ちょっと失礼しますよ
勇王国の王都が『宵月喰らい』に襲撃されて二日後――――。
甲殻球は以前と変わらず、遥か上空を飛び回っていた。
今は落ち着いているが、王都の住民たちは再び攻撃が始まるのを警戒して、巣穴に逃げ込んだ野兎のように怯えながらの生活を余儀なくされている。
当然ながら脱出を試みた者たちは多かった。だが王都を出るには四つある大門のいずれかを通るしかない。
その大門に近付くだけで甲殻球が殺到するため実質的に封鎖されており、本来なら外敵から守ってくれるはずの王都を囲う城壁も、この状況では内側に閉じ込める監獄と化していた。
暴動や略奪が起きなかったのは、当の甲殻球が睨みを利かせていたからなのは不幸中の幸いか。
もちろん王宮側も黙って見ていたわけではない。
兵を動員して食料を配給したり、なんとか甲殻球を落とす方法や、民を避難させる手段を昼夜問わずに議論していた。
しかし、空を自在に飛び回る無数の甲殻球が相手では、有効と思われる作戦ひとつ立てられず、無為に時間だけが過ぎていく。
このまま数日も経てば食料不足が懸念されるが、まだ僅かな猶予がある。
甲殻球の目的は不明だったが、逃げようとさえしなければ攻撃されないため、大通りから人の姿が消えて静寂に包まれた王都は、時間が止まったかのようだ。
とはいえ、まだ問題ないと言えるのは余裕のある者たちの話だ。
この王都には貧民街と呼ばれる一角があった。
普段の生活すら覚束ない者たちが集まる場所……いわゆるスラムである。
命の値段が安い貧民街では、ちょっとしたケガや病気でも生死に関わる。
それは栄養状態に加えて衛生環境も悪く、治療を受けるお金もないからだ。
さらに、今回の騒ぎによって誰もが自分の生活を維持するのに精一杯であり、善意による救いの手を差し出す者もいなくなってしまう。
そして今、とあるボロ小屋で二人の親子が早すぎる別れを迎えようとしていた。
「う、うぅ……」
「おかあさん! おかあさん!」
寝床で苦しそうに呻く母を、まだ幼い娘が懸命に呼びかける。
この母親は以前より疲労から体調を崩してしまっており、騒動の煽りを受けて倒れたのだ。
安静にして休めば治る程度の、ちょっとした風邪みたいなものだった。
だが体の免疫が弱った彼女たちにとって、そのちょっとした風邪が重症化して命を奪う大病となる。
高熱に苛まれながらも、母親は最期を予感して娘を優しく諭したが、それを娘が受け入れられるはずもなく、大声で泣きながら縋り付く。
「おかあさん! いやだよぉ! おかあさーん!」
周辺で暮らす者たちにも悲痛な泣き声は聞こえていたが、だからといって助ける余裕も術もない。
この世で、母だけが少女の頼れる相手だった。その母がいなくなってしまう。
だから少女は、一心に祈った。
(だれか……おかあさんを、たすけてください!)
誰かはわからない。少女は国の偉い人たちや、神様が助けてくれないことを知っているからだ。
それでも誰かに救いを求めずにはいられず……やがて、その涙に誘われるようにして福音は訪れる。
「……あれ?」
少女が変化に気付いたのは、急に空気が澄んだように感じたからだ。
貧民街は立地的に王都の下流にあり、汚水が近くを流れていることもあって空気は淀み、慣れている住民でも場所によっては悪臭に顔をしかめる。
それが一掃されたのかと思うほど清浄な風に包まれた少女は、自身の身体が軽くなったと感じられた。
実のところ、少女もまた病によって体調が悪かったのだが、本人も知らないうちに改善されているのだ。
うなされていた母も呼吸が落ち着いており、少女は理解できずとも、ほっと安心して涙を拭う。
(でもこれ、なんだろう?)
