第十六話 序列第22番
「えっ!?」
ナキがそう声をあげたときには、リデルはもうナキの背後で戦闘態勢を取っていた。リデルの体が消えるような素早さで動く。うっ、と男の呻き声が聞こえる。
「なんですか!?」
ナキが振り返りきった時には戦闘は終わり、ハイマシフォスが腹を抱えて倒れるところだった。
拳を固めるリデルは、激しく肩を上下させる。
「うしろから敵がきてたんだ。まったく油断するからこうなる……うッ!」
リデルが痛みに苦悶の表情を浮かべた。
「無理しないでください! ああ、また迷惑かけてしまって、すみません……」
「あやまるより、ここをはなれた方がよさそうだ。いやな予感がする」
そうリデルが言った矢先、背後でまた赤い閃光が走った。ナキが振り返ると、泉の向こう側で、ハイマシフォス三人が魔法陣を取り囲んでいるのが見える。彼らの唇が開閉すると、それに合わせて風が彼らを中心に巻き起こり、強弱のリズムが作られる。
「何かを唱えている……?」
しかし何のために? 彼らはストラティオをもう一度召喚するつもりなのだろうか?
するとハイマシフォス達が両手を高く掲げた。魔法陣からそれに応えるように、強力な光が発せられる。それは空高く上がったかと思うと、カーブを描いて泉へ落ちた。雷が落ちたような、衝撃と轟音。その眩さに、目が開けていられない。光に包まれる。
視力が奪われる。
少しして、いつもの視界が戻ってきた。ナキは状況を目前にし――驚愕する。
「泉が……干上がった!?」
目前の泉には、水が一滴も残っていなかった。水が再び出てこないことから、源泉ごと枯れてしまったのだと分かる。
一体何が起こったのか想像も出来ず、ナキは立ちつくす。水量が少なかったとはいえ、こんなことが可能なのだろうか?
「驚いているようだな、青年よ」
「上……!」
見上げると、そこには美しい女性の姿があった。背中に天使のような白い翼が付いていて、それがはためくことにより彼女は宙に浮いている。艶めかしい目つきと口元が、ナキを誘うように歪む。
「あなたは……?」
「よくぞ聞いてくれた」
女性は妖しげな笑みを浮かべた。
「我が名はアイポロス。賢者に使役されし72柱のうち、序列第22番の悪魔である」
「悪魔……!?」
「我を呼びだしたのは青年ではないだろうな。誰だ、名乗り出よ」
干上がった泉の向こう側で、ハイマシフォスが声を張り上げた。
「我々だ!」
「なるほど。三人がかりで私を召喚したか」
あの赤い魔法陣は、悪魔を召喚するためのものだったのだと理解する。同時に、泉が枯れたのはこの悪魔のせいだったのだと理解した。
「して、願いは何だ?」
悪魔アイポロスが、どこか楽しげに尋ねる。
「そこにいる奴らの正体を教えて欲しい! 結果によっては、我々は彼らをとらえねばならない!」
「ほう。いいだろう。ただし見返りは分かっておろうな?」
ハイマシフォスが頷くと、アイポロスの目が赤く光り始めた。その目が、三人を見回す。
最初にナキを捉えた。
「なるほど。そこの青年は賢いが、ただの人間だな。それ以上でもそれ以下でもない」
続いてヘルファを分析する。
「その隣の女も、ごくごく平凡だな。とるに足らない、雑魚の人間だ。ただ――そこの小さい女」
リデルを見るアイポロスの目は、どこか畏怖の念を抱えているようにも見える。
「そいつは力に護られている。我々の恐れる力だ」
「恐れる力とは……?」
「かつて我々とぶつかり合い、我らが敗北した力だ。おお、恐ろしい。それに、厄介な存在も絡んでいるようだ……。私には口に出せない、あのお方が、その小さい女を護っている」
「?」
「……残念だがこれ以上は視られない。さあ、願いは果たした。用は済んだか。未熟なお前たちでは、私の召喚自体苦痛だと察する。早くした方が身のためだぞ」
「あともう一つだけ視てくれ。彼らはノモス教徒ですか?」
アイポロスは三人を見るまでもなく答える。
「違うな」
ハイマシフォスたちが歓喜した。
「アイポロス、最後にあともう一つだけ、もう一つだけ頼みたい。彼らを動けない状態にしてくれませんか?」
「たやすいことだ。だが小さい女に手は出さんぞ。まあもとより、小さい女はもう動けまいが」
アイポロスが、ナキの視界から立ち消える。
次の瞬間、アイポロスはナキの眼前に現れていた。
白く長いアイポロスの指が、ひやりとナキの顎を這う。
「[固まれ、永遠に眠るが如く]」
瞬間、ナキは石のようにピクリとも動かなくなってしまった。
「ナキ!」
リデルが叫ぶ。アイポロスがまた消えたかと思うと、リデルの目の前に出現した。その表情は、歪んだ笑いに染まっている。
「クスクス、お前には止められまい? 可哀想な奴だ。力を持ちながら、人間であるがゆえに限界を迎えてしまうなど……」
アイポロスは、リデルの傷を舐めまわすように見る。
「本当に、可哀想だ……そんなお前に一つアドバイスをしてやろう。お前はもう少し後の事を考えた方がいい。馬鹿なままでいると、私の視える未来が現実になってしまうぞ……? お前は苦しみの中で破滅するのだ。そう、紛れもなく、お前が重きを置くあの愛自身によってな……。ま、お前の馬鹿は治らないだろうが?」
リデルが苦痛の中、アイポロスを睨みつける。
アイポロスは愉快だと言わんばかりに哄笑した。
「惨め、惨め惨め惨め! そういう人間の姿は大好きだ! もっと見せろ、その無様な顔を、自責の念に苛まれたその傷を! 私にもっと、楽しみを与えてくれ! そして私に喜びを…………ん?」
突然、アイポロスが弾かれたようにヘルファの方を向いた。
「……気のせいか……?」
自分でそう言い、自分で首を左右に振る。
「いや、私に間違いはない……どういうことだ……あり得ない……」
アイポロスはかなり怯えているようだった。ヘルファの何が怖いのだろう、とリデルは思う。
が、理由は直ぐに分かった。
ヘルファの目だ。ヘルファの目つきが、今までとはまるで異なっているのだ。あのおっとりした様子は、今微塵もない。まるで憎悪と憤怒の炎が渦巻くように、彼女はそこに立っている。
「おい、リデルを馬鹿にする気か? 許さねえ」
口調も粗暴に変わっている。
「てめえみたいな奴は確実に……殺してやる」
ヘルファが放った一言一言は、悪魔に犯された空気を震わせ、死の降臨を予兆させるのだった。




