第四話 赤面する幼女と立ち塞がる金髪の女性
リデルは、このままナキが死んでしまうのではないかという不安に駆られた。苦悶の表情を浮かべながら、倒れるナキの姿が脳裏に浮かぶ。
リデルは繰り返し呼びかけるが、ナキは咳込むのみで全く応答してくれない。
リデルはあの謎の人物への怒りを抱え始めた。いきなりやってきて、なんという仕打ちをしてくれたのか、と。そう思うと腹が立って腹が立って、リデルは気付くとナキの頭を思いっきり殴りつけていた。
「くそっ!」
「ぐほっ!?」
ナキの喉から何かが飛び出して、地面に落ちた。唾液まみれでぐちゃぐちゃの、白っぽいものだ。
リデルはそれに眉をひそめた後、ナキに声をかける。
「だいじょうぶか?」
「ごほっごほっ。はい、ありがとうございます、助かりました」
「いきなり息ができなくなったか? それとも肺がいたくなったのか?」
リデルはうるうるした目を向ける。
ナキは言いにくそうに頬を掻いた。
「あー。実は、さっき貰った果物を食べたら噛み砕きが足りなくて、喉に詰まっちゃったんです……」
「……あ?」
見ると、ナキは手に食べかけの果実を持っていた。
リデルはジト目になって、ナキの頭をもう一発はたく。
「このやろう、しんぱいさせやがって」
「すみません……そんなに心配させて」
「そんなにって……別にそこまでしんぱいしてないし?」
「ええ!?」
ナキが残念そうな声を上げる。
リデルはともかく安堵の息をついた。あの人物がなぜ指を振ったのかは分からないが、ともかく杞憂であって良かったと思う。
「ほら、おれにもくれよ」
「ああ、どうぞ」
リデルはナキから果物を受け取って、その赤い実をしゃくと齧った。みずみずしさが口の中に広がったと思うと、それに運ばれるように、甘酸っぱさが体に浸透していく。
(……おいしいな。この実って、こんなあじだったっけか)
ナキの二の舞にならないよう、気を付けながら平らげる。いつも通り芯の部分も食べたが、そこだけはいつもと比べてかなり不味く思えた。それでも無理に押し込んだが。
街の喧騒の中、リデルはそれからずっと、ぼんやりとしていた。座る肩がなんだか心地良くて、眠くなってくる。
あくびを一つ。
まだ夜にもなっていないのにこんなに眠くなるなんてことは、今までに無かったことだった。
瞼が重くなって来て、うとうと、うとうとしてくる。
このまま寝てしまおうか、そう思った時、リデルが手を置いていたナキの頭が突然上を向いたので、リデルは驚いて危うく落ちそうになった。
「先輩、だんだんと日が暮れてきましたよ。そろそろ宿を探さないと」
「ふぇっ?」
リデルはしまったと口を押さえた。まどろんでいた事を悟られてしまったかと顔を赤くする。
目を擦って空を見ると、日が山並にかかり、オレンジ色になろうとしているところだった。
「そ、そうだな、日が暮れてきたな。どこにしようか」
二人の目は、宿のある街並へ向けられ……ずに、遠くの山へ向けられる。
「あっちの方なんか良さげだが」
「うーん、ちょっと傾斜が急そうですよ。それよりあの山にしましょう」
「ナキがゆうなら、そうしようか」
二人の宿は、三つある山の内真ん中の山に決まった。
二人にとって、眠る場所とは木々の真下なのである。
そのまま大通りを歩いて、街の大門を出ると、畑の広がる土地へ出た。
今畑には何も植えられていないようで、茶色ばかりが目に入る。剥き出しの地面は乾いて固まっていたので、あそこで転ぶと痛そうだな、なんてリデルは考えた。
ナキは山の傾斜を背後に立つ看板を一瞥する。
左の矢印にはノーゼンドールという町の名前が、右の矢印には登山道という記述があって、その登山道の表記には、上から大きくバツ印が付けられていた。“ノモス教国土管理部”と端に小さく書いてある。
「このまま右へ進めば、山へ入れるみたいです」
「バツがついてるが?」
