第七章 逃げないと!
1
七年前。兄のブライアンが旅立った夜。真っ赤な満月が地上にぶつかるぐらい大きかった。五歳のニーナはベッドの中で震えていた。
ブライアンは違っていた。紋様のマントで身を包み、青い光を照らすランタンを手に持った兄は、物怖じする様子を微塵も見せない。
家の前に集まる近所の住人達。誰もが葬式の時みたいに沈痛な顔で、ニーナの家族を待ち受けていた。
「息子が今から旅立ちます」
父が彼らに言った。長老が壊れた人形みたいに何度も頷くと、ブライアンの方を向き、「しっかりと務めを果たせ。すべては村のため、お主の父母のためじゃ。生きて塔へ着け」
「しかと、心得ております」
無表情のまま、ブライアンは頭を下げた。出発前の子供の中には、泣きじゃくったり、その場で粗相を起こしたり、村中を逃げ回る者もいる。兄の立ち振る舞いや所作に淀みはなく、恐怖はおろか、それを無理やり押し殺そうとする気配もない。感心する大人は少なくなかった。
村の入り口へ歩く兄の後姿を、五歳のニーナは家の戸口から見ていた。こんな夜にお出かけをするなんておかしいと思い、お気に入りのピエロの人形を手に持ったまま、兄の方に走り出していた。
「お兄ちゃん、おでかけするの?」
ブライアンは立ち止まり、妹と視線の高さにひざまずいた。
「ちょっと出かけるだけだよ。ニーナは心配しなくていい」
ニーナは泣き出した。兄は嘘をつく時は、いつも『心配するな』と言う癖がある。近所の悪がきにいじめられて、傷だらけの顔で帰って来た時も、同じように言って通そうとするのを、ニーナは構わずに手当てをしていた。
妹の頭を優しくなでつけると、ブライアンは耳元で囁いた。少しかすれた声だった。
「ニーナ、ごめんよ……お兄ちゃんは、ちょっとの間、お前を守ってやれない。明日からはニーナ一人で頑張るんだ」
「そんな、やだあ……いやだよ!」
「お兄ちゃんが帰るまで、強い子でいるんだよ。ダルトン達にいじめられても、カメさんの甲羅になったらいけないよ。約束できる?」
月の光を反射して、ブライアンの瞳から涙の筋を流れ落ちた。また会えるのではない。もう会えないと知った。それでも、ブライアンとの約束を守る事に決めて、ニーナは小さく頷いた。
「よし、ニーナは強い子だ。もう一つ約束してほしい」
「なあに?」
「もしも、ニーナが将来、オツカイに選ばれたら、その時は絶対に――」
「ぜったいに……?」
「《ガイコツ帽子の塔》へは絶対に行ってはいけない」
「モウ手遅レサ」
手に持っていた人形がいきなり喋った。ニーナは叫んで、お気に入りの人形をその場で投げ捨てた。
兄の姿は消えて、周りの光景も変わった。
ニーナは自分の部屋にいた。オーシャンブルーの壁紙に、小さい頃に買ってもらったぬいぐるみやドールハウスが並んでいる。下から聞こえる両親の声が聞こえ、彼女は屈んだ。
ニーナの部屋の床には小さな穴があり、そこから一階の台所をのぞけるようになっていたのだ。最初に目に飛び込んだのは、テーブルに撒かれた、宝石や金貨の山だった。
「いくら見ていても飽きないものね」
「金や宝石は幸福の結晶だ。幸せでいられる証でもある」
ブライアンが出立した時と違い、二人の会話は軽やかで歓喜に満ちていた。お兄ちゃんがいなくなったのに、パパとママは、なぜこうも明るく振る舞えるのだろう、と不思議に思った。
「二十年前……我々の生活は地獄そのものだったな。薄汚れた都会の片隅で、食べる物も先立つ金も明日の望みもなかった。日々の糧を借金でまかない、返済の期日が迫れば、夜逃げを繰り返す日々……今、こうして、幸福を目の前にして考えると、あれは人間の暮らしではなかったな」
父は嘆息を漏らすと、グラスの残ったワインをあおった。
