第五十三話 序列第62番
アレビヤたちの前で咆哮するのは、見上げるほどの体躯を持った、青黒の竜。足踏みに地を揺らし、鱗を光らせ、黄色い液の滴る牙を口から覗かせている。
凄まじい威圧感。そして襲い来る恐怖。
これは、一筋縄ではいかない。
アレビヤが視界の端に二人を見ると、リデルは息を飲み、ナキはガチガチに固まりその場から動けないでいた。
正直、アレビヤにも少し応えている。
しかも問題なのは、その竜の頭が二つあるということだ。一つなら戦えたとは言わないが、これでは接近戦には持ち込めない。
アレビヤはほぞを噛む。
竜の右の頭に乗っかった、白い布を衣服代わりに纏った少年が、風変わりな笑い声をあげ挑発してきた。
「ヒャッハァ! 僕のペットの前で手が出ない? 腰ぬけちゃった? 腰抜けだけに? アヒャヒャヒャッ!」
彼は賢者72柱序列62番のヴァラク。悪魔の総裁で、双頭の竜を操る悪魔である。彼を召喚したのは、王国兵をリデルに根こそぎ倒され、ただ一人になってしまったパノルだ。
「さあヴァラク、彼らを捕らえるのですわ!」
パノルは少年を見上げ声をはりあげる。
「まあ、別にいいよ。代償のことはいいね?」
「承知していますわ」
「おっけー。殺していいよね?」
「ダメですわ、彼らの命をどうこうできる権利は私には無い……」
少年はよほど血に飢えていたのか、眉間にしわを寄せる。
「何? つまり何なの? 殺していいのいけないの? どっち?」
「だからダメだと……はあ」
会話が通じていないと見たのか、パノルはため息を吐いた。
「分かりましたわ、但しそこの青年は生かしておきなさい」
「なんで?」
「私が可愛がるからですわ」
パノルは共謀者の笑みを浮かべる。
「……ちぇっ、まあ二人殺れるならいいか」
少年はお尻で回転するようにこちらへ向き直り、碧眼を投げかけた。
「まさか僕を呼び出されちゃうとは、まったく残念な人たちだね」
リデルが肩をすくめる。
「お前こそ、俺たちにやられなきゃいいな」
「ちっこいのに意外に生意気言うね」
「ちっこいだと!?」
するとヴァラクが目を細めてリデルをじっと見つめた。
「お前……よく見たら加護が掛かってるな? それも、あのお方の加護だ……」
アレビヤは思い返す。
そういえば、ファルヘという神に加護をかけられたとリデルは言っていた。悪魔にとっては餌の目印にしかならないらしいが。
「ファルヘが掛けたんだ」
隠しても仕方ないと思ったのか、リデルは自分から打ち明ける。
ヴァラクは不思議そうな顔をした。
「ファルヘ……? あの野郎がここに来て加護を? オルワイデの神はこの世界に入れないだろう?」
しかし、ファルヘが現れたのは事実である。
「まあいいや。僕は別に、あのお方なんて怖くない。さあ、どれだけ生きてられるか、高みの見物といこうかな?」
少年が指笛を吹くと、その音に共鳴するかのように地面から大量の白い影が這い出てきた。
その白い影とは……骨だ。白骨化した遺体が動き出し、錆びた槍を持って現れているのである。彼らは槍で体を支え、片方の腕(だった骨)をだらんと下げると、その場に静かに立った。
リデルが仰天する。
「あれなんだ? ホネが動いてるぞ?」
「あれは多分、アバンドレであった北国との戦の犠牲者たちね。大昔からガナフィクスと北国は仲が悪かったから」
「つまり、あれはもう死んだやつら?」
「ええ、俗に言う亡者ね。悪霊が取り付いていて、死体を操ってるのよ」
「ほえー……というかなんだか……かみつきたい衝動に……」
「なんでここで野生の本能発動させてるんですか!?」
ナキがツッコむ。
「でも不思議ですね。死体には憑依のための暗示は掛けられないのでは?」
「メルベース――セントピエルが呼び出してた悪魔だけど――が、悪魔の干渉できるものが増えたと言っていたでしょう? きっとこれもその一部なのよ」
信じがたい光景ではあったが、アレビヤたちに驚いている余裕はなかった。
「ブレスです!」
ナキが竜を指差し叫ぶ。双頭の前には魔法陣が浮かび、刻まれた古代文字と、ヴァラクの紋章が光を放っていた。
「ぶれす? なんだそれ」
「祝福?」
思いついたことを言った。
「それは関係ないです、というか早く逃げないと……!」
そう話している間にヴァラクが異言語の呪文を唱え、その魔法陣をさらに強化していた。時間経過に伴い次々と魔法円は巨大化し、一行はその膨大なエネルギーを肌に感じ始める。
「たしかにこれはやばそう」
「二人とも、私の後ろへ!」
“ブレス”は発射寸前だった。リデルは硬直したナキを引きずり、言われるがままにアレビヤの背後へ入る。
竜の前では、集積されたエネルギーがさらに一点に集められ凝縮され、赤い球が形成されていた。かと思うと、それは射出され、魔法円に融合する--その瞬間、魔法円中心に深紅の煌めきが走り、耳が割れるほどの轟音とともに光線が突き抜ける!
