第二十九話 嫉妬
「大丈夫でしたか?」
ナキはアレビヤに、いつもと変わらぬ笑顔を向ける。
その作られた笑みはアレビヤに束の間の安堵をもたらし、その一方で、胸が押し潰されるような苦しみを覚えさせる。
ナキは高らかに告げた。
「そこのハイマシフォス、今すぐ僕の伴侶から離れてください。これは警告です」
ハイマシフォスはナキを一瞥すると、異教徒と見なして槍を構える。ナキは見下ろすような侮蔑の目を向ける。
「僕は警告だと言いましたよ」
それでもハイマシフォスは武器を下ろさない。
ナキは深い息を吐いた。
「分かり合えませんか。仕方ないですね」
ナキが手を挙げた次の瞬間、ハイマシフォスが間抜けな呻きを上げて崩れ落ちた。
アレビヤは驚愕する。
屈強な男が一瞬で伸びた。それはアレビヤには到底できない芸当。魔法でも使ったのか。
見当がつかないでいると、アレビヤの背後から幼女が現れた。
澄ました顔で歩く幼女は、茶色混じりの髪と大きくて澄んだ目をしていた。それは紛れもなく、あのリデルだった。
脳をふらつきが襲った。ふらつきは脳を揺さぶり、負の映像を蘇らせる。アレビヤの見窄らしさと、リデルの華やかさが交互に再生される。
アレビヤは、一人取り残されたように立ち尽くした。
リデルはすれ違いざまにアレビヤに片目をつむって見せ、アレビヤは胸の苦しさを覚える。リデルはナキの方へ歩いていく。
リデルが、景色が遠のいていく。
ナキの唇が、遠くで動いていた。妙に音が篭っている。
敵が僕に気を取られている間に、先輩が後ろへ回り込んでたんです。
そうなの。
おれは正面から戦いたかったんだけどな。
へえ。
アレビヤ、一人でたいへんだっただろ。ごくろうさま。
どうも。
あ、そうだ。もうグレモワルたちは助けたぞ。せいどうに隠れてたおとうさんも見つけて、みんなまちのそとへ逃げるようにいっておいた。
そう。
集合場所はあの山ということにしておきました。まずはここを脱出して、早く街を出ましょう。ここの見張りは全員倒したつもりですが、何分派手にやったので、すぐ街から応援が来てしまうはずです。
わかったわ。
返答はした。返答はしたが……中身は無かった。空っぽだった。
するとリデルが近づいてきた。訝しげにアレビヤの顔を覗き込んでくる。かと思うと、突然大声を出してきた。
ハッと我に帰る。
「何よいきなり!」
そう噛みつくと、リデルは笑う。
「げんきそうだな。よかった」
リデルは踵を返して、ナキの背中に乗っかる。
「行きますよ」
ナキはいつもの淡々とした調子で告げると、階段の方へ歩いていく。
アレビヤは一人取り残される。
彼らはアレビヤの勝手な行いを、何一つ咎めないつもりなのだ。そう気付き、彼女にこみ上げていた胸の苦しさは、次第に痛みへ変わる。痛い、痛い。キリキリと苦しい。どうして、どうして、どうして……。
痛みが最高点を迎える。
思いがけず、叫んだ。
「どうしてよ!」
ナキが足を止め、振り返る。
「何がですか?」
「どうしてあなた達は、そんなに簡単に……! 私を責めもせず……!」
「だから何の話ですか」
ナキが困り顔で見つめる。
アレビヤの拳が握り締められ、皮膚に爪が食い込む。だが、激昂の前に痛みは無い。
「それよ、何食わぬ顔して、私を見透かしたように、何もかも先回りして、私にできないことをあっという間にやってのける! 一体どうしてなのよ!」
二人が豆鉄砲を食ったような顔をする。
一旦タガが外れたら、アレビヤの口はもう止まらなかった。
「私は一人でも全部やれたわ! グレモワル達を助けられたし、父だって簡単に救出できた! 絡まれてたハイマシフォスだって、今の二人くらいなら助けてもらわなくてもなんとかなったわよ!」
アレビヤの身体が小刻みに震える。頭に血が上り、顔が赤くなる。
「余計なお世話だったのよ、全然ありがたくもない!」
「でも……」
「でもじゃないわ! 私に助けなんて要らないのよ、だって私は最……っ」
声が詰まり、喉につっかえる。
アレビヤは目を見開く。
声が出ない。声が出ないのだ。
口が空気を欲するように開閉するも、その先がどうしても言えない。
「わ、私は……私は……?」
二人が心配そうにこちらを見ている。
そんな顔で見ないで!
