第四十八話 嘔吐と埋葬
それを目視した瞬間、エルアザルは嘔吐する。吐瀉物が撒き散らされる。
「あーあ。また守れなかったようだね」
エルアザルは膝から崩れ落ちた。目が痛くなるくらい溢れてくる涙と、口から出る雄叫び、吐瀉物の酸っぱい臭い、目から入ってくる赤という情報……もう何が何だか分からなかった。
「サラぁ……サラあああああああ!!」
数メートル先に横たわるのは、首だ。
サラの首。
あのえくぼの可愛らしいあの顔が、今、恐怖に固定され息絶えている。
サラは、死んだ?
認めたくない。けれど惨い現実は、確かにそこに鎮座している。
ああ、サラ、サラ、サラ!
お前まで失ったら、俺はどう生きていけばいいんだ!
慟哭するエルアザルの前では、バフォメットが軽やかにダンスを始めていた。いつの間にか手斧は杖に変わっている。
「可哀想に、また愛する人を失ってしまったんだね。でも大丈夫だ、私がサラちゃんを連れ戻して来てあげようじゃないか」
エルアザルは床に涙を落とすのみで、返事をしない。
「悲しいのはわかるよ。私も部下を神に殺された時は悲しかった……まあ生き返るんだが」
「この……が」
「なんだって?」
「この外道が……ッ!」
エルアザルは床を軋むほどに蹴り上げ、バフォメットへ殴りかかる。その拳はバフォメットの左頬へ向かう。
「お前らさえ居なければ……!」
しかし攻撃はバフォメットの体を透過し、またしてもエルアザルは体を壁に打ち付けた。少し転がったせいで、べっとりとした血が全身を塗る。
「フフ、学ばないね。私にまだ触れるとまだ思ってたのかい?」
「……」
「……もう少し、理由を知りたいっていう顔をしてもいいと思うんだが。まあいい、教えてあげよう。私がどんなプランを立てていたかをね」
バフォメットは杖を振り回しながら、同じ所を行ったり来たりし始める。
「まず、言わずもがな、私の目的は少女の魂を頂戴することだった。で、プランAは少女の口から契約を結ばせること。これは途中までは良かった。兄の話を出したら大分揺さぶれたからね。だが向こうは私を悪魔だと知ってたから、思ってたようにはいかなかった。そこで君が帰ってきたのを利用して、私を人間っぽく見せようと実体化を図ったりしてみたら、なかなか感触が良かったらしいことに気付けた。そこでプランB。気が緩んだところを狙って部下に体を乗っ取らせ、契約を結ばせようとした。そもそも兄の話に動揺してたから比較的簡単だったよ。でもまさか――」
バフォメットがカン、と杖をつく。
「エクソシストでもない君が聖句を扱えるとは。想定外だったよ。そこで急遽考えたのは、君を捕らえて、サラちゃんに自分から魂を差し出させることだった」
「……!」
「サラちゃんが君に対して色々と複雑な感情を持ってるのは見れば分かったからね。多分、兄と君を重ね合わせて、自分を身代わりにするだろうと思ったんだよ。で、まったくその通りになった!」
エルアザルは自分の中に煮え滾る怒りを抑えることに必死だった。
殺してやりたい。
こいつをバラバラに引き裂いて、灼熱の地獄へと送ってやりたい。
バフォメットはそんな思いを見透かすように笑う。
「駄目だよ、悪魔の前で心を乱しちゃ。もし私がその気なら、君は取り憑かれてるか殺されてるよ?」
「……なら殺せ」
「ほう。でも断る。君には生きてもらわないと」
「……理由は」
バフォメットはとぼけた表情で言った。
「主がそう望んでおられるから」
「こいつ……っ」
言い返そうとして、なんだか急に力が抜けてしまった。全ての感情がふっと掻き消え、この悪魔への怒りの気持ちさえもが薄れていく。
「おっと、急に疲れが来たみたいだね。人間の体は脆いからさ。あんな緊張状態にあったんだ、無理もない。さあ、ゆっくり眠りなよ」
本当にその言葉通り、疲労感がどっと押し寄せ瞼が重くなってくる。眠ってしまいそうになる。
瞼が落ちてきて狭まった視界に、遠ざかるバフォメットの背中が見える。彼は膝をつくサラの腕を引っ掴むと、そのまま引きずっていく。首のないサラが、遠くへ、遠くへ消えていく。
