第二十二話 決別
月日がたち、アレビヤは十四歳になった。背は伸び、声も大人びた。だが悪魔好きは変わらず、エクソシストの夢も揺らがなかった。
今彼女は教会で、名前を馬鹿にされることが許せないと憤慨している。
「おじいちゃん! 納得いかないよ!」
姦しい声で話すアレビヤ。
椅子に座って居眠りをしていたグレモワルは、寝覚め悪く目を擦る。
見ると、聖書を読んでいたらしいアレビヤの祖父が、アレビヤに目を上げるところだった。彼はもう神父を引退し、教会の仕事は息子――アレビヤの父に引き渡している。今は隠居の身だ。
アレビヤの方は学校帰りなのか、制服姿だった。思春期ということもあり人並みに膨らんできた胸の上には、大きな赤いリボンが着けられている。そのプロポーションと言い、顔立ちといい、グレモワルは改めて彼女の成長を感じていた。
アレビヤの祖父は柔和な笑みを浮かべる。
「そうか。みんな、親から悪魔の事を聞かされてるんだろうな」
「違うよ」
「ん? 違うのか?」
「親じゃなくて、ノモス教だよ」
「……ああ……ノモス教か……」
祖父は少しうつむく。
「最近は新しい信徒さんもノモス教にとられて、お父さんは苦労してるみたいだなあ」
アレビヤは眉根を寄せる。
「はあ、隠居したからって他人事みたいに言って。そのノモス教が、悪魔を徹底的に潰すって息まいてるの! 学校では週二回も悪魔は怖いぞ、っていう話を聞かされるんだから。そのせいで私は肩身が狭いわ」
「そうかあ。ノモス教も必死だなあ。悪魔は恐ろしいってことだけが広まって、おかしなことにならなければ良いんだが」
そう言いながら、祖父は震える手で聖書のページをめくろうとするが、指が滑ってなかなか掴む事ができない。
見かねたアレビヤが代わりにページをめくった。
「ありがとう。助かるなあ」
礼を言われて、アレビヤは嬉しそうだ。
「おじいちゃんも、もう年なんだし、もっと違う事もやってみたら? 聖書ばっかり読んでちゃ肩こるでしょ?」
「やってもいいんだが、聖書は読まないとなあ。お祈りもしないと」
「なんで? 別にそれくらい……」
「やらなきゃ駄目なんだよ。止めると神様に見放されてしまうからなあ。アレビヤも、まだエクソシストになりたいと思ってるなら、お祈りはちゃんとしなさい」
「……そうかなあ」
「そうだよ。神様の助けなしに、悪魔と戦うのは無理なんだ」
「……私、思うんだけど」
アレビヤはロザリオを握りしめた。
「私、悪魔と戦うんじゃなくてね。悪魔を説得して、苦しめずに追い出せるエクソシストになりたい」
祖父は目を丸くした。グレモワルも密かにびっくりしていた。
「それは難しいことだぞ? かなりの努力が必要だ」
グレモワルは眉をひそめた。聖句も使わず、説得だけで悪魔を祓うなど、努力だけで到底できるようになることではない。悪魔憑きを多く見てきたグレモワルには分かった。
しかしアレビヤはそれを信じて、笑顔になる。
「私、頑張るね」
「ああ、その意気だぞ。アレビヤ」
二人が笑い合い、穏やかな空気が流れていた時、外が急に暗くなった。ステンドグラスの柔らかな光が消える。
「なに?」
グレモワルが外を見に行こうとすると、深紅の光が窓の外を満たした。
赤い、赤い光。
祖父の目が変わった。
「アレビヤ、おじいちゃんの道具を取って来てくれるかい。昔付けていた、あのベルトだ」
祖父がそう言うが、アレビヤは動かない。
「どうしたアレビヤ?」
アレビヤの体が、小刻みに震えていた。ゆっくりと、上を指さす。いつもは綺麗な青空が見える、教会の窓だ。
しかし今見えるのは空では無く……血走った大きな眼球であった。
「びゃあびゃははははうぉぶふぉへは」
いくつもの声が僅かにずらされ重なったような鳴き声が、わんわんと音を響かせる。
「あれなに!? おじいちゃん!?」
「アレビヤは知らなくていい。それより、早く道具を取ってきなさい!」
老神父は前の席に体重を預けながらゆっくりと立ち上がる。
「神父様、あれは一体!?」
グレモワルは皮膚が切り裂かれるような痛みを感じていた。体が鋭く押し引くようなプレッシャーを受けている。
老神父は押し黙ったまま、問いに答えない。
眼球は小刻みに動き、様々な所を見ていた。ステンドグラス、絵画、十字架、机、祭壇。そして、老神父を捉える。
「びい゛い゛い゛い゛い゛い゛い゛い゛い゛つげびやあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!」
けたたましい叫び声。
眼球は老神父を捉えたまま、真っ直ぐ窓にめり込んでくる。窓が割れるかと思われたが、その眼球は窓を通り抜けてきた。続いて体も壁を通り抜けて入ってくる。肉の腐った臭いが充満し始め、グレモワルは鼻をつまむ。あまりの臭気に喉がひりひりして来る。
「これは……!」
老神父は驚愕した。