「キャサリンが生まれると、生活は一層ひどくなった。都落ちした後、森の中でこの村を見つけていなかったら、我々は一家心中していた」
――キャサリン? 聞いた事のない名前だった。ニーナが知っている限りでは、村の子供でキャサリンという名前に覚えはない。
「キャサリン、パーシー、ケビン、そして、ブライアン。皆、私達の幸せのために、オツカイに行った。そうよね、あなた?」
「うむ。幸せというやつは、人柱の上に成り立っている。我々は若い頃、街を牛耳る金持ちどもの人柱だった。もう下の側へは戻らん。私達が上のままでいる。そのためにも、これからもその対価が必要なのだ」
「子供の生贄を?」
「身も蓋もない言い方だな。幸せへの対価だよ」
「ニーナも? あの子もいずれ……」
自分の名を呼ばれ、彼女は口を意味もなく塞いだ。
「あと七年の辛抱だ。私達は、ナギンの“餌”を五人も育て上げた。ニーナのオツカイが済む頃には、村人達も余所者の私達を認めてくれるに違いない。その時は、レンガの家に建て直そう。勝ち組の仲間入りをさせてもらう」
心臓が高鳴りから逃げるようにして、ニーナは床の穴から目を離した。
いつの間にか、見慣れた自室はその異様な光景に変わっていた。壁や天井に落書きで走り書きされている。
『わたしはキャサリン。十二歳。今日オツカイに行きます。また、ママとパパに会えるよね?』
次に、隣にある兄の部屋に入った。ベッドと勉強机は埃まみれだがそのままの状態だった。ニーナの部屋と同じく、幼い子供の書いた文字が並ぶ。
『僕らは双子の兄弟、パーシーとケビン。共に十二歳。今日からオツカイに出る。パパとママと永遠のお別れだ。もう、きっと会えない』
床に、壁に、天井に、新しい字が浮かび、部屋中を赤く染め上げる。
『ニーナはオツカイに出たきり、二度と戻ってこなかった』
部屋中の人形が一斉に笑い出した。その中心に居座るジェントル坊やがケタケタと笑う。口が耳まで裂け、青く光る両目が少女を見上げていた。
「オイラ達ハ子供ガ大好物ナノサ!」
2
ニーナは悪夢から目を覚ました。頬に冷たく固い床の感触がある。自分のいる場所を見渡して、すぐに他の誰かがいる気配を感じた。
月の光が差し込むと、一斉に何かが動いて部屋の隅へ逃げ込んだ。
「怖がらないで。お願いだから出てきて。わたしは人間よ」
隠れている数人のうち、一人がゆっくりと近づいて来た。
同じ紋様の入ったマントを着たその少年は、八、九歳ぐらい、ボサボサの金髪に、絆創膏が貼られた低い鼻に、勝気そうな瞳には警戒心を光らせる一方、目じりには憔悴のクマが薄く浮いている。
「オレはアンディ。お姉ちゃんも連れて来られたんだろ?」
アンディの後ろで固まる少年少女は、彼よりも年下で幼く感じた。全部で六人。当然、十二歳のニーナが年長になる。
「まさか、あなた達もオツカイに?」
「そうさ。オレは親父に行けって言われた」
「あたしもおばあちゃんとお母さんに」
「ボクもパパとママにオツカイに行けって言われた」
屈託なく答える幼子らに、ニーナはショックを受けた。オツカイの儀式は、十二歳の子共だけのはずなのだ。
「アンディ、あなたが一番乗りだったの?」
「そうだよ。競走だったら誰にも負けない」
「そう……今まで辛かったでしょ」
「大丈夫さ。どうって事ねえよ」と、アンディは鼻をすすった。
彼らは皆、両親を信じてここへ来たのだ。暗い森を抜けて、ただ一人で恐怖と戦いながら。なので、どうしてこんな事に……。ニーナは知りたかった。ここで一体、何が行われようとしているのかを。
いきなり、懐で何かが震えた。マントのポケットに手触りがあった。取り出してみると、見覚えのある板だった。ノリスが持っていた手鏡だ。どうして、自分が持っているのか?