また感情が湧きあがってきて、無意識に歯を噛み、音が軋む。
「だ、大体、あなた達はズルいのよ。得体の知れない神に力を借りたら、強くなるのは当たり前じゃない! そうよ、結局はイカサマなのよ!」
リデルは憐れむようにアレビヤを見つめる。
「私は努力してきた。悪魔を倒すために、頑張ってきたの! それなのに……一体なぜなの?」
声が嘆くように萎んだ。怒りは立ち所に追いやられた。
「私は……弱い。経験がなくて、未熟で……幼女に見下ろされるほどに、悪魔に嘲笑されるほどに弱い……」
幼少期に浴びた、腐った悪魔の嘲笑がよみがえる。
「アレビヤ……」
リデルが同情の目を向けてくる。
だが、アレビヤには目を逸らすしかない。そんな目を向けられる資格は無い。
「私は……どうすればいいのかしら。あなた達を見ていたら、私に生きる価値なんて無いんじゃないかって思ってしまう」
「そんなこと……」
「気休めはいいわ。実際そうなのよ、私には長所が無くて、なんでも平均的なんだから。エクソシズムも、悪魔の知識も、聖水作りも、仕事も、料理も。人並みにしかできない」
リデルは黙っている。
「こんな人間、いる価値無いでしょう? だってそこらにいる人と変わらないんだから。私が誰かと入れ替わったって、誰も気にしないわよ」
リデルの切なげな目をちらりと見て、アレビヤは吐息を漏らした。
「悲観的だって、そう言いたいんでしょう?」
アレビヤはそう言いながら、ポケットに入っていたロザリオを取り出す。ナキが警戒に表情を強張らせる。しかしリデルの方は、尚も切なげな目を向け続けている。
「でもね。自分より上の人を見たら、自分なんて簡単に殺されちゃうの」
光沢の失われつつある銀色の十字架が、空中で揺れる。
「嫉妬なんて、司祭がしちゃいけないのにね」
アレビヤはロザリオの濁った玉を、十字架を見つめる。十字架の揺れが小さくなる。
そして揺れが完全に止まった時--手が開かれた。十字架は下を向きながら落ち、地面にぶつかると、高い音を発して跳ね返り、地面に虚しく横たわった。
アレビヤが力なく笑う。
「結局私は、エセ修道女だったみたい」
そのまま立ち去ろうと、アレビヤは歩き始めた。足取りは重病にかかったかのように重い。
ナキが何か言っていたが、アレビヤの耳には入らなかった。耳が聞こえなくなってしまったかのように、音が遠くなっている。食べ物を目にした訳でも無いのに口の中に唾液が溢れてきて、口の端から流れ始める。視界も狭まって来て、明かりが消えて行く。
二人の横を通ろうとした時、アレビヤの前に、リデルが立ち塞がった。
「……通して」
声は掠れた。アレビヤの、透き通っていて快活な声は影も無かった。
リデルは静かにアレビヤを見上げた。今までと違う、突き刺すような視線が、アレビヤをぎくりとさせる。
「通すわけ無いだろ。これからどうする気だ」
「……どうもしないわ。放っておいて。リデルに私の気持ちなんて分かるわけ無い」
リデルの目は、燃え盛る炎のようにアレビヤを睨みつける。
「……お前、何か勘違いしてないか? 俺が努力無しで強くなったとでも?」
「違うって言いたいの?」
「俺は、あの神に力を与えられたわけじゃない。この力は元々持ってたものだ。それも、今までの努力で手に入れた、な」
リデルは、過去の糸を手繰り寄せるように話す。
「俺は元々強くなかったし、それどころか弱かった。仲間の足を引っ張ってばかりで、自分を情けない奴だとずっと思ってたんだ。そんな自分が嫌で努力もしたが、なかなか実を結ばなくてな。悔しかったよ」
リデルは無理矢理に笑う。
「でも、努力は報われなかったわけじゃない。地道な特訓の末徐々に成果を感じ始めて、いつの間にか、俺は群れのリーダーとして認められるほどの力を付けていたんだ。多分、心構えが甘かったんだろうな。父親が死んで、俺が群れを守らなきゃいけないって思ったら、いつの間にか力が付いてた」
アレビヤが困惑する。
ナキが真実ですよ、と口を挟んだ。
「先輩は一人で森中を走ったり、木に体当たりしたり、練習法は杜撰でしたがとにかく頑張っていました。そして群れの誰よりも強くなったんです。それもあって、僕は先輩を尊敬してるんですよ」
リデルが顔を赤くしながら、ナキの足を踏みつけた。
「ま、まあ理想とは程遠かったけどな」
アレビヤは、早まる心音に気付く。体の隅々へ、血が巡っていく。
「と、とにかくだな。俺の力は神に貰ったわけじゃない。ナキだって、生まれつき力が無かった分、頭でカバーしようとずっと努力してたんだ。みんな努力はしてる。それは知っておいてほしい」
