ちた。ポロポロと、止まらない。
「そんなに美味しかったんですか?」
リデルは涙を拭いながら、答える。
「……そうだよ。おいしいんだ……」
自分が何故泣いているのか、わかっていた。変化というものに、初めてショックを受けたから。オオカミでなくなってしまったことが、とても悲しかったから。
「……おれは、幼女になるいぜんに……人間になっちまってたんだな……」
「……そうかもしれません」
ネズミは全てリデルの胃の中へ消え、ナキも鮭を平らげようとするところだった。
「……ごめんな。こんなことに巻き込んで」
「謝る必要無いですよ。それに、泣く必要もないです」
リデルは赤く腫らした目で、ナキをちらりと見た。
「だって、先輩が決めたことじゃないですか。家族はみんな、先輩の言うことに従ってきました。それは人間になったって、決して変わったりしません。僕たち家族は、先輩をリーダーだと認めてるんです。だから、僕たちのことで気に病んだりしないでください。もっと自信を持ってください。家族はみんな、先輩を信じてますよ」
「……そう、だろうか。おれはうかつにも、みんなをまきこんでしまったのに、それでも、しんじてくれるのか?」
「もちろんです。家族の絆、なめちゃいけませんよ」
ナキが笑顔を見せる。
リデルは目をごしごしと擦った。
「……ありがとう。そうだよな、俺はむれのリーダーなんだ。しゃんとしないと」
リデルは胸を張り、笑顔をみせた。
「そうです、それでこそ先輩ですよ」
ナキが微笑んだ、そう思ったが、その笑みはさらに深くなった。口角が半月型、三日月型へと、どんどん吊り上がっていく。
「ナキ、いいえがおだな」
ナキが笑いながら、手を振って否定する。
「いえ、これは僕の意思じゃありません! 口が勝手に笑ってるんです!」
「なにゆってんだ」
「本当です……っ!?」
ナキの体がビクンと跳ねた。
さすがにリデルも心配になる。
「だいじょうぶか?」
ナキは潤んだ目でリデルを見つめるのみで、体はその後もずっと跳ね続ける。まるで、身体をハンマーで叩かれ続けているような、奇妙な痙攣。
「だいじょうぶか!? おい、ナキ!」
鮭に当たってしまったのか、なんていう呑気な心配で近づこうとすると、突然ナキの痙攣が止まった。体が、糸の切れた人形のように、ぐったりする。
そして、ナキの顔がゆっくりと、こちらへ起こされた。
「……!」
ナキの顔は豹変していた。紫になった唇は泡まみれで、青かったはずの瞳は黒一色に染まっている。先ほどまで無かったはずの黒ずみが目の下を縁取り、皮膚は青白くなってしまっていた。
「おい、どうしたんだよ……!」
訳がわからず混乱していると、背後から声がした。
「離れなさい、君!」
振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。
腰ほどまでに伸びた紫髪、鋭い|紫眼≪しがん≫、左目下の泣きぼくろ。白のブラウスに紫のロングスカートという服装だ。首からは十字のネックレスを提げている。手には分厚い本を持っていて、腰のベルトからは瓶や鍵など様々な道具がジャラジャラとぶら下がっていた。
「最強祓魔師の私が来たからには、もう大丈夫よ! さあ悪霊、ここから立ち去りなさい!」
腰に手を当て人さし指を突きつけ、高らかにそう叫ぶ。
ハリがあって、迷いの無いその声は、森中に響き渡った。
だが、リデルはそのポーズにあの女神を重ねてしまい、まったく頼り甲斐を感じられなかった。