手鏡は小刻みに振動し、下辺りが何度も赤く点滅している。なんとなく、そこに手をかざすと、信じられない事が起きた。
黒いままの鏡が光り、ノリスの顔を映し出したのだ。
「ノリスさん、だよね?」
(ニーナ、無事かね! 途中で消えてすまなかった)
「これは一体何なの?」
(すまないが、君のポケットに入れておいた。訳は後で話す。その手鏡は古の人々が使っていた通信機器だ。原理はさすがに分からんが、どうやら、同じ手鏡を持っている者同士が、遠くにいても会話ができるらしい。ところで、君以外に誰かいるか? 連中が近くにいるなら、マナーモードにしておくんだ)
「マナーモード?」
(いや、こっちの話だ。それより、よく聞いてくれ。君が閉じ込められている建物は、最初に入っていった【十二号棟】という建物だ。その部屋から外へ出られないか?)
扉の向こうには誰かが立っている気配があった。普通に出て行けば、速攻に捕まってしまう。
「ダメみたい。ドアには見張りがいるわ」
(窓はどうだ?)
窓の向こうには手すりの付いたベランダがある。が、窓の四隅が頑丈に釘で固定されている上に、有刺鉄線が隙間なく張られているので、そこからの脱出も難しいだろう。
ニーナが助言を仰ごうとした時、ノリスの画像が乱れた。
「ノリスさん?」
そこで手鏡の交信は途絶えた。
「あの豚人間はニーナの知り合い?」
「大冒険家の人。わたし達の味方よ」
「あいつらより強いの?」
ニーナは答えず、そのまま部屋の中を歩いた。何でもよかった。何か手がかりになる物が見つかれば……。
ふと、壁に掛けられた布に気づいた。最初はタペストリー(刺繍が施された壁掛けの布)かと思ったが、白い布のタペストリーというのはおかしい。
ニーナは近づいて確かめた。白い布がたなびいている。部屋を流れる風はここから出ているようだった。
もしやと思って白い布をめくると、ニーナは目を輝かした。
布の下からは、コンクリートの壁から浮き出て、持ち手の付いた小さな鉄扉があった。恐る恐る扉を上げた途端、すさまじい臭気が漂った。なんとか我慢しつつ、マッチ棒の火を照らしながら中を覗いた。上下が広く、横幅や奥行は狭い。まるで煙突みたいだ。
(ニーナ? 聞こえるかね?)
ノリスからだった。慌てて手鏡を見ると、押し間違えたのか、液晶にはノリスの鼻が一杯に映っていた。
「ノリスさん、煙突みたいな物を見つけたの」
ニーナは手鏡をかざして、煙突の中を見せた。
(うむ、それはダスト・シュートだ)
「ダスト・シュート?」
(昔住んでいた古の人々は、そこから家庭ゴミを捨てていたのだ。ゴミは建物下にある焼却炉に送られる仕組みになっている)
手鏡の液晶には、説明を続けるノリスの豚鼻のアップ。二つ並ぶ鼻の穴は目に見えなくもない。後ろから覗き込むアンディ達がクスクスと笑った。
(ダスト・シュートは煙突みたいに各階の部屋を繋がっている。そこから降りれば、一番真下の部屋に出られるはずだ。建物の入り口で落ち合おう)
ノリスの顔は消え、液晶は黒い板に戻った。
「みんな、今の聞いたよね?」
アンディ達はそろって耳を塞いだ。一様に顔色が悪い。無理もなかった。今まで暗い所に閉じ込められて、今から命の危険を承知で逃げなくてはいけない。ここにいたら、どうなるかは火を見るより明らかだ。
「あなた達はここにいたいの?」
彼らはどう反応するべきか困っていた。お互いに顔を見合わせる。
「アンディ、あなたは木登りをした事ある?」
「ええと……ある。どうして、そんな事を聞くのさ?」
「わたしとあなたがここから逃げる手本を見せるの。そうすれば、クリス達は安心して着いて来てくれる。けれど、わたし達が尻込みしたままだったら、ここで死を待つしかなくなるわ」
アンディは黙ったままだった。彼も怖いはずだ。しかし、男の子の年長者は彼しかいない。誰も代わりはいない。