アレビヤは黙りこくるしか無かった。リデルは返答を待たず続けた。
「それと……もうひとつ。これもアレビヤの勘違いだ。アレビヤは一人で何かに追われてたみたいだが、実際問題、一人で何かを成し遂げられる奴なんて存在しない」
アレビヤは目を見開いた。同時に硬直が解け、体がふっと軽くなる。
「群れで生きてると実感する。狩りも子育ても縄張りを守るのも、全部一人じゃできっこない。みんなで分担して、みんなで協力して、初めて群れで生活できるんだ。人間だってそうじゃないか? たった一人で何もかも成功させるなんて人間、いたら怖いだろ」
「…………たしかに」
アレビヤは言いにくそうに呟く。
ナキは頷いた。
「全くその通りです。例えば国は王が治めると言いますが、実質治めているのは国民全員です。王だけが国を動かしているというのは傲慢です。また、キリスト教では師に十二人の弟子がいたと聞きますよ。彼らは師の手足となって働いたとか。一人だけで何でも出来てしまうのは、神くらいではないですか?」
そして、アレビヤは神ではない。
アレビヤは口を横にぎゅっと結んだ。音が元に戻って来て、唾液も引き、視界も明るくなってくる。液体で歪み始めた視界が、アレビヤに顔を伏せさせる。
「……その通りかもしれないわね」
「そう。皆で助けあわないと。俺がナキに助けてもらってるみたいに」
「僕も、先輩にはいつも助けてもらってます」
リデルは可愛げのある笑みを浮かべる。
「今までアレビヤを救いだせたのも、ナキが指示をくれたおかげなんだ。俺だけだったら誰ひとり助けられなかったかもしれない」
「頼るって、結構大切なんです」
アレビヤは二人を交互に見た。
「それは……私に頼れと言いたいわけ?」
二人は頷いた。
「アレビヤは仲間だからな」
「え?」
アレビヤは目をぱちくりさせる。その反応にリデルは首を傾げる。
「あれ、俺はもうとっくの昔に、アレビヤを仲間だと思ってたんだが」
アレビヤの感情が追いつかない。熱いものが目にこみ上げてくる。ナキも微笑みかけてくる。
「僕も、仲間だと思ってますよ。アレビヤさんが本音で語ってくれて嬉しかったです。信頼できると、ようやく思えました」
アレビヤの口から、嗚咽が漏れ始めた。
リデルが何やら嬉しそうにナキを見る。ナキは照れ臭そうに自分の頭を撫でている。
アレビヤは自身の複雑な感情に当惑した。
「でも……っ、私は二人に釣り合わないわ。ひぐっ、私にはっ長所なんて、何一つ、無いのに」
「なんでそんなこと言えるんだよ? アレビヤはナキを助けてくれたじゃないか。それに、ストラティオから俺達を守ってくれた。それを長所って言わずになんて言うんだよ? 俺達には到底出来る業じゃない。もっと自信持て。それで長所が無いなんて言ってたら、頭良い以外にとり得の無いナキは死んじまう」
酷いですよ、とナキが抗議する。
「だからさ……」
リデルは歩いていって、ロザリオを拾い上げると、アレビヤに差し出した。十字架が反射した光が、眩しく目にちらついた。
「もうちょっと、頑張ってみろよ」
アレビヤは唇をかみしめる。泣き声を押し殺そうとしたが--このリデルを前にしては、到底できぬ所業であった。堰を切ったように号泣の声が上がり、華奢な肩が上下する。溢れた涙が透き通った肌を流れる。
背伸びをしたリデルの手が、肩に優しく触れた。
「良い子だ」
アレビヤは滅茶苦茶に泣きながら、ロザリオを受け取った。
その重みは、いつもより増しているように思われた。
「うぐっ……分かった。ひぐっ、頑張ってみる。私、頑張ってみる」
アレビヤはリデルに抱きついた。当然ナキにも。それは三人の絆を体現しているようであった。
三人は笑い合う。この時が永遠に続けば良いのに――
高く意地悪げな声。
「なかなかに派手にやってくれましたねえ!」
振り返ると、セントピエルが立っていた。悪魔のような形相でこちらを睨みつけている。
「まがわるいな……」
リデルが苦いものを食べたみたいな顔をする。
アレビヤは目を腫らしながらも気持ちを切り替え、必死に考えた。裁判所の方へ逃げても、追い詰められる危険がある。かといって戦っても勝てるかどうか……。
「……戦いましょう」
ナキの言葉に二人は一瞬驚いたが、すぐに頷いた。この三人に互いを疑うような気持ちは、今微塵たりとも存在していなかった。
セントピエルが呪文を紡ぎ始めると、不穏な空気が渦巻き始める。
一行は、決意のもと対峙する。




