第五十五話 暴走
竜が瀕死の息を漏らし、力を失った骨が四方に散らばる。
天地を貫く青の閃光に、パノルの戦場は敗北の色を呈していた。
(とてつもない力でしたわ……あれだけの悪霊が一瞬で祓われるなんて……もしあれが人間にも効果を及ぼすようになれば、かなり有効な武器になりますわね……)
ハッとして、今は今後について考えている場合ではないと思いなおす。
戦況を再認識し、パノルはヴァラクに命令した。
「撤退しますわ。早く戻りますわよ!」
しかしヴァラクは首を振った。
「嫌だね」
パノルは目を丸くする。
悪魔が命令に背くなんて、今まで聞いたことがない。
「奴らは僕を怒らせた。もう逃がさないよ」
ヴァラクは顔を紅潮させ、肩を震わせている。
「ダメですわ。ここはいったん引きますわよ」
「うるさい! 僕は奴らを殺す! 八つ裂きにする!」
「だからダメだと……」
「うるさいな!」
ヴァラクが指を動かすと、パノルの前に深い地割れが走った。
「ヴァラク……悪魔が召喚者に背くのが何を意味するか、分かってやっているのですわよね!?」
「はあ?」
「いくら抵抗しようと、こっちには、あなたとの契約がありますわ。使命を果たすまでは、私に拘束されて貰いますわよ」
ヴァラクはせせら笑った。
「あれあれ? 忘れちゃったの? あんた、契約内容なんて決めてないじゃん」
「……!」
そうか。
パノルは顔を恐怖に染める。
悪魔の召喚時、彼女は追い詰められた焦りに、召喚の手順を簡略化していたのだ。
なんて馬鹿なことをしたのかと、過去の自分を呪う。
今、ヴァラクは首輪の外れた猛犬に等しい。
ヴァラクはパノルを鼻で笑う。
「さっきまで良い子ちゃんにしてたのは、召喚を解除されたくなかったからだよ」
パノルの呼吸が荒くなる。
今すぐこいつを送り返さなければ、私の命が危ない。
しかし解除には陣が必要だ。
だが、目の前にあったはずの召喚陣は今、ヴァラクの背後に位置している。
全く気付かなかった……戦いの際、混乱に紛れて位置を変えたのだろう。
「つまり今の僕は自由。あいつを殺してもいいし、邪魔をするお前を殺しても良いってわけだ」
「くっ……!」
「ほらペット! こいつにもう一発撃ち込んでやれ!」
ペットは魔力を貯めようとしたが、集めたエネルギーはすぐ分散してしまい、上手くいかない。
というのも、この竜は頭が二つあってこそ力を発揮できる生物だった。言ってしまえば、人間が片足を失った状態と同じなのである。そんな龍が、多大な力を消耗するブレスを使えるはずがなかった。
「使えない奴め……!」
ヴァラクは顔を真っ赤にして、指を一つ鳴らした。
“ペット”が一瞬で炎に包まれ、断末魔の叫びをあげると、地面に巨体を横たえる。
燃え盛る下僕を背に、ヴァラクが地面へ着地した。
「ちぇっ、またペット買い替えなきゃ」
ヴァラクの目がパノルを捉える。
パノルは身の危険を感じ、慌てて後ずさった。しかし足がもつれ、尻もちをついてしまう。
「さて、どうやって遊ぼうかなあ」
ヴァラクはぼそぼそと独り言を呟く。
「そうだなあ、それじゃあまずは、代償を一気に頂こうか」
代償。
全身が粟立った。
悪魔といつも何の気なしに交わしている言葉なのに、いざとなると、押し寄せてくる恐怖に息が詰まりそうになる。
「や、やめて!」
「嫌だね」
ヴァラクは目を赤く光らせる。
嘘じゃない。僕は本気だ。
目がそう語りかけてくる。
「ほ、本当に私から代償を奪う気ですの?」
「そうだよ?」
「だ、だったらいっそ殺しなさい! 代償を……一気にだなんて!」
「仕方ないじゃん。殺しちゃったらエネルギー貰えないでしょ?」
「――ッ!」
じりじりと迫るヴァラク。三日月型の笑み。
パノルは立ち上がる間もなく、そのまま後ろ向きに後退する。
嫌だ嫌だ、話が違う!
