第十八話 著者不明の福音書
家に着くと、アレビヤは悲鳴をあげた。
「なによその服! ボロボロじゃない!」
「いや、実はだな……」
リデルはさっきの出来事を、短く簡単に話す。ややこしい所はナキに手伝ってもらって、なんとか話し終えると、アレビヤは何か納得したように何度か頷いた。
「ロリコンに襲われたのは心中察するとしか言いようがないけれど、ストラティオに捕まりかけて、なぜか泉の水が効いて、ってのはなんとなくわかるわ」
「え? ストラティオが悪魔に近いことも知っていたんですか?」
「大方ね。これだけ聖水の減りが早いのは、ストラティオの数と関係してるに決まってるわ。でも、その先が不明ね。なぜノモスが悪魔を召喚できたの? それもあのアイポロスを?」
「しってるのか?」
「有名よ。未来と過去を見通せる、かなり強力な悪魔。学術的に付けられた階級では、上から二番目に位置すると言われているわ。まあでも、賢者の方だっただけましね」
「賢者の方? まだもう一つあると?」
「そうよ。あなた達は知らなくていいけど」
二人はえーっと声を出す。アレビヤは気にせず、腕を束ねて考えた。
「しかし、分からないわ。そのファルヘと名乗った神……。キリスト教は一神教だから、その修道女である私は信じないのがベストなんだろうけど、あなた達の話なら……信じてみてもいいかもね。何ていったかしら。オルワイデ?」
「そうです。オルワイデの神と言っていました。それと、悪魔はオルワイデを恐れているとも」
「うーん……悪魔が恐れるのは神聖な物のはずだけど……まあでも、その名前に思い当たる節はあるわ」
「ほんとうか!?」
「ええ、公式には認められていない福音書――キリスト教の教典みたいなものよ――なんだけど、その内に一節だけ、オルワイデに関する記述があったはず。確か、『オルワイデの戦い』についてだったかしら」
「なんだそれ?」
「大昔の戦争よ。記述は確かこう。『オルワイデ平原にて、強き存在は悪しき魔と対峙した。永きに渡る戦いの末、強き存在は天秤を創る』。これは天使と悪魔の戦いを表しているんだ、というのが多くの聖職者の見方ね。実際これが今の公式的な見解になっているわ。キリスト教自身の利益も大きいしね」
ぽかんとするリデルの横で、キリスト教の知識のあるナキは頷いている。
「でもその一方で、少数派も存在しててね。彼らは別な意見を持ってたの。この記述は天使と悪魔の戦いではなく、多くの神と144の悪魔の戦いを表したものだったのではないか、って」
なんだかすごそうだ、とリデルは目を輝かせる。
「もちろんそんなことを言った聖職者は消されちゃったけど、その著書は密かに出回ってるから、こうして私が知ることができたってわけ。そのファルヘって人、もしかしたら、その“多くの神”が実在した証拠になるかもね」
証明したらその瞬間殺されちゃうけど、とアレビヤは冗談めかして言った。
「加護だとか色々複雑みたいだけど、それより先に引っ越しを済ませましょう」
はーい、と二人は返事をした。
「じゃあ、その泥だらけで血の付いた服をなんとかしましょうか。そうね、ナキは父の服に着替えてもらえる? リデルは私の昔の服を貸すわ。着替え終わったら、私が聖水作ってる間に、箱詰めしておいた荷物を部屋の中から廊下へ出しておいてくれるかしら」
二人は聖水で思いだす。
「あ、そういえばアレビヤ」
「何?」
「じつは泉のみずが……」
「?」
「あくまのせいで、ぜんぶ枯れちゃったんだけど……」
リデルは顎を引き、縮こまって言う。アレビヤが怒ると思っていたのだ。だが、アレビヤは別段怒るそぶりを見せず、ただ首を傾げた。
「なんでそんなに申し訳なさそうなの? 別に大丈夫よ」
アレビヤは涼しい顔で言った。
「聖水は井戸水でも作れるから」
「え……!?」
リデルとナキは開いた口が塞がらない。
「でもおまえ、聖水は泉のみずでしかつくれないって……」
「私そんなこと言ったかしら?」
アレビヤは顎に人差し指を当てとぼける。その指にいくつか刺し傷が目立つ。
「言ったとしても、泉は元々聖水に近い効果があったから作業効率が上がるって意味よ。あと井戸水産よりちょっと強めの効果が出るとか。まあ、そうは言っても差は微々たるものなんだけど」
「……じゃあ、おれたちはなんで泉までいったんだ?」
「ほとんど意味はないわね」
「き、きさま……!」
「でも無駄足じゃなかったはずよ。泉の水、すごく綺麗だったはずだし。それ見られただけ良かったじゃない」
「うるせえ!」
このとき、リデルは初めて女を殴った。




