第四十五話 サラのクッキング・タイム
翌朝、鳥の囀りと窓から差し込む朝の日差しに目を覚ます。起き上がると、もうベッドにサラの姿はなかった。
一つあくびをする。眠りが浅かったせいか、十分に寝た感じはない。
部屋を見渡すと、衣装棚の横に服が綺麗に畳んで置かれているのが目に入った。サラが置いておいてくれたのだろうか。ともかくそれに着替えて部屋を出、階段を降りると、焼いたパンの香りが鼻孔をくすぐった。食卓に座っていたサラと夫妻が、笑顔でエルアザルを見上げる。
特にサラは、エルアザルの服をまじまじと見てきた。
「やっぱり似合う……」
「ん? なんて?」
「あ、なんでもないよ。おはよう、エルアザルさん」
「おはよう。今何時だ?」
「九時くらい……かな? 王城の時計台を見ないと分からないけど」
寝坊だ、とエルアザルは思った。起床時間はいつも六時辺りだったのに。
(やっぱりあいつに動揺してるのか……?)
バフォメットの薄気味悪い笑みがちらつく。
「どうしたの? 気分、悪かったり……?」
「あ、いや、大丈夫だ。寝過ぎでぼんやりしてるだけだよ」
朝食は焼き目のついたもちもちのパンと甘酸っぱい木の実のジャム、そして野菜をとろとろになるまで煮込んだスープだった。
「おばあさん、これ美味しいです!」
エルアザルが言うと、伯母はちょっと困った顔をして、
「それ、全部サラが作ったのよ」
エルアザルは目を瞬いた。サラが恥ずかしそうに下を向く。
「サラ、お前なんでも作れるんだな……」
「そ、そんなことないよ……」
伯父さんが笑った。
「サラな、料理はいつも伯母さんに任せてるんだが、今日はいきなり自分で作るって言い出して……」
「あーーーーーーーー!!」
いつも声の小さいサラが大声を出したので、ちょっとびっくりする。
サラはダッシュで残っていた自分の食器を台所へ持っていくと、二階へ逃げるように上がっていった。
夫妻は笑った。
「まるで恋する乙女ねぇ」
「はは、違いない」
なんだかエルアザルまで恥ずかしくなって、顔を埋めるようにスープを飲んだ。
*
昼前、特訓が始まった。料理は台所を抜けた所にあるかまどで行っているという。
裏口を抜けると、そこは屋根はあるものの壁はないという簡素な調理場だ。壁際にポツンとかまどがあり、そのそばに簡易的なテーブルが置かれている。その上にはすでにまな板やナイフ、食材が用意されていた。
見渡して、エルアザルは尋ねる。
「コンロとかはないのか?」
「こんろ、って北国の? ないよ。北国の行商が来るのは一年に一回あるかないかだし、それにあんな高価なもの買えない」
「そうか」
これだけ閉ざされた土地だと、来るのは命知らずな行商だけになるだろう。私的な商売なら、運搬費も加味するとガナフィクスで売られる値段の二倍、いや十倍ほどの値段がつくのだろうか。そう考えると確かに本体を買うだけで苦しそうだ。エルアザルの家は代々神父の家系だったので金には困らなかったが、普通の家だとガスの補給などの維持費だけで家計が破綻すると聞く。コンロなどあるはずがないか。
「じゃあ……まず薪割りから」
「え、料理は?」
「まずは薪割り。それから火起こし。それができるようになったら料理だよ」
「わかった」
「じゃあ早速薪割りから始めるね」
料理をやりたいと言い出したのはサラと一緒にいてやるための口実だったから、別にそれでも構わなかった、が。
特訓は地獄だった。
「持ち手がおかしい! もっと端っこ持って!」
「そこ! 腰が甘い!」
「形が歪すぎ! これだと太さの調整ができないでしょ!」
「駄目駄目! ちゃんと力入れてる!?」
「男でしょ、もっとちゃんと振りかぶって! 全身使うの!」
エルアザルは「はい」と答えて斧を持ち直し、筋肉を休ませる。
まさか、サラが鬼教官タイプだったとは思わなかった……
「なにぼさっとしてるの! ほら早くやる!」
「はい!」
すっかり立場の逆転した二人の声が互い違いに響く。
薪割りが終わるとサラは我に返り、顔を真っ赤にして何度もエルアザルに頭を下げた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……私、お兄ちゃんにもいつもこんな感じで……」
「い、いや、別にいいんだけどさ……」
「本当にごめんなさい……お兄ちゃんはこうされていつも喜んでたから……」
「喜んでたのか……?」
「うん……『その若干見下す感じが良いなあ、そしてその華奢な見た目に反してその強気な発言、罵りに似た響き……』」
「ああ、もういい、もういい」
サラのお兄ちゃんって……と思うエルアザル。
次の火起こし作業は、最初はサラも意識したのかいつものように大人しい教え方をしていたものの、後半になるとまた厳しい指導となり、エルアザルは屈辱さえ感じ始めた。サラの兄が生きていたら、小一時間説教してやっているところだ。
薪割りでは体力を使ったが、火起こしでは体力ではなく、神経を消耗した。種火を作れればそこまで難しくはないとサラは言うのだが、それがなかなか上手くいかない。やっとの思いで種火を作り、大きな炎を作れても、今度は火力の調整のため燃え盛る炎に釘付けになっていなければならず、またそれにも神経をすり減らされた。さらに、ちょっとでも意識が他所に行くとサラが異教の「シカンタザ」のごとく、打撃の代わりの喝を飛ばしてくるから、エルアザルも必死だ。サラが終了の合図をした時にはエルアザルはもうくたくただった。身に染みる携帯用着火剤のありがたみ……。
「ご、ごめんなさい……疲れたよね?」
「ちょっとだけな……」
熱を浴び額に滴った汗を拭いながら、そう答える。
「でも、こんなに早く出来るようになったのは凄いよ。お兄ちゃんみたい」
「お兄ちゃんも俺と同じくらいで習得したのか?」
「うん。お兄ちゃんは何でも出来たから。それにすごく強かったし、物知りだったし、優しかったし……」
兄のことを話すサラは、本当に楽しそうだ。
エルアザルは微笑んだ。
「じゃあ、俺もお兄ちゃんに負けないよう、頑張って料理覚えるよ」
サラはにこやかに頷いた。
しかしその日の昼食はサラが作り、料理指南は明日の昼にするという。確かに、エルアザルが作っていては昼食が夕食になってしまうかもしれない。
バツが悪く、鍋をかき混ぜるサラから少し離れたところで、空を見上げた。海原のように透き通った青が、一面に広がっている。
(風は無いな。月も無いし、今日は雲も無いか。このままの天気が続けば絶好の観察日和なんだが……今日は流れ星が見えるんだろうか)
サラに、流れ星を見せてやりたい。この辺りの人なら、流れ星くらい見たことがあるのかもしれないが。
試しに聞いてみる。
サラは紫色をした芋を輪切りにしながら、
「そういえば……見たことなかったかも」
「本当か!? じゃあ今晩試しに観察しよう。見たらきっと驚くぞ」
「うん、いいよ」
エルアザルは自分の胸に温かいものが満ち満てるのを感じた。
しかし、その夜は予期せぬ暗雲が立ち込め、流れ星はおろか星一つさえも見ることはできなかった。