「あー……」
ナキはちょっと頭を掻く。
「落書きでしょう。おそらく大丈夫です。おそらく」
「そうか、よしすすめ!」
そう言って調子よく進もうとすると、後ろから声を掛けられた。
「それは落書きじゃないぞ」
振り返ると、白の貫頭衣を身に着けた金髪の女が、険しい目つきでこちらを睨んでいた。
「おい、お前たち。今から山へ入るつもりか?」
「え、ええ、そうですが……」
女の目付きが更に鋭くなる。
「こんな小さいこどもを連れて山へ入るなんて、危険すぎるぞ! 大人しく街に戻った方がいい」
ナキとリデルに見下ろされるその女は、ポニーテールを揺らしながら力説する。
「僕たち大丈夫なんで……」
「お前みたいな貧弱と、可愛い幼女で何ができる!」
よく通る声が、厳格な調子でぴしゃりとナキを黙らせる。
かわいいゆうな、とリデルは抗議していたが無視された。
「えーと、一体山の何が危険なんですか?」
ナキが聞くと、女は怪訝そうに答えた。
「何が危険って、夜の山では肉食動物が|闊歩≪かっぽ≫してるからに決まってるだろう。オオカミなんかは特に危険だ」
リデルとナキが落ち込んだように見えて、女は首を傾げる。
「それに最近は悪魔の動きも活発化してるから、聖職者がいないときに山へ行くのは自殺行為だ。分かったか? 分かったなら街へ戻れ」
ナキとリデルは女を見下ろしながら、どう言い訳したものか考える。
「そ、そういうあなただって今から山へ行くんでしょう?」
「いや、私は急な用事ができて、今から二つ隣の街へ行かないといけないんだ。ほら、ノーゼンドールから平野を抜けた所にある、アバンドレ」
「ああ、なるほどそうでしたか」
ナキが愛想笑いの内側で悔しがる。
「お前たちは山に何の用だ? どうしても行きたいのなら、何人か知り合いを紹介するが……」
「いえ、実はですね。家が山の中にあって……」
女の琥珀色の目がナキを覗く。
「山中の家か。楽しそうだ」
「では、急ぐのでこれで……」
「だが、この山に人が住んでいるという話は聞いたことがない。ここはノモス教が見張ってる危険な山だ、そもそも誰も寄りつかないぞ」
ナキがしまったと冷や汗を流す。女の疑いの色がますます濃くなってきた。
このままではまずい、ナキとリデルは同時にそう思う。
ナキが適当に話を繕う間、リデルは女を観察する。彼女の外套は、武器が隠れるくらいには十分に大きい。どうみても庶民のこの女が、武器を持っているとは考えにくいが、それでも危険な目に遭う可能性があるのならこれ以上話をするのは得策ではないだろう。
そこまで考えて、頭が痛くなってきた。
(……やむをえまい)
リデル、苦渋の決断。
恥ずかしさは承知で、声を絞り上げた。
「おにいちゃん、おにいちゃん! はやくあのやまのぼろうよー!」
顔が見えなくとも、リデルにはナキがぽかんとするのが分かった。
「何言ってんですか痛っ!?」
女からは見えない背中に、リデルの拳が入り、ナキが体を細かく震わせる。
リデルの無言の圧力が伝わり、ナキも話を合わせ始めた。
「そ、そうだな、早く登りたいな。でもこのお姉ちゃんが駄目だって言うんだよ」
「えー! なんでなんで! のぼりたいよー! のぼりたいよー!」
リデル渾身の演技が炸裂する。どうか効いてくれ、そう願いながらちらりと女を見ると、困り顔ながら、頬の筋肉が若干上がっているのが分かった。
「なんで登りたいの?」
「それは……星がみたくて!」
「なるほど……仕方ないわね。今から知り合いに連絡してあげるわ」
にこやかに言うと、頼んでもいないのに女が勝手に背を向け、何かごそごそとしはじめる。
「今だ!」
その隙に、二人は山へと走った。
***
金髪の女が連絡の途中に笑顔で振り返ると、もうあの可愛い幼女はいなくなってしまっていた。ショックで思わず、部下との通話を切断してしまう。
(ああっ仕事の会話が……!)
