1:そして天使は召喚されるⅦ
余計な追求から逃れるため、朝食もそこそこにして俺は早々に家を出た。いつもより起きるのが遅かったため、急いで学校に向かうためでもある。
運動が苦手な俺は、正直走ることが嫌いだ。それでも遅刻してしまうとクラスで必要以上に注目を浴びてしまう。そのことのほうがずっと嫌だ。
電車に間に合うかギリギリであったが、今日は思ったより早く駅に着いたようだ。まだ五分もある。それに、今日はあまり疲れていない。不思議なことに、まだ体力に余裕があると感じた。
朝走るようなことがあると、電車に乗り込むだけで精一杯だが、今日はゲームもできそうだ。早く着けた分、他の学生よりも席を確保することもできた。今日は珍しく良いことがありそうだと感じた。
携帯ゲーム機を学生鞄から取り出し、電源を付ける。電車の席に腰を下ろし、息を整えながらゲームの機動を待つ。
「え……?」
そこで、いつもと違うゲーム画面に違和感を覚えた。タイトルや操作画面は問題ない。だが、サポートキャラとしているはずのセレナちゃんがいないのだ。メイン画面には、立ち絵としてコミカルに可愛い動きを見せるセレナちゃんが、ただただ黒い影となっていた。黒い影の輪郭は間違いなくセレナちゃんである。
背中に生えている羽もあるのが分かる。なのに、バグでも起きたのだろうか。
家の中ならいざ知らず、ましてや電車の中だったため、ある程度感情的にならなくて済んだ。だが内心は発狂もんだ。一応、台詞や操作に関しては問題なさそうだ。データも飛んではいない。試しにイヤホンを耳に嵌めてみると、台詞が表示されるだけでセレナちゃんの音声も流れなかった。透き通るような美声だというのに残念すぎる。つい先ほどまで良いことがあるかもと思っていたのに、そんなことはなかったようだ。
そのままゲーム機をネットにつないで掲示板を検索する。何か公式から対処方法であったり、過去に同じような症状が出て戻す方法がないかを探ってみた。
そこで分かったことは対象法どころではない。
『バグ発見』
『セレナが黒くなる』
『どうすればいい』
『公式から何かあるだろ』
セレナちゃんが黒い影になってしまうという症状は、今俺だけではないようだ。他のユーザーたちにも同じことが起きている。それも一部とかのレベルではなく、ほとんどのユーザーたちに見られているようだ。
気になる症状ではあるが、俺にどうこうできるものではない。一応普通にゲームを進めることはできるので学校に行くまでの電車の時間では、黒いセレナちゃんのサポートのもと、さらなる攻略を続けることにした。
学校の教室に着くと、俺以外にも「M.A.O」をやっている人口は正直のところ多い。クラスでも「M.A.O」のバグについて話題は持ちきりだった。
本当は俺も「M.A.O」の話題となると、会話に参加したいところだ。だが、それに応じてくれる人は皆無だろう。
「おい神楽」
机に着いたところ、タイミングよく呼ばれるた。振り向く前から分かる。不動、沢木、根岸の三人である。
顔を向けると、廊下に面する扉に寄りかかりながら、ニヤニヤと気持ち悪い顔を貼り付けていた。
「な、なに……?」
俺は屋上に呼ばれた。予鈴なんか関係なかった。
「今日は眼鏡じゃねぇんだな。イメチェンか?」
「別にそういうわけじゃ……」
「んなことどうでもいいよ。今日はふけようぜ。俺ら友達だろ。一緒に来いよ」
「そうそう。ゲーセン行こうぜ」
「あ、金ないからよろしく」
分かりやすく俺に財布になれと言っているんだ。冗談じゃない。
「何だ、まさか嫌だってのか」
「そ、そういうわけじゃ……」
「こりねぇなぁ。一回痛い目見とくか」
不動が殴りかかってくる。いつもと同じだ。分かってても何もできない。体が硬直して何も抵抗できない。
「……えっ?」
「はっ?」
その場にいた全員、俺自身さえ驚いてしまう。いつもなら殴られた衝撃で吹っ飛んでしまうが、この時ばかりは、拳を突きだした不動の背後に、いつの間にか俺は回っていたのである。
「何だ今のっ」
「てめぇ、今どうやって避けやがった」
不動が声を張り上げた声で問い掛ける。俺も思い返す。一瞬だけ反射的に目を瞑ったはずだ。まだ拳が届いていないことを確認したのち、不動の右腕を見送りながら最小限の動きで横切ったのである。決して意図したわけじゃない。つい身体が動いてしまったのだ。
「おい」
「舐めてんのか」
「っ……」
再度不動が振りかぶる。咄嗟にそばにいた沢木も腕を振り上げた。だが……。
「どうなってやがる」
「……こいつ……」
複数を相手に俺はしっかりと相手取っていた。根岸も参戦しようとしたところで怒声が響く。
「おい、屋上で何をしている!」
「……ち、行くぞ」
体育の岡田先生だ。先生の前でさすがに殴りかかるわけにはいかないと思ったのか。諦めた不動が、沢木と根岸も連れて行ってしまう。
「はぁ、はぁ……」
不動のトレードマークである、金髪の後ろ頭と自分の掌を見比べてしまう。まぐれじゃない。偶然でもない。あの至近距離で、二人がかりだったのに。俺は不動たちの拳を見切っていたんだ。ちゃんと頭で理解して避けていたんだ。
いや、違う。俺はさっき確かにこう思ったんだ。喧嘩なんかまともにできないはずの俺が、さっき不動たちのパンチを見て、「遅すぎる」と思ってしまったんだ。