第五十八話 ノモスの野望
「『は?』じゃねえよ。奴らヤバいことやろうとしてるんだ」
「どんな?」
「天地がひっくり返るくらいヤバいことだ」
そう言うファルヘは、冗談を言っているとは思えない真剣な表情を浮かべている。
アレビヤが口を挟んだ。
「それほど大変なことって何なの?」
「あんたは確か異教の……なんていったか」
「アレビヤよ」
「アレビヤか。覚えとく。ヤバいことってのは、つまり奴らが『原初の世界』への扉を開こうとしてるってことだ」
「なんだそれ?」
「別名『楽園』、あるいは『天国』だとか呼ばれる場所だ」
天国。
エルアザルの話にも出てきた、天の国。
三人の空気が変わった。
「そ……それをノモスが?」
「ああ。ノモスはその天国への扉を開こうとしてる……」
ファルヘは三人を見回して、怪訝そうな顔になった。
「お前ら、喜んでないか?」
三人の体がわずかに反応する。
「そんなはずあるわけ……」
「いや、分かるね。全く、人間の欲ってのは嫌なもんだ」
ファルヘは頭を掻いた。
「天国への扉が開く。この本当の意味が分かってれば、嬉しがってもいられねえと思うんだが」
「じゃあ、何が起こるんです?」
ナキが前のめりになって聞いた。
ファルヘは嫌そうな顔になる。たぶん説明が面倒なのだろう。
ため息交じりにファルヘは問いかける。
「考えてもみろ。まず、天国ってのはそもそも何だ?」
「何不自由なく幸せに暮らせ、欲しいものは何でも手に入る世界……です」
ファルヘは一瞬沈黙した。
「……だとすると、天国とここが繋がるってのは何を意味する?」
「自由に行き来ができるようになるのでは?」
「ハッ! 甘いな。そんな話なら私はここに来てない」
つまりこの海岸にということだが、と慌てて付け足す。
「いいか? まず、天国にいるのは全員亡者だ。つまりそこには何億何千という魂が充満してる。それらの魂はどこへも行けずそこに居座り続け、天国という場所をどんどん満たしていくんだ。するとそこには膨大なエネルギーが蓄積していく。魂一つ一つのエネルギーは小さいが、集まるとそれはそれは強力なエネルギーになるだろうな。しかも天国、すなわち『原初の空間』にはこの世界だけじゃなく他の世界の魂も集まるから……」
「ほかのせかい?」
「なんだ知らないのか? ここは第84世界で、同時系列に複数存在する世界のうちの一つなんだ。俗に言うパラレルワールド……おっと、この世界ではそんな単語は無かったか」
リデルは首を傾げる。
「えっと、つまり?」
ファルヘはため息をついた。
「つまり結論を言うと、扉が開けばこの世界は飲み込まれちまうし、魂を悪魔にも利用されて大変だ、ってことだ」
リデルは腕を組んだ。
「うーん……なんとなくわかった。とにかくたいへんなんだな」
「いきなり飛躍しすぎだと思うけれど」
アレビヤが突っつくように言う。
「つべこべ言うな。お前らが分かっても、リデルが分かってなかったら意味ねえんだよ」
リデルはまた、ファルヘの獲物を狙うような目を見つけて震えた。
ナキが尋ねる。
「で、その"ヤバいこと"を阻止しろと?」
「ああ。ついでにノモス教を再起不能にしてくれ。ノモスを根本から潰し、ノモスの悪行を全国民に知らしめるんだ」
「そしてオルワイデを広めるんですね」
ファルヘは、あっと声をあげる。
「そうだなそれもあった」
ファルヘは慌てたようにコクコクと頷く。
アレビヤが不審そうな目を向けていた。
確かに一石二鳥だ、とリデルは思う。ノモス教の好き放題には、リデルも我慢ならなかった。特に同胞を死体の山にするなんてのは、許されざる行いだと思う。ここは仲間を代表して、仇を討たなければ。
「しかし、せかいのききか……あんまりピンとこないな」
ノモス教は今まで国民に嘘をついていたのだし、ファルヘの言うようなことが計画されていてもおかしくはない……かもしれない。
