第四十七話 床に落ちたもの
バフォメットがサラに詰め寄った。
「で、どうするんだい? 契約を結ぶのかい?」
サラはこくこくと頷く。
バフォメットは眉をしかめた。
「だめだよ、きちんと喋ってくれないと」
二人の傍で、エルアザルは必死に聖句を思い出そうとしていた。こうした場合、どの聖句を唱えればいい? 下手をすればバフォメットを刺激してしまう、慎重に選ばなければ……でも時間がない! 契約を結べば、魂の所有権がバフォメットに移ってしまう!
エルアザルは聖句を選び取ると、心の中で叫んだ。
主よ……憐れみを!
「[私は主を恐れる者の前で誓いを果たす! 主は我々の牧者であって、たとえ彼女が死の影の谷を歩むとも、主はその災いを打ち砕いてくださる!]」
必死の祈りに叫ぶと、サラの体が腰に糸をくくりつけられたように斜めへ飛び上がり、机を飛び越えていく。バフォメットの顔に丁度サラの靴を履いた足が直撃して、バフォメットはよろめき倒れこむ。サラも硬い床に落下し、横たわってしまった。
エルアザルはバフォメットを踏みつけてサラに駆け寄ると、サラはすぐ目を覚ました。
「大丈夫か?」
長年の眠りから覚めたかのようにサラは辺りを見渡す。
「私はどうしたの?」
「信じられないかもしれないが、悪魔に取り憑かれてたんだよ。……ああ、主よ、ありがとうございます!」
やはり、自分は神父に帰るべきなのだ。心を入れ替えろと、主はそう仰っている。
エルアザルがサラに抱きつくと、サラはきょとんとしていたが、すぐにサラからも抱擁が返ってきた。エルアザルはもう離さないと言わんばかりに、力を込める。サラは状況を理解できないながらも、精一杯のごめんなさいとありがとうを込めて、腕を回した。
窓から二人に向けて、一筋の光が差し込む。さながら絵画のようなその光は、間違いなく主の祝福だと、エルアザルは思った。
それは柔らかく、暖かだった。
「これでハッピーエンドかい?」
冷淡な声が響く。
エルアザルの背後でバフォメットが起き上がっていた。
「こんな絵本みたいな終わり方……気に入らないなあ!」
見ると、バフォメットの長いシルクハットは床に落ち、頭が晒されていた。
渦を巻く、大きな山羊の角。
まさしく悪魔の証だ。
そしてその悪魔の目は、今赤の鈍い光に灯されている。
「さて、どちらから調理してやろうかなあ!」
無だった空間から手斧が出現し、バフォメットはそれを掴むと切り掛かってきた。
エルアザルはサラを背中に庇いつつ聖句を唱える。
「[主よ、み手をもって悪から私をお助けください!]」
しかし何も起こらず、二人は慌てて横に飛び斧の一閃を避けた。
エルアザルは舌を打った。
そもそも彼はエクソシストではないし、おまけに今はただの一般人だ。いくら神が付いているとはいえ、本人の力が不足していては悪魔に太刀打ちできない。
バフォメットは誘惑の言葉を掛けながらじりじりと近づいて来る。
「サラ、私の元に来れば大好きな兄は帰ってくるぞ? 私は嘘は吐かないさ、信じなよ。さあ、取引をしようじゃないか。君に全く損はない。兄はタダで帰ってくるんだ。何も躊躇うことはないだろう?」
サラの目が大きく揺れる。
「ダメだ、耳を貸すなサラ。たとえ悪魔であろうと死んだ人は連れ戻せない」
エルアザルは側にあった木の椅子を抱え、脚で防御を試みる。
バフォメットが突進してきて、隙だらけの動作から手斧が振り下ろされる。脚を一閃に合わせるエルアザル。斧が脚に当たると、音もなく脚は一刀両断、カランと乾いた音を立て木片は床に落ちた。馬鹿力に驚愕する。
バフォメットは攻撃の手を緩めない。あっという間に、椅子はただの板になってしまった。
そこでおかしなことに気付く。
あのバフォメットが、こんな理性の飛んだ行動をするだろうか? バフォメットはいつも背後で物事を動かすタイプだと睨んでいたが。
とにかく、このままではマズい。
「仕方ない……逃げるぞ!」
そう言ってサラの手を握りこむ。
王城へ行けば、なんとかなるかもしれない。あれだけの兵士では心許ないが、援軍がないよりはましだ。道中できるだけ町の人に被害が出ないよう、気をつけなければ……。
そう考えるエルアザルの耳元で、バフォメットの声がした。
「させないよ」
首筋にひやりとした感覚。
いつの間にか、バフォメットはエルアザルの背後に回り込んでいて、鋭い斧を首に突きつけていた。
「まずは一人だ」
刃が首に触れ、それを見ていたサラが青ざめる。きっと血が流れたのだ。
「エルアザル、君は神父の家系だ。つまり悪魔の敵。そろそろ息の根を絶っておかないとね」
バフォメットはニヤリと笑い、そして斧を僅かに握りなおす。
ああ、ここで死ぬのか。エルアザルは思う。振り返ってみれば、後悔だらけの人生だった。ああしておけば、しなければ。暇なときはそればかり考えていたような気がする。自分の闇で人が死に、友を不快にさせ、いじけるように故郷を出た。全てが悔やまれる。どうしようもない馬鹿だ。
目の前で、サラが恐怖の顔を浮かべている。怯えてもいるのだろうか。最期まで人に迷惑をかけるとは……やっぱり自分は馬鹿だったようだ。そんな馬鹿を親身に受け入れてくれたサラには、感謝してもしきれない。
「サラ」
呼び掛けられた孤独の少女は、叫びに一筋の涙を流す。
「お兄ちゃん!」
エルアザルはちょっと目を見開いたが、すぐに穏やかな笑みに努めた。
「ありがとうな。サラに出会えて、本当に幸せだった。お前はいつでも俺の支えで、希望だったよ」
本当にありがとう。
「さあ、早く逃げろ! 王城に逃げ込むんだ!」
しかしサラは動かない。
そこで予期せぬことが起きた。
サラがバフォメットに対し、声を張り上げてこんなことを言い出したのである。
「バフォメット! 契約を結びましょう!」
バフォメットは契約、という言葉にぴくりと反応する。
「ほう」
「あなたがエルアザルさんを殺す気なら……私が代わりに殺される。だからエルアザルさんは解放して」
エルアザルは雷撃を受けたような気持ちだった。
「サラ、お前何を……」
サラは口を固く結び、死に怯えた目を向けていた。それを見たエルアザルは、もう何も口に出来なかった。
太陽が雲に隠れたのか、光が消える。
「契約成立だね……!」
待ってましたと言わんばかりにバフォメットがそう言って、彼はエルアザルから離れた。それは捉えられぬほど素早い動き。斧が動き、鈍い光を放つ。
サラ、逃げろ、エルアザルが叫ぶ。サラは直立し、目を瞑る。
横向きに薙がれた手斧が風を切り、音が鳴き、サラの笑顔がエルアザルの脳裏に過った次の瞬間--鮮血が弾けた。それは壊れた噴水のような勢いで噴き出し、刹那のうちに赤で部屋を塗りつぶす。ごとん、と重い音がして、何かが地面へ落ちた。




