第四十二話 エルアザルと少女
二十歳のエルアザルは家を売り払い、その資金で放浪の旅に出た。持ち物は一万デュナム(一デュナムでパン約一枚)とそれを入れる金貨袋、あとは衣類を入れる手提げ袋だけ。ターバンを巻き、灰色の貫頭衣を着て皮の靴を履くという服装だった。全て家からは持ってこず、出発のときに新しく買い揃えた。惨劇のあったあの家の物は、全て置いていくつもりだった。それで両親の死と孤独を忘れられるはずはないのだが。
まずエルアザルが向かったのは、南のダセイア王国であった。エスラスがよく話してくれた、ファリジオン教が根付いている場所だ。絶交した後も、エルアザルは心のどこかでエスラスに依存していた。
エルアザルはアバンドレで漁船に乗せてもらうと、カタスリプス運河に入り、東へ進んだ。海へ抜けると、陸に上がり、そこから馬を借りて南へ向かった。
ガナフィクスとの国境である大山脈を大きく回り込むようにして超え、草木生い茂る鬱蒼とした森林地帯を抜けると、目下にダセイア王国の首都、フリーディアが見えてくる。木や石を組み合わせて作られた家々が立ち並び、煙突がもうもうと、白や灰色の煙を上げている。通りでは荷台を引く馬車が往来し、木材や食料を運んでいる。人々は太陽に衣服を吊るし、畑仕事に勤しみ、子どもは大地を駆け回っている。中央に高
くそびえたつ王城が、それを見守っている。
暖かく、そして柔らかな陽射しを浴び、エルアザルは深く息を吸い込んだ。
まずはここで、心を落ち着ける時間をとろう。次の目的地を決めるのは、遅くても構わないだろうから。
放浪の少年はもう一度、肺の空気を入れ替えるように深呼吸すると、手綱を弾き、街へと降りていった。
街に着くと、どちらかというと好奇心の強いほうだったエルアザルは、人々に聞き込みをし始めた。どのような生活をしているのか、どんな食べ物が好きなのかなど、とにかく何でも思いつくままに尋ねていった。そんな矢継ぎ早の質問にも人々はのんびりと優しく答えてくれたので、エルアザルはつい嬉しくなって、どんどんと質問を投げかけていった。
教えてもらったところによると、やはりファリジオン教はエスラスの言った通り自然信仰が強く、様々なものを神として崇める宗教だった。彼らにとっては、山、樹木、岩石、家屋や、使い古した道具ですらも神なのだという。手を合わせ、毎日を暮らせるのはそう言った無数の神のお陰なのだと、彼らは話してくれた。
それは、一家全員がキリスト教徒だったエルアザルにとっては受け入れがたい信仰だった。けれど、それも信じることの一つの形なのだと思い直し、信仰の奥深さを改めて痛感する。
エルアザルはしばらく宿を借りダセイア王国に滞在していたが、やがて自然との深いかかわりの中での生活を気に入り、ダセイアに本格的に住むことにした。問題は住む場所だったが、それは家屋でなく、人々に教えてもらった木の洞の中にした。ただなんとなく、人から離れて自然と常に触れ合える環境が欲しかったのだ。
薄暗い、けれど落ち着く自然の匂いに囲まれた洞穴の中で暮らしていると、よく町の人が訪ねてきた。どうやら、険しい山脈や激流の大河川、渦の多発する海に囲まれ国交の難しいダセイアでは、来訪者は珍しいようなのである。自然の中で自給自足の生活を送っている彼らが、時折くれる差し入れは、ガナフィクスではあまり見ないような、収穫したてですと言わんばかりの土の付いた大きな紫色の野菜だったり、枯れた花のついたみずみずしい果物だったりした。その味は未体験の物で、まるで心に染み入るようであった。死別、後悔、孤独で傷つき暗がりに包まれていた心は、だんだんと癒されていく。
そんなある日、一人の少女がエルアザルを訪れた。十二、十三歳辺りで、華奢な体。肌は陶器の人形のように白く、目は潤いに満ちるガラス玉のような青、髪にはカラスのような漆黒が流れる。あまり笑わない子ではあったが、ごく稀に笑ったときには、可愛らしいえくぼができる子だった。
人々はエルアザルを一目見れば、それで満足して二度目訪れることはあまりなかったが、その少女だけは唯一、毎日のようにエルアザルに会いに来てくれた。エルアザルは、話し相手が来てくれて純粋に嬉しかった。
