第四十話 流れ星
アレビヤが数学で悲鳴を上げ、隣のエルアザルが間違いを指摘する。アレビヤは言われた通りコンパスを回転させ、炭が削れて線を引く。円が出来上がる。正解に安堵する。
もう小屋を訪れてから三週間は経過していて、アレビヤの手つきも慣れたものであった。エルアザルとの交流も多くなり、彼への印象も変わりつつある。
エルアザルも、三人に対して以前より口数が増えていて、尖った言い方は治らないものの、時折親しみのこもった言い方が見え隠れするようにはなっていた。
窓から夕焼けが差し込み、部屋を柔らかく照らし始めた。エルアザルは今日はこれで終わりだとアレビヤに告げる。
「そろそろ夕飯の支度だ。手伝え。リデルとナキがもうじき肉を持って帰ってくるはずだ」
アレビヤは頷き、ペンを置いた。数学に意味があるのかは未だに分からなかったが、アレビヤは何かのヒントであることを信じて言われた通りの勉強を続けていた。
「今日は外で火を焚く。久々に流れ星が見られそうだからな」
エルアザルは小さな笑みを浮かべてそう言った。
アレビヤは、流れ星というワードに胸をときめかせた。そういえば、流れ星を直接目にしたことはなかった気がする。さっさと本を片付け、駆けるように部屋を出る。外へ出ようと玄関の扉を開けた。寒気が吹き付けてきて身を震わせた。エルアザルが、自分たちの持ってきた赤の外套を持ってきてくれて、アレビヤはそれを羽織る。厚手の生地が身を包んで外気から護り、凍えることはなくなった。
アレビヤは地面にしゃがみ込み、慣れた手つきで種火を作ると、さっき円を書いた紙で火を大きくしていく。順調なことを確かめると、アレビヤは薪をせっせと小屋から運び出してくる。石で囲まれたスペースの中に、火を育てるように慎重に薪をくべ、火の勢いを安定させる。
木の板で火を扇いだりして、火が大人しく燃え始めた頃、ちょうど日が沈んだ。暗闇を照らすぼんやりとした光に、砂漠にオアシスができたかのような安心感を覚える。
「アレビヤー!」
リデルが向こうからやってきた。ナキの肩の上から、大きく手を振っている。ナキは両手で重そうな袋を抱えていて、かなり疲れているようだった。アレビヤはナキに駆け寄って、リデルと荷物を預かった。
「いつもすみません」
申し訳なさそうにナキが言う。
「良いのよ、私を勉強漬けにさせるエルアザルが悪いんだから。私が行けばローゼンを使えるから、荷物を持つ必要も無くなるのに」
「そうですね。やっぱりあのお爺さんは手厳しいです」
ナキは肩をすくめ笑った。それがアレビヤには、とても魅力的に映る。
おかしいのだ。
最近、ナキのことがすごく愛らしく思えてくる。ナキを見ていると、守ってあげなければならないような、そんな正統とは言い難い、母親のような愛情を覚えるのだ。
アレビヤは自分の顔が紅潮しているような気がして、慌ててナキに背を向けた。頭の上のリデルが振り落とされそうになり、アレビヤに文句を言っていた。
丁度三人が火に集まったとき、エルアザルが下ごしらえをした山菜を皿に乗せ小屋から出てきた。アレビヤから、ナキ達が買ってきたシカ肉の塊を受け取ると、持っていたナイフで図面を引くように切り分ける。エルアザルはそれをまた小さな塊に切って、木の串へ器用に差し込んでいく。魚ばかりで飽き飽きしていたリデルの口から唾液が溢れ出てきて、それをナキが拭くというどこかで見た光景が繰り広げられる。
ナイフを置いたエルアザルは、各々自分で串を持って肉を焼くように言った。ちなみにリデルには特別大きな串が手渡された。
食事の最中、リデルとナキは相変わらずの食欲で肉を貪っていた。対して小食のアレビヤは、老齢で少食になったエルアザルからエクソシズムの体験談を聞き出そうとしている。エルアザルは面倒臭そうな顔はしながらも、比較的丁寧に語ってくれているようだった。
食事が終わり、隅で沸かしていた湯で、エルアザルがハーブティーを振る舞った。金色をしたお茶から、湯気が立ち上る。
一口飲むと、爽やかな味が温かさとともに喉に染み渡った。自然にはこんな物もあるのだとアレビヤは感心する。温かさも相まって、三人に和やかな笑みが浮かんだ。
「そとで食べるのは久しぶりだったなあ」
リデルが白い息を吐きながらしみじみと言う。
「そうですね、最近はもっぱら家屋の中でしたから」
ナキはそう言いながら、ふーふーと息を吹いてハーブティーを冷まそうとしている。
「熱いの苦手?」
アレビヤが顔を覗き込むようにして尋ねると、ナキのハーブティーがちゃぷんと大きな音を立て溢れかけた。
「い、いえ、苦手って程ではないんですが。火傷が怖くて」
「相変わらず慎重ね」
「……」
ナキはそう言われ、いきなりカップに口をつけた。おいっ、とリデルが止めるのも聞かず、ナキはカップを一気に傾ける。「あぢっ」と声をあげて、カップが斜め上へ飛んだ。エルアザルの方へ向かう。
「あぶない!」