見上げるような巨体。体は様々な肉の寄せ集めで、足の部分からは人間の肋骨を巨大にしたものが、胴体からは手や足の骨が、肩からは大腿骨、手からは背骨が鞭のように飛び出している。まるで誰かが突き刺したような形だ。そして首から上はオオカミ。皮をはいだように筋肉が剥き出しになっている。目は割に会わず巨大で、さっき覗いていた目玉は、その顔の三分の二ほどもあり、もう片方の目はもとあった場所からぶらんぶらんと神経で繋がっている状態だ。そして頭のてっぺんには、人間の腰の骨が王冠のように被されている。
「あっひゃっひゃっひゃ! ずう゛ぞおおおおおおおお!!!」
その声は火山が噴火したように大きい。グレモワルは耳を塞ぐ。
「神父様! あれはなんなんですか! 知ってるんでしょう!? 答えてください!」
老神父は立ちつくし、息を飲んだ。
「……悪魔だよ……とても私の手には負えない悪魔……」
そこに、アレビヤが帰ってきた。
「おじいちゃん、持ってきた……よ……う゛っ」
あまりの臭気と悪魔のグロテスクな容貌に、アレビヤが嘔吐した。吐瀉物が赤い絨毯に撒き散らされる。
「大丈夫か!?」
グレモワルがアレビヤの下に駆け寄り、背中をさする。
吐瀉物に吊られてか、悪魔がアレビヤに興味を示した。
「うぉ?」
目玉がぐるぐる。
「まずい……!」
「ぶへらふぁりつへっとひたらっ!」
突如太い手が伸びた。腐臭を放ちながら、アレビヤの方へ突っ込んでくる。アレビヤがそれに気付く。たがその体は震えて震えて止まらない。逃げられない。それはグレモワルも同じだった。二人は死を覚悟する。
「――――!」
もう駄目だ、グレモワルはそう思った。アレビヤも、そう思った。
だが、悪魔の手は二人に触れなかった。いや、触れられなかったのだ。
空中に十字の印が浮かび、盾となって悪魔の手を受け止めたのである。
その盾を出したのは、老神父であった。
「[限界無き永久の業火は、神の冒涜者を焼き祓う]!」
年を取りしわがれた声からは考えられないような、凛とした詠唱が響き渡る。
悪魔の真下から、突如として火柱が湧き上がった。
悪魔の呻きが教会に反響する。
「おじいちゃん、すごい……」
嘔吐に疲弊しながらも、アレビヤは感嘆する。
老神父は畳みかけた。
「[去れサタンの手下、今すぐこの神の家を離れよ!]」
しかし。
「ビャララギャステントーリッタ!」
悪魔の声が轟くと、火柱が消え去った。眼球は老神父を捉える。
「ぐっ……!?」
そこで祖父は腰を押さえて蹲ってしまった。
もともと、彼の体は動ける状態になかったのだ。あそこまで動けたのは、まさに奇跡だった。
「おじいちゃん!」
「お、おい!」
グレモワルが止める間もなく、アレビヤが駆けだしていってしまう。
走りながら、彼女は唱え始めた。
「[悪と悪の使徒を討ちし大天使の]!」
老神父に負けないくらい力強い声。
グレモワルは、目を見開いた。感情に、体が痺れている。
アレビヤの唱え始めたその箇所は、幼い頃ごっこ遊びで何度も唱えた、聖ミカエルに関する福音であった。
「[裁きによりて、その誘惑を打ち破り]!」
その文言は、幼い声で聞き慣れていた。だが成長した彼女の暗唱は、幼い時とはまた全く別のものに感じられた。
(アレビヤ……)
グレモワルは涙を流す。
アレビヤは最後の部分を、渾身の力を込めるようにして、唱えた。
「[その悪を祓いたまえ]!」
アレビヤは悪魔の前に立ちふさがった。
悪魔の目線はアレビヤに向く。そしてせせら笑った。
「あびゃびゃびゃ! グズ天使の聖句か! 笑わぜるな、こむすめ!」
悪魔がまともな言葉を喋り始めた。
「おれを知っでいるか? こむずめ?」
涙を流し、肩を震わせながら、アレビヤは答える。
「し、し、知ってる。く、腐った悪魔、フート。じょ、序列は、ふ、不明」
「お゛まえ、おれを知ってる! 褒めでやろうこむすめ!」
フートの全身の骨が、軽い音をたてる。
「褒美に序列を教えでやる。おれは賢者の使いではないほうの、序列31番だ」
「賢者の使いではないほうの……?」
「わがったらどけ。海獣の名を持つこむずめ」
「……!」
一瞬の沈黙があった。
次の瞬間、アレビヤの鋭い眼が悪魔に向けられる。
「嫌よ! あなたが退きなさいよ! さっさとここから消えなさい、この悪魔! ここは私たちの家よ!」
アレビヤの口調が変わった。アレビヤから今までのような幼さが消えたのは、この時からだったのかもしれないと、グレモワルは後に振り返る。
問答の末、悪魔は強硬手段に出、その大きな手で振り払われたアレビヤは壁に衝突して意識を失い、立ち向かった祖父は重傷。悪魔は祖父にダメージを与えたことを確認すると、そのまま消えていったという。その後、祖父は老いも重なり、程なくして亡くなった。彼を看取ったのは、グレモワルとアレビヤの二人だけだった。
この事件を利用し、ノモス教は悪魔のイメージの完全な定着に成功。異教徒を悪魔崇拝者とみなし、徹底的な排除を進めて行った。