全身の毛が逆立つような自らへの怒りが湧き上がる。自傷衝動に襲われたが、すぐに深呼吸して、「私らしくない」とため息をついた。
(しかし……あの幼女。あわよくばナデナデをと思っていただけに、口惜しいな……)
逃した魚の大きさに唇を尖らせていると、念話が入ってきて、女は無理やり顔を真剣なものに戻した。
「どうした」
『どうしたって、そりゃこっちのセリフだよ』
女の頭に直接声が響く。活力溢れた、幼げのある女性の声だ。
『急に会話切りやがってさ。依頼人はどうした?』
「消えた。明らかに不審人物だ」
『何それ? アンタ不審人物を案内しろって言ってたわけ?」
「黙れ」
『おお怖い。で、そいつら、捜索するだろ? 怪しい人物なら取り調べないと。もし何かあったらお前の落ち度になるぞ』
女は両手の指先を合わせて目を閉じる。この女は思案する際にこうするのが常だった。
「そうだな……一斉摘発も控えてるし、確かに山を調べておいたほうが良さそうだ。私は使いを3匹回す。お前は隊を率いて足で捜索しろ」
『了解。体力には自信あるからね』
「任せたぞ」
『……』
「……」
『……一応今はお前が上司なんだからさ、先に切ってくれないと』
「ああすまん」
慌てて念話を切る。
女は腹の底から出すような深いため息をついて、夕闇の空を見上げた。
布団のようなふかふか雲が、オレンジと紫に浮かび上がり、ゆっくりと南西へ流れていく。
「おふとん……恋しいな……」
自分がうとうとしてきたのに気づいて、自分を叩き起こした。
(公私混同など、あってはならない行為じゃないか……)
そうは分かっているのだが、どうも集中できない。迷いか、動揺か。原因は分からないが、とにかく先行きが不安に感じてしまう。
冷たい風が前から対向するように吹き抜け、貫頭衣が激しくはためいた。
まるでこれからの試練を暗示しているようじゃないか、と女は思う。
(その方が燃えるがな)
調子づいてきた女は、負の気持ちを払拭するように呟く。
「さあ、気合いを入れろ私。次は一斉摘発だ。お前なら、あの街でだって完璧にやれるはず。徹底的に、悪を殲滅してやろう!」
よし、と小さく気合を入れる。
それから女はブツブツ言いながら、床に幾何学模様を描き始めた。
***
ナキとリデルは、なだらかな山を登っていた。
日がすっかり暮れた山は真っ暗だが、元オオカミの二人にとってはなんでもない。時折カラスが鳴いたり、小動物が走り抜けたりすると、むしろいつもの調子が戻ってくるように思える。
夜目の利くリデルがナキを操縦し、道なき道を進んでいっていると、ナキが口を開いた。
「さっきはナイスでしたよ、先輩」
リデルがナキの頭を叩く。
「ゆうな、なにもゆうな。おもいだして今めっちゃ恥ずかしい」
リデルは赤面しながら、胸の苦しい感じを覚えていた。自分の発したセリフが何度も頭に反響し、反芻され、その度にナキの頭が叩かれる。
(なんだよおにいちゃんって! しかもやけにかわいい声出るし……)
「ってかわいいゆうな!」
「言ってませんよ!?」
リデルは後悔を募らせた。その場を切り抜ける為だったとはいえ、もっと他の手段があったようにも思う。
「で、先輩? さっきの女の人、悪魔どうこうと言ってましたがどういうことなんでしょう?」
「さあ? どうぶつはなんとでもなるけど、そのアクマってのは知らないな。どういうものなんだろう」
「この世界にだけいる動物ですかね?」
「どうだろう」
「うーん……でもそれだと、悪魔を危険な動物の括りに入れなかったのは何故なんでしょうかね」
「ああ、たしかに」
二人が悩んでいると、不意に、近くの茂みが動いた。
「おい、見たか?」
「見てはいませんが聞こえました……」
また茂みが動く。
それも、一つや二つではない。音はどんどん増えて行く。気付くと、茂みは二人を囲むように揺れ始めていた。
「な、なんですかこれは!?」
「わからん!」
「ま、まさかとは思いますけど、これが悪魔だったり……?」
二人の顔が引きつる。それと同時に、茂みの中から勢いよく何かが飛び出してきた。