それは追い抜きざまに木を燃やし、その熱は地を焦がしていく。あまりの力に空間が歪む。
その光線の迫り来る様子が、アレビヤにはゆっくりと再生されていた。
あるのは不安だ。
ここまで強力な攻撃を自分ごときが防げるのだろうか、そういう不安。
悪魔祓いに関しては、今まで失敗してばかりだった。だからヒントを得るため、ここまで来たのである。だがエルアザルは直接的なことは何も教えてくれなかった。数学は教わったが、正直何に役立つのか全く分からないし、他に話したことといえば料理の仕方とか、そういう日常会話だけで、ヒントになりそうなことは何一つないように思えた。
もしや何か、見落としているだけで教えてもらったことがあるのか?
……いや、あったとしても気づけなければ意味がない。
こんなことで、悪魔の膨大なエネルギーを防ぎきることなんて……。
諦めの雲がかかり始めたところで、しかしと思い直した。
今自分は二人の命を預かっているのだ。二人とも、重要な使命を果たすためにここへ来た人たちだ(オオカミだから二匹か)。
リデルは馬鹿だけど、馬鹿は馬鹿でも尊敬できる馬鹿。ナキは慎重で臆病なところもあるけれど、そこが時に可愛いと思えるし、何より頭が良い。二人から教わることは多いし、これからも教わっていくのだと思う。それに、二人はこんな私を仲間だと思ってくれてる。
だから、ここで死なせるわけには……いかない。
覚悟が決まる。
詠唱。
「[目に聖なる炎を灯せし我が主よ。その構えし口の剣で、邪悪なる炎を打ち払い給え――!]」
白のベールが三人を包み込む。衝撃に備え足に力を込める。間髪入れず、炎の柱が衝突した。目が開かないほどの熱線と足が地面にめり込むほどの怪力。気圧されながらも、必死に詠唱を続ける。
エネルギーのせめぎ合い、風が啼き、炎が散乱。木がそれに耐えかね根元から剥ぎ取られていき、灰と化していく。
苦しい。
体に力が入らなくなってきた。
これがいつまでも続くようなら、失神してしまってもおかしくない。
足がガクガクと震える。
苦しい……本当に。
しかしアレビヤの忍耐は、エルアザルとの暮らしで鍛えられていたようだった。
体が勝手に震えだすが、精神力で耐え続ける。
巨大だった竜の魔法円は魔力の限界か、今はかなり小さくなっている。魔法円がエネルギーの供給源なのだとすれば……。
もう少しの我慢で、防ぎきれる!
アレビヤは力を振り絞るように、とびきりの詠唱を編み上げた。
頑張りなさい、今の私ならこのくらい……!
リデル、ナキが呆気にとられる中、白の障壁は亀裂を走らせながらも炎を放射状に逸らせ続ける。
不意に、攻撃が止まる。
魔法円は、消えていた。
アレビヤはブレスを防ぎきったのだ。




