第三十話 序列第5番
突如として、床に赤の魔法陣が浮かぶ。円形の幾何学模様には記号が刻まれ、中央に複雑な紋章が浮かぶ。
「サンティアナがいない時を狙って来たのは褒めてあげマショウ」
一同は首を捻る。
「サンティアナ?」
「……知らずに攻めてきたのデスか? 運の良い奴らデスね。ですが、裏返せば、お前たちは運が悪いとも言える」
「どっちだよ」
「苦しみ方の問題デスよ。サンティアナがいれば一瞬の苦しみで済んだのデスがねえ」
「……どういうことだ」
「どういうことも何も。サンティアナはお前たちを剣ですぐに楽にするでしょう。しかし私はお前たちの魂を、私の悪魔にゆっくり味わわせるのデスよ。それはそれは、拷問のような永遠の苦しみデス」
ナキが訝しげな表情になる。
「どういうことです? それではまるで、あなたが今から悪魔を使役すると言っているように聞こえるのですが。イシキは悪魔を祓う立場では?」
「その通り、イシキは悪魔を祓いマス。しかし、それは表向きの姿」
「表向きの……?」
「イシキは悪魔を払える反面、悪魔を呼び出すこともできるのデスよ。これはごく一部のイシキとノモス様、そしてカロンしか知らない機密事項デス」
「それはなしていいのか……」
アレビヤが考え込むような仕草を見せる。
「またカロン……ねえ、カロンとは何なの?」
「それは異教徒には教えられないデスね。……あれ。お前どこかで……」
少し思案したセントピエルは、アレビヤの顔に、目が飛び出すくらいの驚愕を露わにする。
「お前……! さっきの……!」
思い出したようだ。そして悔しそうに舌を打つ。
セントピエルは記憶力が弱いらしい。
「私を騙した罪は重いデスよ……!」
「じゃあ今からお前をたおして、そのきみつじこうをバラしに行っちゃうもんね」
「ふん、逃がしませんヨ。お前たちが行くのは地獄デス……!」
魔法陣から赤が迸る。三人は腕で、閃光から目を庇う。
「*******、*****!」
腹の底から震え上がるような、言い表しがたい奇妙な言語が発せられ、落雷のような地鳴りが響く。白い光が瞬き、視界を埋めたかと思うと、凄まじい衝撃波が三人を襲った。リデルとアレビヤはなんとか踏ん張ったが、ナキだけは後ろの方へ吹き飛ばされてしまった。
リデルは光の中無理やりに目をこじ開ける。そこには巨大な獣の姿があった。小麦のような黄金の体である。顔の周りが濃淡の混じった毛の飾りに覆われ、目は刃のように鋭く、威嚇する牙は白く尖っている。どれもこれも、リデルの知る獣とは比べ物にならないほどに巨大だ。
「これは……ネコかしら?」
「いやネコではないだろ」
「分かってて言ったのよ」
獣が喉を鳴らしながら喋り始めた。
「我は賢者72柱が序列第5番、大総裁メルベースである。召喚者よ、願いは何か」
セントピエルは、新たなおもちゃを手に入れた子どものように目を輝かせながら、
「そこにいる三人を処刑してくだサイ!」
と叫んだ。
獣はこちらを睨む。
「良かろう。代償は分かっておろうな」
「分かっておりマス」
獣は満足したように唸ると、一つ咆哮した。耳を食い破るような音量に三人は顔を歪める。そうして怯んだ隙に、獣は歯を剥き出しにしてリデルに飛びかかってきた。
リデルは構える間も無く立ち尽くす。
食われる……!