町の人々と同じように、少女も差し入れを持ってきてくれた。よく持ってくるのは、絵と台詞が載った俗に言うマンガという本だ。経済的に豊かな北国でよく作られているとはエルアザルも聞いたことがあったが、実物を見るのは初めてだった。試しに読んでみると意外に面白かったので、エルアザルは少女の持ってくるマンガをちょっと楽しみにしている。
「……それ、お兄ちゃんが好きだったの」
エルアザルがマンガを読んでいると少女がそう言った。言われて見てみれば、確かに背表紙が擦れていたり、ページに皺が寄っている。少女の兄が、何度も繰り返し読んだのであろう。好きだったということは、もう飽きたから持っていけと言われた、ということだろうか。
「今日のも面白かったよ。ありがとう」
少女は恥ずかしそうに俯き、顔を赤らめた。白い肌には朱が際立った。
またある日には、少女は手料理を持ってきた。芋と肉と野菜を甘く煮た物で、これも兄が好きだったのだと少女は話す。
きっと兄は好みが変わりやすいのだろうと思いながら食べたそれは、エルアザルが目を見開くほど美味だった。美味いと料理をかきこむエルアザル。
「おいしいよ」
そう言って顔を上げると、少女は目に涙を溜めていた。
「ど、どうしたんだよ」
尋ねると堪えていたのであろう涙がこぼれ始め、少女は滝のように涙を流し始める。
「ご、ごめん」
訳も分からないまま勢いで謝ってしまったエルアザルに、少女が首を振る。
「な、なんでもないの……気にしないで」
エルアザルはどうしていいか分からず狼狽する。自分の行動に原因があるのだと思い思案するが思い当たる節はない。少女はエルアザルを見ながら、顔をぐちゃぐちゃにして泣き続ける。まるで抱え込んでいたものが爆発したかのようだ。なおも狼狽していると、少女は一言、「お兄ちゃん」と嗚咽の混ざった声を発した。
しばらく待って、優しく尋ねてみると、先月兄が亡くなったのだと、少女は涙ながらに話してくれた。大好きな兄だったのだという。そればかりか同時に両親も亡くし、少女は今独りなのだと言った。好き〝だった"とはそういう意味かと、察しの悪い自分を殴りたくなる。
「エルアザルさんは、なんだかお兄ちゃんに似てるの」
「……だから毎日ここに?」
コクリと頷いた。
自分と同じだ、とエルアザルは思った。
大切な物を失って、風穴の開いた心を満たすために、別の物を頼ろうとする。それは代替品の域を超えることはないのに、それに顔を埋めたくなる。
エルアザルにとっては、エスラスの思い出話。少女にとっては、エルアザルがそれだった。
「実は俺の親も、ついこの前……」
エルアザルは慰めるつもりで自分の話をした。振り返りたくもない過去だったが、この少女の気が楽になるならばと精一杯話に努めた。両親や友人のエスラスとはとても仲が良かったということ、自分の過失で資格を失ったこと、そしてそれによって自分に差した影が悪魔を呼び寄せ、両親の命を奪い去ったこと。エスラスと口論になり、絶交したこと。全てを、こと細やかに話した。
少女の涙はいつの間にか止まり、エルアザルの話をじっと聞いていた。そして呟く。
「……エルアザルさんも、独りなんだね」
少女は泣き腫らした目を擦り、頑張ってエルアザルの目を見ると、座る位置をエルアザルに近づけてくる。右真横に少女が座る形になる。首をかしげる気持でいると、徐ろに少女の体が寄りかかってきて、エルアザルは驚いた。
「えっと……具合、悪いのか?」
少女は肩に頭を預けたまま否定した。
「これ、お兄ちゃんによくやってたの……こうしてると、すごく……すごく安心するの」
また、少女は静かに泣き始めた。少女の白い右手が、エルアザルの服をきゅっと掴む。
「エルアザルさん……わたし、お兄ちゃんに会いたいよ……」
「……」
ただすすり泣く声だけが、そこには響いた。
エルアザルは黙って少女の肩に手を回す。少女の兄にはなれない。だが、その役くらいはしてやれるかもしれない。そう思う。
泣き声が途絶え、代わりに寝息が聞こえ始めたのは、しばらく経ってからだった。
涙で濡れた少女の寝顔は死を待つかのように青ざめていて、それが両親の死に顔と重なり、エルアザルは鋭い胸の痛みを覚える。
エルアザルは決意した。手に収まる少女の華奢な肩に、涙に、そして少女の自分と同じ境遇に心が動かされた。
この少女を、救ってやりたい。
なんでもいい。とにかく孤独から、この一輪の小さな花のような少女を解放してあげたい。
そう決めると、エルアザルは何か胸の空虚な部分が、ゆっくりと埋められていくように感じた。