涙目になって、心中で叫ぶ。
代償とはそもそもゆっくり支払っていくものではなかったのか。だから生活に支障は無いと、バフォメットはそう言っていたではないか。だから悪魔とはいえ恐れることはないと……そう言っていたではないか。
(……私は……愚かだったようですわね……)
そう思ったのと、何かが頭に当たったのは同時だった。
「よ、パノル。大丈夫か?」
パノルは覗き込む顔に目を見開く。
「あ、あなたが何故ここに……!?」
そこにいたのは、自分を見下ろす二十代後半の女性だった。相変わらず目は開いているのか閉じているのか分からない。ボブカットの赤い髪が、汗ばんだ顔の周りにまとわりついている。急いで駆けつけたのだと分かった。
彼女は親衛隊第一隊副隊長、サントアスピダ・リーフィエ・フィラクス・イシキ。サンティアナの親友であり、短剣捌きは大陸一だと言われる女だ。
ちなみにパノルが第ニ隊の副隊長で名前もより短いことから、パノルよりも彼女の方が格上だと分かる。
リーフィエは鞘から修練用のロングソードを抜き放ち、ヴァラクを威嚇しながら答える。
「ちょっとサンティアナが心配でな。で、来てみたら悪魔のご登場か? どこから湧いてきた?」
「そ、それは……」
パノルは言い淀んだ。
サンティアナとリーフィエは、イシキが悪魔を操っていることを知らない。
ノモス教内部には、一般には知らされていないカロンという組織がある。ノモスの闇に関わる組織だ。そこに属するパノルは外部にそういった情報を漏らすことを禁じられていた。
もしイシキが悪魔を操っているのだと知れれば、ノモスが築き上げてきた信徒からの信頼に傷をつけることになるし、今回は特に、強力な戦力となっているサンティアナとリーフィエを手放すようなことはしたくなかった。
とはいえ、生命の危機にある緊張に気の利いた返事はできず、
「……分かりませんわ」
と答えるのが精一杯だった。
「……うーん。まあいいさ。パノルおばさんが無事なら」
「……おばさんじゃありませんわ」
くすくすとリーフィエは笑う。悪魔を目の前にしてなぜそんな余裕があるのか、全く分からない。
「……いつまで喋ってるつもり? というか君、魂が綺麗だから近寄ってほしくないんだけど」
ヴァラクが眩しそうにリーフィエを見ていた。
つまり私は汚いということか、とパノルは思う。
特にショックは受けないが。
「リーフィエ、どうする気ですの?」
「オディギアで追い払えばいいんじゃない?」
「オ、オディギア……」
そうかそう来たか、とパノルは眉をしかめた。リーフィエはオディギアを頼りにしていたのだ。
パノルは汗を流した。
確かに、オディギアは悪魔を確実に祓える。どんな階級の、どんなに強力な悪魔でも、祓うことが可能だ。
ある条件下においてならば、であるが。
そしてその条件は今、全くと言っていいほど整っていない。
(今オディギアをさせたら、ノモスに疑念を抱かせかねませんわね……)
そうなれば、手駒を減らしたとバフォメットに殺されるかもしれない。そしてまた自分もあの姿に……。
そうこう考える内に、リーフィエがオディギアの構えに入っていた。
「だめですわ!」
咄嗟に止める。
「その……アレですわ、オディギアにはノモス様の許可が要りますでしょう?」
「こんなときに何言ってる? 殺されるぞ?」
ヴァラク当人は暇そうに足で砂を弄んでいる。最後の会話くらいはさせてやろうという気なのだろうか。
「だ、ダメですわ、その、あの……」
どうしたら良いのか考えているうちにパニックに陥ってしまう。頭が真っ白だ。
すると声が。
「おい、だいじょうぶか!?」
幼女がこちらへ走ってやってくる。
続いて紫髪の女と、ゼェゼェ息を切らせた青年も走ってきた。
「何してるのよ!? オディギアは!?」
女が面倒なことを言う。
「……アンタらは?」
リーフィエは情勢に疎い。この三人組のことも知らないらしい。
「おれたちは……ってそんなのどうでもいいだろ! おい、そこの魔女!」
「私は魔女じゃありませんわ!」
「なんでもいい、さっさと兵士つれてにげろ! 悪霊にやられてなけりゃ、まだ息してるはずだ!」
パノルは黙り込む。
到底幼女から発されるとは思えない、至極真っ当な意見……。
この幼女、やっぱり何か変だ。しゃべり方は幼女そのものなのに、熟練した何かを感じる。
そういえば親衛隊の兵士を蹴散らしたあのときの立ち回りも、異常なほど隙がなかった。
……この幼女は一体?
リーフィエも同じようなことを思ったようで、目をわずかに開けていた。
パノルにリデルが怒鳴る。
「おい、聞いてんのか! お前はりーだー失格だ、さっさと帰れ!」
「……残念だけどパノル、確かにその通りだ。お前は撤退しろ」
リーフィエはパノルの肩に手をおく。
パノルは罪悪感に駆られた。
しかし、と思い直す。
よく考えれば好都合かもしれない。代償を奪おうとするヴァラクを、エクソシストに排除してもらえる。
あとはリーフィエを一旦ヴァラクから引き剥がせば、この騒動を三人組のせいにして万事解決ではないか。
「……わかりましたわ。リーフィエ、ちょっと腰が抜けてしまったみたいなのですが……」
麓まで下ろしてもらえるかと頼む。
「別にいいが、私が抜けたらこの三人の市民はどうなる? 悪魔は今戦意喪失してるみたいだが、いつ気まぐれで殺戮を始めるか……」
「彼らは大丈夫ですわ、それより早く体制を立て直しますわよ。サンティアナに合流しないと――」
突然、背後で赤の光柱が昇る。
ヴァラクの苦痛に満ちた叫びが響き渡る。
リーフィエが、その光景に目を見開いた。この女、意外と目は大きい。
「おかしい……」
「な、何がですの?」
「だってさ、パノル。これ、オディギアでも、エクソシズムでもねえぞ?」