「待ってくれ……頼むからそれだけは……それだけは持っていかないでくれ……!」
「残念だが、それは無理な相談だ……」
夢と現実を脳が行き来し、音が途切れ途切れに聞こえ始める。
「首が……だけありが……思え。死体は有効活用………もらうよ」
バフォメットは踵を返す。サラが引きずられていく。
行ってしまう。
サラ、俺の希望……行かないでくれ……行かないでくれよ……
そこで瞼が完全に落ちた。眠る。サラが遠く離れていく。
*
目覚めたのは、夕暮れ時だった。ここの空気や陽射しは何も変わらないのに、部屋だけは赤に塗り変えられている。死が満ちている。湧き上がってくる感情に、「無常」なんていう異教の概念を当てはめてみた。
伯父夫妻を探すと、二人も血の床の上で仲良く眠っていた。バフォメットが前もって殺しておいたに違いなかった。
エルアザルは絶望のなか階段を降り、サラに対面すると、首を慎重に持ち上げた。冷たい。死んだ両親を自分の手で埋葬した時のことを思い出す……そういえば、あの時も日暮れだったか。
サラの顔についた血を袖口で拭き取ってやりながら、庭へ出る。
外は何故か霞がかかっていた。夕靄というのだろうか。
そこに静かな風が吹く。どこかでパンを焼いているのか、ふわっと小麦の香りがやって来て、エルアザルを包み込んだ。
「エルアザルさん」
そう声が掛かることを期待したが、この腕の中の少女が話すことはもう二度とない。
「サラ……」
口の周りの血を、袖口で拭き取ってあげる。閉じた瞼は平穏そのものだ。寝言でもいいながら、にっこり笑うのではないかと思ってしまう。
エルアザルは悲嘆した。
この少女とは、もっと一緒に過ごしたかった。家族以外にここまで心を開けたのは初めてだったのだ。今思えば、自分たちの仲は兄妹と言っても過言でないくらいのものだったと思う。本当に、もっと一緒に過ごしたかった。もっと教えてやりたいこと、教えて欲しいことが一杯あった。そうだ、料理なんかまだ初歩さえも習っていないじゃないか。
サラがこうなったのは……
頭にバフォメットの顔がちらついて、慌ててかき消した。
今は復讐より、サラのことだ。
サラを、埋めてやらないと。
エルアザルは綺麗に空が見える場所を選び取り、手で穴を掘った。地面は固く、手が擦りむける。だが、両親や伯父夫妻、そしてサラの苦しみを考えれば、この程度で音を上げてはいけないと思い、手を動かし続けた。
大きな、人一人が入るくらいの穴が出来上がって、エルアザルは手を止めた。土だらけの手には血が付いていたが、それがエルアザルの物なのかは分からない。エルアザルはサラの首を持ち上げると、顔がこちらを向くようゆっくりと穴の中に下ろした。
「ごめんな。体は盗られちまった……棺桶も無いし……寒いだろうな……本当にすまない。そのぶん祈りは丁寧に上げてやるから、それで勘弁してくれよ」
空が暗い青色になっていく。明星が山の上に光り輝く。
エルアザルの祈りは、まるで空気に浸透していくかのように紡がれた。
祈りを終えると、サラをじっと見た。その美しい眠りの姿を、目に焼き付ける。
その顔に土を被せていくときは、枯れたと思っていた涙がまた溢れてきて、途中で何度も作業を中断せねばならず、最後まで埋め戻すにはかなりの時間を要した。
エルアザルは十字を切り、地面にも十字を書いた。
天を仰ぐ。
「我が主よ! どうか、どうかサラを安らかに休ませてやってください! かの天の国へ、彼女を連れて行ってやってください! お願いします、お願いします……!」
もう辺りは暗くなり、星々は煌めきを見せはじめていた。
相変わらず美しい星空。
その中に、一筋――光が走った。
エルアザルの目が見ていたその一点を通る、彼が絶対に見逃さないよう計算されたかのような流れ。
エルアザルは体を走り抜ける電撃を覚える。
エルアザルは、もう泣いてはいなかった。
彼は、笑っていた。
サラはこの先を約束されたのだから。
もう、サラが苦しむことは無い。決して。