変化は空気だけではない。小屋内には白い輝きが漂い始めていた。
まさか自分が実は死んじゃっていて、これは天国に行く前兆なのかと、少女が疑い始めた頃……。
「ちょっと失礼しますよ」
「え?」
見知らぬ女性が、とても気軽に小屋へ入り込んだ。
ここは治安の悪い貧民街。普通なら強盗かと慌てるところだが、少女は突然の侵入者を目にして警戒するどころか……つい見とれてしまう。
その女性が、天から舞い降りた女神かと思うほど美しかったからだ。
混乱する少女の前で女神は屈むと、長い艶やかな黒髪をさらりと揺らして視線を合わせる。
漆黒の宝石みたいな瞳に見つめられ、少女はなんだか汚れた格好をしている自分が、急に恥ずかしくなってしまう。
目の前の女神が、汚れひとつない純白のローブをまとっていることも、そう感じてしまう理由だろう。
そんな少女の様子にも構わず、女神は手を伸ばす。
さすがに身を強張らせる少女だが、そっと優しく頭を撫でられると、不思議なことに嫌な感じはせず、むしろ安心感で満たされてしまう。
「あ……」
「あなたは元気そうですね。よかった」
少女が逸らしていた目を向けると、女神は心の底から喜ぶように微笑んでいる。
そのことが、なぜだか少女はすごく嬉しかった。
「さて、問題は……」
続けて女神は、寝込む少女の母親の額へ手を伸ばし、なにかを呟いた。
すると途端に血色がよくなり、見るからに健康そのものな寝顔となったので少女は目を見開いて驚く。
「おかあさん?」
「もう大丈夫ですよ。よく頑張りましたね」
また頭を撫でられて、少女は涙が出そうになるのを堪えた。
泣きたいわけじゃないのに、とても嬉しいはずなのに、どうしてか溢れて止まらないのだ。
すると女神は、そっとたおやかに少女の顔に手を当てて、両目を塞いだ。
「ついでに、ちょっとオマケです」
次の瞬間、少女は全身が少しだけ熱いほどの熱を感じる。それもすぐに収まると女神の手が離れ、再び視界が開けた時……小屋の中は一変していた。
「え、あれ、なんで?」
さっきまでボロボロだった小屋は、まるで新築みたいに綺麗な小屋へと生まれ変わっていたのだ。風が通り抜ける穴も最初からなかったかのように消えている。
それどころか壊れかけだったテーブルやイス、寝具までも新品同然で、さらに少女と母親が着ている服まで汚れが取れて真っ白だ。
少女は気付かなかったが、それらに加えて全身を洗浄されている。ボサボサだった髪はするりと指が通るほどで、肌に至っては角質ケアまでされていた。
「あと、これを置いておきますので、二人で食べてください」
どこからか袋を取り出した女神は、少女に中を見せながら手渡す。
入れられていたのは一般的なパンだったが、貧民街で暮らす少女たちにとってはめったに食べられないものだ。
「それでは、私は急ぎますので失礼しますね」
「ま、まって!」
もう用はないと言わんばかりに、さっさと立ち去ろうとする女神を、少女は慌てて引き留める。
このまま行かせてしまえば、天に帰ってもう二度と会えないのではないか。そう心配したのだ。
だが、あまりに突然の出来事で、まだ頭の中も整理できていない。
(あなたは誰なの? どうして助けてくれたの? 今のどうやったの? ほんとうに女神さまなの? 名前は?)
聞きたいことがたくさんあったが、上手く思考がまとまらず、少女の言葉では言い表せられない。
それでも……ひとつだけ、どうしても伝えたかった。
「おかあさんを助けてくれて、ありがとうございます!」
頬を紅潮させながら、しっかり言い切ると、女神はにこりと笑いながら返す。
「その笑顔が見たかっただけですよ」
少女の胸が、なにかを貫いた気がした。
今度こそ女神が小屋を去ると、それまでの光景が幻のようにすら少女は感じられたが、真実であった証拠が残っている。
この世界に少女を助けてくれる女神は、確かにいたのだと。
後に少女は、黒髪の女神を信仰するようになり、やがて異国の聖女と邂逅することになるのだが……それは少し先の話である。
聖女クロシュの信者数:9999人