「わたしが先に行くから。真似をして降りてきてね」
「待ってよ。二―ナは何のためにここから逃げたいの?」
「わたしはここから逃げたい。でも、あなた達を見捨ててまで逃げたくない。あなた達が逃げたくないなら、それでもいい。わたしもここで残る」
得体の知れない強い思いが、少女を突き動かした。もう一度、幼子達の前に立つ少年の揺れる瞳を見据えて言葉を続けた。
「わたしができたら、あなたもきっとできる。他のみんなも同じよ」
ニーナは迅速に行動した。窓のカーテンを裂くと、一方を部屋の柱に括り、もう一方をダスト・シュートに垂らすと、ニーナは身を乗り出して、ダスト・シュートの中に入った。食べ物が腐ったような強烈な臭いを我慢しつつ、四角い筒を蹴りながら少しずつ降下する。
ゆっくりしてはいられないが、急いでもいけない。アンディ達に、ここから出るのが、たいして難しくないと見せつけなくてはいけない。
もちろん、失敗は許されない。自分だけの命ではなくなったのだ。
やがて、カーテンが途切れそうな所に近い扉を探り当て、ニーナは勢いよく蹴って開けた。ギギギィと鉄が軋むのを緊張しつつ、同じ部屋に降り立った。玄関の前まで来ると、ドアノブに手を掛けた途端、静電気が走った。鼓動を抑えつつ、一度だけ深呼吸してからドアを少しだけ開けた。隙間から外の様子をうかがった。そこは、たった今、人形に連れられた通路だった。
いったん部屋に戻ると、ニーナはダスト・シュートに顔を出して合図を送った。後は見守るだけしかできない。自分はもう上には戻れない。彼らが勇気を出して踏み出してくれるのをひたすら祈るしかなかった。
間もなく、誰かが降り始めた。軽快に下へと向かっていき、その少年は身軽な身のこなしで、ニーナよりも速く、下の部屋に到着してみせた。
「ありがとう、アンディ」
「これぐらい簡単さ。他の奴に喝を入れというたから、安心してよ」
彼の言葉は正しかった。子供達はゆっくりと後に続いた。それぞれのペースだが、着実にニーナとライティの元に集まっていく。このままいけば、見つからずに部屋から脱出できるかもしれない。
最後の一人、七歳のクリスが降りている途中、監禁部屋の扉が開く音が響いた。一同は心臓を鷲掴みにされたように、体を硬直させた。
「ん? ガキどもがいねえな。どこに隠れやがった?」
怪物がカーテンを見つければ、恐ろしい状況に追い込まれる。
「急いで、クリス」
年少者のクリスはスッカリ固まって動けないでいた。
「おやあ、何だ、この布は――」と足音で床が軋む音。そして、「そこか?」
怪物がダスト・シュートの口から顔を出した。「見つけたぞ、クソガキども」と口元を歪ませる。獲物を捉えた、赤い目だけが闇爛々と光っていた。
その時、アンディが身を乗り出して、上に向かって何かを構えた。それは矢印の形をした花火だった。導火線に火がついている。
「じっとしてろ、クリス!」
少年の手から発射されたロケット花火は、甲高い笛の音を立てながら、ダスト・シュートの中を突き抜けた。クリスの脇をすれすれに過ぎ、怪物の顔を直撃して七色の火花を散らした。
怪物は苦悶の悲鳴を上げると、顔を引っ込めた。
「よっしゃあ! オレんちは花火屋なんだ。護身用にくすねてきた」
「今のうちよ!」
ニーナや周りの子共も応援した。クリスは少しずつだが、降り始めた。間もなく部屋の中に着地すると、丸みのある栗毛色の髪をした少年は、まっすぐアンディの胸に飛び込んだ。
「よくやった。ここから逃げおおせたら、俺の子分になっていいぞ」
「さあ、早く逃げましょう」
彼らは廊下に出た。ふと、手すりから広がる闇のはるか向こうに、薄明りを照らす二つの点を、ニーナは見た。やはり、人形に連れて来られた建物と同じ場所に間違いはなかった。
左に行けば動く箱、右は階段。はたして、どちらへ逃げるべきか?