しかしリデルがそう叫ぶまでもなく、エルアザルはカップをいつの間にか後ろに回り込んで避けていて、一度瞬きした後にはもうカップの持ち手を掴んでいた。液体も一切零れていない。
「……いっつも思うけど、じいさんあんた何者だよ」
二人も同感だと頷いた。
薪が火に入れ込まれ、火の粉が勢いよく弾ける。
エルアザルはまた丸太に座り直して、 不意に空を指差した。誘導されるように三人が見上げると、そこには満天の星空が広がっていた。黒のような紺のような曖昧な色の下地に、白やオレンジの星々が目一杯に散らされ、静かに会話をするかのように輝いている。
「そろそろだ」
エルアザルの言葉に三人は息を潜める。まるで星から気配を消すみたいに、静かになる。
「あっ」
アレビヤは短い声を発した。星が、発火したかのように現われ、力強い軌跡を描いた。かと思うと、瞬く間に萎み、消えてしまう。そんな流れ星は、儚いけれど美しい、と思う。その終始を描いた直線に、アレビヤは眩い輝きを見出す。
同じく流れ星を見たリデルは、目を涙で潤ませていた。オオカミ時代に流れ星を見なかった訳ではなかったが、人間になって改めて見てみると、また違った感動があった。そして感動とともに、その星の輝きが消えてしまうことが、寂しくもあった。
一方でナキは、その力強さに魅了された。一瞬に放つ網膜に焼きつくような光に、ナキは感銘を受け、羨望の眼差しを夜空に向ける。
そんな三人を見たエルアザルはほんの一瞬だけ表情を綻ばすと、三人の名を呼び彼らを現実へと引き戻した。
「流れ星は魅力的だ。実に魅力的だ」
歌うようにエルアザルは、一つ尋ねた。
「流れる星々は、一体何だと思う?」
三人に聞いている風を装っているが、目はアレビヤだけを見ていた。アレビヤは仕方無しに「星は星でしょう」と答える。
エルアザルは表情を変えず、唇を結んだ。アレビヤは、この仕草が不合格を言い渡すときのものだと知っていた。
「答えは?」
「答えというわけでもないが。天の国からの使いだ」
エルアザルは思い出を掘り起こすように話す。
「昔、俺の母親は、六、七歳の息子にそう言った。亡くなった人を天にある楽園へ連れて行くため、地上へ降り立つのだとな。光の筋は、天使の軌跡らしい」
天の国。天にある楽園。
「それってなんなんだ?」
リデルが尋ねる。
「何でも願いが叶う場所らしい。行けるのは普通亡くなった人だけだが、極稀に一部の善人も連れて行ってくれることがあるとか。そこには何でもある。やりたかったことも何でもできる。欲しいものも何でも手に入る。例えば、失った人だって--帰ってくる」
三人の前で火の粉が爆ぜ、空気が張り詰めた。視線が老人へと一気に集中する。
エルアザルは真面目な表情を止めて、どこか自虐的な笑みにすり替える。
「ま、昔はそんなことを夢見たが、さすがにそんな場所は存在しない。存在したって、俺には叶えたい願いは無いし、主がそうなさるとしても辞退する」
なんだ、とリデルは笑った。
アレビヤは話をまとめるように言う。
「結局、流れ星は星なのね?」
「そうだろうな。その"星"の正体は、我々には分からないが」
エルアザルは白く長い息を吐いた。
「星がなぜ俺たちを見下ろすのか。星はどこで生まれたのか。そもそも星とは一体何なのか。そんなことは所詮人間の俺達には分からないが……とにかく今やるべきことは、そこにあるものを信じるということだろうな」
アレビヤに向ける視線に力を込め、エルアザルは言った。
「結局人がやっていることなんてのは、"信じること"に集約される。何に対してだって、人は何かを信じるしかない。信じることがなければ、人は生きていけないからな……」
「信じること……」
アレビヤはぼうっと呟く。
抽象的なセリフに混乱するリデルへ、ナキが一生懸命説明を続けている。
それを聞き流しながら、アレビヤは星に思いを馳せた。
そろそろ寝よう、エルアザルがそう言って立ち上がると、三人はそれに従った。アレビヤが火を消すと、今までいた場所に暗闇が押し寄せて、何も見えなくなる。
早足で小屋の明かりへと向かいながら、アレビヤは思った。
あの、エルアザルの目。
あの、熱心な口ぶり。
きっと、何かを伝えようとしてくれていた。
あのエルアザルが、ようやく、やっと。
けれど、見えない……掴めそうで掴めない。
まだ、何が欠けているのか、分からない。
エルアザルは、今までの話で何を伝えたかったのだろう。
まさか、「今は俺を信じろ」なんてそんなことを伝えたかった訳では無いと思うのだが。
恐らく、きっと、答えはもっと近くにあって、至極当然な、ごく当たり前の事柄なんだろうけれど……。
「うーん……」
アレビヤはそんな思索に耽りながら小屋に入る。
リデルとナキは各々に映った流れ星の姿を思い返しながら、アレビヤはエルアザルの真意を模索しつつ窓の外を眺めながら、星空の下、眠りについた。