しかし、リデルはここで初めてファルヘに疑念を抱いていた。自分は既に魔法とか動く骨とかを見ているのだし、今の話に関して無理はないとは思うのだが――ただ、ファルヘは何か重要な情報をこちらに差し出していないような気がするのである。
リデルはナキとアレビヤを見上げた。二人とも、目は完全にファルヘを疑っている。
(……とうぜんだよな)
ナキはもともと疑い深い性格だったし、アレビヤはファルヘを異教徒扱いしているから、こんな突飛な話を信じろといっても無理がある。
ファルヘもそれを予期していたようで、どうしたもんかと腕を組んでいた。
ふと、ファルヘの頬に黒い液体がこびり付いているのが目に入った。
「ん? なんか付いてるぞ?」
「どこに?」
「ほっぺ」
右頬を指差してやると、ファルヘは手の平でゴシゴシと肌を擦った。
手の平を確認する。
一瞬、ファルヘが身を強張らせた気がした。
「多分……これは泥だな」
「泥? えらくまっくろな泥だな。沼でもいってたのか?」
「あ、ああ、ちょっとな」
沼に行く業火の神とは、めずらしい。
ファルヘは手に炎を灯すと"泥"を燃やし始めた。まるで過去の罪を忘れようとするかのように、念入りに燃やす。
リデルはまた海を見渡した。
リデルは思いついて、尋ねてみる。
「そういえばさ、ここに黒いヤツがいたはずなんだけど、見てないか? のっぽなヤツなんだけど」
「黒くてのっぽ……見てねえな」
目線が逸れた。
「そうか……どこいったんだろ」
本当に心配だった。こんなにも会えないのは、ただタイミングが悪いだけなのだろうか。
「……なんで探してるんだ?」
ファルヘが聞く。
リデルははにかんだ。
「いやさ、前にあったとき、またもういっかい会おうってやくそくしてたんだよ。あいつ独りだったから」
「独り……」
「ああ。おれも独りがいやだからさ、気持ちわかるし。一緒にいてやろうと思って」
ファルヘはしばらく沈黙していた。
「独りは……そこまで嫌なもんか?」
「いやだぞ」
「どんなふうに?」
「うーん……独りだとなんというか、世界がいっきに自分から離れていくというか……うまくゆえないけど、まわりがぜんぶ敵になるかんじがするんだ」
「……分からねえな。私はむしろ一人の方がいい」
「そうなのか?」
「私は双子という対で存在してたからな。姉とずっと一緒にいるのは、少し疲れる」
「なるほど、姐さんがいたのか」
「ああ。姉さんと私の能力は全く同じなんだ。容姿もほぼ同じ。もし髪色も一緒だったら、鏡を見てる気分だったろうな」
ファルヘはどこか遠くをみやった。
「ただ、姉さんだけは欲しいものを手に入れた……逆に、私は手に入れられなかった。私は……悔しかった」
ファルヘがリデルを見つめる。
「……思い出さねえのか? リデル?」
「へ?」
「本当に? 芝居じゃなく?」
ファルヘが突然詰め寄ってきて、リデルは困惑した。
「なんのはなしだ?」
ファルヘには聞こえず、彼女は独り言を呟いている。
「クソッ、どうしてだ……おいリデル、何か昔にあったことで、思い出せない出来事、ないのか?」
「思い出せないこと……あるにはあるが」
「それがカギだ。それが全てに繋がる。お前がここに連れてこられた理由も、男だけが側にいて女は全員遠ざけられた理由も、それを思い出せば全てわかる」
「な、何ゆってんだ?」
「なんとか、なんとか思い出して、あいつを否定してやってくれ。あいつはお前のためならなんでもしやがるんだ」
「あいつって誰だよ? というか、思い出せば理由が分かるとか、なんでそんなことファルヘが知ってるんだよ?」
「それは……」
そのとき、白の光が瞬いた。
神々しい、前にも見たことのある光。
地面に何者かが降り立つ。
それが誰か、すぐにピンと来た。
「まさか!」
「そう……そのまさか」
緑髪ツインテールの少女――イムネが、そこに立っていた。
「久しぶりね、オオカミさん?」