考えあぐねている彼女にしびれを切らせたのか、アンディが子供達をつれて階段の方へ向かおうとした。
「待って、そっちへ行ったら――」
すぐさま、子供達が悲鳴を上げて戻って来た。
「あいつらが追いかけてきやがった!」
彼らの後ろから、二体の怪物達が「待ちやがれ!」とか、「捕まえて喰ってやる」と叫びながら追いかけてくる。
ニーナは先に箱の前に到着した。下に示すボタンを殴るように押した。ウィィンと箱が下降する音が聞こえる。怪物達は目に見える所まで迫る。
「お願いだから、早く来て、早く、早く」
他の四人からやや遅れて、クリスの手を引いて、アンディがこちらに向かう。二人のすぐ背後を二体の怪物が壁や天井を這いながら、捕まえようと腕を伸ばしてくる。
エレベーターが到着して、やっと扉が開いた。五人は一斉に入った。ニーナは慌てて、【一】のボタンを押した。すると、アンディとクリスが来る前に扉が閉じ始めた。
ニーナは慌てて、【開】のボタンを押した。少し開いた扉の隙間をスレスレに二人が滑り込んだ直後、もう一度【閉】を力一杯に叩いた。
ゆっくりと閉まる扉に向かって、怪物達が殺気立たせて迫りくる。間一髪、彼らの目の前で扉が閉じて、エレベーターはゆっくり下へと降り始めた。
窮地を脱した七人は床にへたり込んだ。誰ともなく笑いが起きた。今さっきまで、死ぬような目に遭ったというのに、まったくおかしなものだ。呆れながら、気がつくとニーナも一緒に笑っていた。
3
「よもや、あんたが生きていたとはね」
かつての住処だった《ガイコツ帽子の塔》のうち、壁面に『1』と書かれた棟の最上階に、ナギンの長が住まう部屋がある。そこへ命じられるままに行くと、母のデルザが、ジャミロに開口一番にそう言ったのだ。生まれ育った住処を追われて七年も経つのだから仕方がない。一族の間では死んだ扱いになっているに違いない。
「なぜ、今頃戻ってきやがった?」
マリオネットを垂らしながら、天井にぶら下がる兄のゲーシーが疑いの目を向けてくる。ごわごわの茶褐色が垂れ下がっている。
「あんた達は収穫祭の準備に取り掛かりな」
「でもよ、オフクロ……」
「耳をどこかに落してきたかい?」
「マザーはおっしゃった! ゲーシーは出て行けと!」
デルザの威嚇には長兄でさえ息子も逆らえない。
兄の無様な醜態を前に、その真横に立つ次男坊のルートンもケラケラ笑いながら、キイキイ声で叫んだ。太鼓腹のでた体とは不恰好に、手足は異様に短い。肉食を主とするナギン族の中に、時々生まれ出る奇形だ。
「マザーはおっしゃった! ゲーシーは耳をどこかで落としてきたと!」
「あんたも出て行くんだよ、マートン」
「マザーはおっしゃった! マートンも出て行けと!」
二人の兄は渋々、母の居室から消えた。内心、安堵したい気持ちを抑えながら、ジャミロは母と向かい合った。数年ぶりに対面する母のデルザは、相変わらず、こちらを委縮させるほどの威圧感を包んでいる。彼女の前では、決して嘘はつけない。見抜かれるのではない。こちらの舌が真実しか話せなくなる気。がするのだ。 下手に言葉を選ぶ暇などないし、必要もない。
「母さん、僕もナギン一族の一員だ。もう、仲間外れにされたくない」
「あの小娘は手土産か? 許しを請うための貢ぎ物か?」
「森から逃げようとしたんだ。だから、上手く嘘を言って連れてきたの」一度深呼吸して、「足りないなら、来年も連れてきてあげる」
デルザは目を細くして、彼を凝視してきた。まるで、心の中を見透かそうとするように。
「顔を見せておくれ」
