第三十五話 兆し
川沿いに歩く一行に、会話はなかった。
リデルは泣き疲れて寝てしまったし、ナキもアレビヤもあの惨い光景を見た後ではとても会話する気にはなれなかった。頭上の雲がまた分厚くなり、天候は怪しくなってくる。
無言で歩くこと数時間、一行の前に小さく海が見えてくる。
「……海、ですね」
「……アバンドレは近いわ」
それっきり、また沈黙が重くのしかかった。
耳につき始めた蹄の音に我慢ならず、ナキはアレビヤに話を振った。
「あの」
「何?」
しかし言ってみたものの話題が思いつかない。アレビヤがじっとこちらを見ているのでナキは焦り、彼女を見ていて思ったことを咄嗟に口に出してしまった。
「アレビヤって、綺麗ですよね」
「は?」
ナキは言ってしまった台詞に気付き、あわわと自分の口を押さえた。アレビヤに聞こえていないことを期待したが、アレビヤは訝しげにこちらを見ていて、その望みは薄そうだった。
「あ、いえ、綺麗というのは美しいという意味で……」
「……何言ってるの?」
さらに余計なことを口走ったと知る。
「あ、あはは、僕なに言ってるんだろ。すみません、いきなり変なこと言って」
笑ってごまかす作戦。
するとアレビヤはひらひらと手を振った。
「いや、いいのよ。あんた達が私を褒めてくるのはもう慣れてきたから。……でも」
アレビヤの頬がほんのり赤くなった。
「容姿を褒められたのは初めてかもしれないわ」
「そ……そうでしたか」
ナキの胸は、急速なリズムを打っていた。どうしてかは分からなかったが、とりあえず、今の自分はアレビヤの顔を見ていたいという気分なのだと察する。
「……な、なによ。顔ばっかり見て。何か付いてる?」
「いえ、今はアレビヤを見ていたいというだけで」
「そ、それは……どういう意味よ」
「どういう意味と言われても……そのままの意味ですが」
アレビヤは顔を紅潮させる。ナキから目を逸らし、俯きがちに前を向く。
「……も、もしかして、だけど。結婚してるって作り話、まだ続いてるの?」
ナキは一瞬何の話か分からなかったが、すぐに思い出した。そういえば、ノモスの尋問を乗り切るために、二人が婚姻関係にあると咄嗟の嘘をついていたのだ。
「続いてませんよ。あれはあの時だけの方便です」
アレビヤは余計に混乱したようだった。
「じゃ、じゃあ、さっきの綺麗ってのは?」
「な、何でもないです。忘れてください」
それ以降アレビヤは俯きがちになったまま目を合わせてくれなくなったので、ナキも仕方なく前を向いた。
(結婚……か)
自分もオスである以上、誰かと結ばれなくてはならない。その相手が人間になるかオオカミになるかは検討もつかないが、ともかく子孫は残さねばならないだろう。ナキの兄妹はオス二匹メス一匹だが、リデルの体がメスになってしまった今では、一族ではナキが唯一のオスなのだ。
(……でも、人間の婚約後は、夫婦二人で暮らすのが一般的だと聞きますよね)
ナキの前方では、リデルがウマのたてがみにしがみつき、寝息を立てている。
もし自分が婚約したら、リデルは……。
ナキには、リデルのもとを離れる気はなかった。あれだけ孤独を恐れる彼である。その理由は分からないが、自分が側にいないとお互い駄目になってしまいそうな気がするし、それに、自分は一生リデルに尽くしていくのだと昔から決めていた。それが群れの一員としての使命であり、尊敬する人に対する礼儀だ。
そう……それが自分の宿命なのだ。
現を抜かすな、ナキ。
そう自分に言い聞かせ、ナキは手綱を強く握りしめた。