「[神よ!]」
アレビヤが叫ぶと、空気が痺れ、震え、獣の体が空でピタリと停止する。重力が無視され、浮遊している。
「[神よ、その力をもってこの敵を散らし、神を憎む者を、主の御前から消し去り給え!]」
指で弾かれた球のように、獣の体は高速で地面に叩きつけられる。獣は自分の体重を支えきれなくなったかのように足を折り、その場に崩れた。
リデルとナキが目を見張った。今アレビヤの纏う気迫は、今までのそれとは比べ物にならない。彼女の瞳は静かに燃え上がり、悪魔を冷徹に見つめる。
獣は苦しげに息を漏らす。
「ぐ……聖句の知識があるか。面白い」
獣は笑う。
「才能はある――だが、まだまだ未熟のようだ」
獣は立ち上がると、また咆哮した。突進の態勢。リデルが迎えうつ間もなく、獣はリデルの側を通る。アレビヤへ向かう。
「アレビヤ、気をつけろ!」
「分かってるわ」
アレビヤが十字架をどこからともなく取り出し、それで十字を描きなら唱える。
「[煙の追いやられるが如く彼らを追いやり、ろうの日の前に溶けるが如く悪しき者を御前に滅ぼし給え!]」
建物が揺れるほどの強い風が、獣に吹き下ろす。だが今度は獣に影響はなく、そのまま猛進してくる。
「弱い!」
アレビヤに牙が迫る。
「アレビヤ!」
リデルは反射的に動き、アレビヤに突っ込んだ。間一髪、二人は白牙を交わし、抱き合った状態で地面に転げる。
「あぶなかった……」
息をつくリデルに対し、アレビヤはすぐに立ち上がる。
「[主は私の盾となり、我々をお守りなさる]」
アレビヤの十字架が指し示した先は、獣に襲われそうになっていたナキだった。
ナキの周りに展開された不可視の壁に獣は跳ね返され、悔しげな唸り声を上げる。
「なかなかに意志が強いな。では……」
獣が目線を脇に向ける。すると渡り廊下を支える長い柱に、その牙を立てた。亀裂が縦に素早く走り、獣が首を振ると、柱は石の削れる音を立てて、建物から外れる。
「そんな……!」
アレビヤは雷に撃たれたような驚愕を露にした。
「そんなって、何が?」
リデルが呑気に聞くと、アレビヤは微かに震えた声で答える。
「あ、悪魔は定義上、思念体に分類されるわ……つまり、イメージ上の存在よ。見えるけれど本当にはそこにいない」
「そこにいない? いるのに、いない?」
リデルが混乱する。
獣が柱を咥えたまま回転を始め、石柱を振り回し始める。
「じゃあなんで戦ってるんだよ? それなら害はないじゃないか」
「普通はそう思うでしょうね」
獣は回転の遠心力に任せ、柱をリデルとアレビヤの方へ放った。猛スピードで飛んでくる巨大な柱は、獣から離れて加速を続ける。
「下がれ!」
リデルがアレビヤの前へ出て、拳ごと重心を後ろへ引いた。柱にタイミングを合わせ、力を打ち込む。石の割れる音がした。元々亀裂も入っていたため、柱は裂かれるように砕け散り、リデルの足元に散乱する。
目を向けると、もう獣は次の柱を振り回し始めている。
「続きを話すわよ。確かに悪魔はイメージ上の存在。分かりやすく言えば実体がないの。けれど、悪魔は思念体であるがゆえに、人の精神に干渉できる。人が悪魔の攻撃を受ければ痛みを感じるし、受けた傷は強力な暗示となって人体にも表れるのよ」
アレビヤがスカートの裾をたくし上げると、その太ももに、鉤爪で付けられたような傷が痛々しく残されていた。
「じゃあおどろいた理由は?」
リデルは次の柱を砕きながら尋ねる。
「分からないの? そのイメージ上の存在が、今物理的なものに手を出しているのよ」
また新たな柱を放った獣は、高らかに笑った。
「我々は進歩する。人間の協力者から力を受け、今やほとんどのモノへの干渉が可能となった。だがお前たちはそうではない。知っているぞ司祭、お前たちがモノを防げないことを」
獣がまた新たな柱を外し、それを咥えたまま突進を始めた。
リデルは立ちはだかるが、獣の猛攻は思った以上に強く、脇に吹き飛ばされる。何とか受け身は取れたが、手足を擦りむいてしまい血が滲み出てきた。
リデルは叫ぶ。
「アレビヤ、にげろ!」
獣は一直線にアレビヤへ向かう。
「[去れサタン、悪はすでに討ち滅ぼされ、72の悪魔は屈服した!」
獣の体は見えない壁にぶつかり跳ね返される。
しかし、柱だけは守りを通過し、アレビヤを亡骸にせんと向かった。
アレビヤの悲痛な表情。柱に頭部を薙がれる自分の姿がよぎる。
その自分は血を噴き出し、死を自覚することなく息を引き取る。
(折角リデルみたいな人に出会えたのに――私はここで死ぬの?)
柱の動きが鈍く見える。ゆっくり、ゆっくりと動く。
もう避けようのない距離にまで、柱は近付いていた。
アレビヤは観念し、その瞼を静かに閉じる――




