第二十七話 主は共にいるか?
早朝。日が白矢を投げ下ろし、闇に終わりを告げる頃。
日中商業で栄える街カタスリプスは、今とても静かだった。ネコや人の気配どころか、虫一匹の存在すら感じられないほどに、静かだった。その静けさは、まるで霜のように街へ降りかかる。
時折鳥の声が聞こえる。
だがそれは禁忌を犯したとでもいうように、すぐ沈黙してしまう。また、静寂が街を覆う。
そんな時間停止の、まるで死んでしまったような街を毅然とした表情で歩くのは、紫眼の女アレビヤであった。
アレビヤはロングの髪を振りながら、路地裏を迷いなく進んでいた。その目は、建物の陰から覗く聖殿を捉えていた。
決意を固めようとしたアレビヤの脳裏に、リデルのあの華麗な動きが浮かぶ。途端に胸が苦しくなり、建物から目を逸らしてしまう。
胸の苦痛を振り切るように進んでいると、ときたま前から人が歩いてきた。こんな時間に外を出歩いているのは、十中八九ストラティオだった。彼らに睡眠は必要なく、二十四時間活動が可能だ。その度に、アレビヤはなるべく自然な動きで別ルートへ逸れなければならなかった。
人影に気を配りながらも、アレビヤの目はずっと遠くを向いていた。硬い面持ちのまま、彼女の片手はスカートのポケットに入れられた。そのポケットが一定間隔で膨らんで、元に戻るのを繰り返した。アレビヤは、入っていたロザリオを丁寧に手繰っていた。
([恵みあふれる聖母、主はあなたとともにおられます――])
祈りを紡ぎながら、歩を慎重に進めて行くと、開けた場所へ出た。聖殿に繋がる大広場であった。巨大な噴水があり、その周りには高価な異国の花が植えられている。血のような赤が目にちらつく。
(ちょっと遠回りになっちゃったわね。裁判は日の出から行われるから、グレモワル達の移動は私が着く頃に始まるはず)
アレビヤはロザリオとは反対側のポケットから、ネックレスを取り出した。羽根、牙、貝殻のついた、ノモス教の印だった。
(神様、お許しください――)
アレビヤは軽く呟いて、ネックレスを首に掛けると、聖殿を見上げた。
金色に輝く円筒型の建物は、両脇に二つの塔を構えそびえ立っていた。至る所に彫り込まれた古代文字が、威圧的にアレビヤを見下ろす。
アレビヤは息を飲む。
震える膝を押さえながら、聖殿への幅の広い幅の広い階段を昇りきると、見上げるほど巨大な扉が、怪物の口のように大きく開け放たれていた。そこから見えた、煌びやかな玄関ホールを、国の役人やハイマシフォスが行き来していた。
アレビヤは威圧感に負けそうになってしまう。アレビヤは、ふと、自分の胸の鼓動に気が付いた。張り裂けてしまいそうなほどに、心臓が激しく脈を打っていた。
息を整えるべく、一杯に酸素を吸い込む。そして静かに吐き出す。
これで落ち着くかと思ったが、心臓の音は激しいまま、アレビヤの恐れを。
いくら呼吸を繰り返しても、それは同じであった。
アレビヤは、ふらつきを感じ始めていた。視界が回り始め、アレビヤは自分に言い聞かせる。
(私はキリスト教信者で、司祭で、そしてエクソシストであるのよ。それも、最強のエクソシスト。ここまで来て逃げるわけにはいかないじゃない)
しかしアレビヤに、またもやリデルの姿がちらついた。
瞬間、彼女の恐れていた疑問が浮かんでしまった。
(最強のエクソシスト……? 最強の? 私が? 本当に最強なの?)
アレビヤは自身の立てた問いに動揺する。自分が勝手に回答を始める。
(リデルはあんなに小さくて幼いのに、私にはないような力を持ってたわ……。ナキだって、私と年は同じくらいなのに、とても頭が良かった……。それに比べて、私に出来ることと言えば何? 聖水を作ること? それとも悪霊を祓う事すらできないこの貧弱なエクソシズム? これで最強だなんて……私は何を言ってるのかしら?)
数々の失敗が、意識すること無しに湧き上がってきた。信徒を悪魔憑きと勘違いしたり、三下である悪霊を取逃がしたり、逆に殺されそうになったり。
思えば、最強に値する活躍など、何一つ成し得ていなかった。
悪魔のやってきたあの日、祖父を失ってから、自分は何も変わっていない。そう気付く。
――いや。
ずっと前からそんなことには気付いていた。
だがわざと、考えないようにしていたのだ。自分が前に進んでいない事を、認めたくなかったから。だから目を逸らし続けた。それは今も同じ。多分、これからも変わらない。
しかし、まだアレビヤは粘った。弱い自分を覆い隠し、胸の中で呟く。
(でも、いまだに変わっていないとは言いきれないわ。私は努力してきた。祈りは毎日捧げてきたし、神学は独学でほぼマスターした。それに悪魔学はとっくの昔に習得済みよ。ここでグレモワル達を助けだせば、私の成長を示せる。そうよ、そのためなのよ……リデル達を置いてきたのは、そのためなんだから……)
そう自分に言い聞かせていると、いつのまにか気持ちは落ち着いていた。どこか靄がかかったようではあったものの、足は踏み出せそうであった。震えも止まっていた。
アレビヤは目を落とし、息を吸い込む。意識を集中させて、足を動かそうとする。
……動く。
しかしそれを、後ろから呼びとめられた。
折角大人しくなっていた心臓が跳ねあがって、また暴れ出した。
「どうしたんデス? 先程からそこで固まっていマ~スが?」
声に聞き覚えがあった。
横目で見やったアレビヤは、目を見張る。
それは昨日待ち伏せで捕獲を図ってきた、セントピエル・イシキだった。