ジャミロは黙って、頭からスッポリ被った“顔の皮”を脱いだ。長年、素顔に張り付いていたせいか、ベリベリと剥がれる音がした。ハリボテの下から、火傷を負ったままの素顔が久しぶりに明るみに出る。
「昔よりはマシになった」
そう言うと、デルザが歩み寄った。ジャミロは身構える素振りを見せる前に、その痩身をかき抱く。仄かな血の臭いが、彼の鼻をくすぐった。
「見違える間にたくましくなったね」
「母さん……」
「五歳だったあんたは、禁じられたトンネルで大火傷を負った。私は頭に血が上って、一族の掟に従ってあんたを追放してしまった」
「あの頃の僕は無知だったんだ」
「もういい。誰にでもある麻疹だ。あんたは父親似だよ。昔のあの人にそっくりだ。間抜けな兄達や馬鹿娘のガブリエルとも違う。将来、一族を背負う子は、今のところあんたしかいない」
ジャミロの父は、人喰いの長であったが、彼が物心を着く前に死んだと聞かれてきた。それ以来、デルザがナギンの刀自として、今に至った。
デルザは息子の黒髪を優しげに撫でつけていたが、いきなり、膝を折って彼の足に巻かれている包帯を指差した。
「これは何のおまじないだい?」
しまった! と心の中でジャミロは叫んだが、もう手遅れだった。影憑きに乗っ取られた男から逃げる際に負った傷を、ニーナが手当てしたものだ。
デルザは包帯を嗅いだ。「あの小娘の臭いがする。懇ろになったわけじゃないだろうね?」
ジャミロは即座に否定した。
「人間に気を許させるために付けたままにしたの」
「なぜ、まだそのままにしている?」
「忘れたんだよ。あの娘をここに連れて来るために、芝居を打つのに夢中になってしまって――」
「忘れたのはそれだけじゃないよ」
デルザが顔を近づけてきた。獰猛な獣を髣髴とさせる、ぎらついた目に開かれた鼻の孔、牙の突き出した口。獲物を前にした人喰いは、皆そんな姿になる。
「一族同士で人間の真似事はしちゃいけないとう掟も忘れたようだね? でないと、人間に間違えられちまう。現に、今、あたしはあんたの頭に齧り付きたくなりそうだったんだから」
デルザは息子から離れると、普通の顔つきに戻った。
「私らは人間とは違う。ライオンがシマウマみたいに草を食うようなものだ。食事の時には、偽物の顔と首飾りは外しておきな。あんたにはもう必要ない。いいね?」
「はい、母さん」
「シマウマと懇ろになったライオンは、死ぬしかなくなる。覚えておきな」
母の部屋を出て、ニヤニヤ笑っている兄弟達を通り過ぎ、建物の外に出るまでの間、ジャミロの背中は小さく震えていた。
外は小雨がポツポツと降り続いている。同じ建物が並ぶ中で、十二号棟を見上げた。彼女はあそこに閉じ込められているはずだった。
「ニーナ……」
ジャミロはそこへ向かった。見つからないように、背を低くしつつ。
4
エレベーターが一階に到着した。扉が開きかけた瞬間、外から差し込まれた複数の手が有無も言わさずこじ開けた。
二体の人喰い達が放つ息遣いを荒い。彼らは箱の奥で縮こまる複数のマントを睨みつける。体が手前にうずくまるマントを鷲掴みにした。
「クソガキの分際で、俺達をナメやがって」
まったく反応がない。すっかり恐怖で声が出ないか、もはや抵抗するのも諦めたか。彼らはそう思っていた。
「着いて来い。お前達がナギンの糧になる時間だ。おい、聞こえんのか?」
反応なし。一体が業を煮やし、マントを引っぺがした。
だが――。
「はめられた!」
マントの下は、古い土嚢が詰め込まれているだけだった。一旦二階に降りたニーナ達が戸口で見つけた物を拝借して、自分達のマントを上から被せたのだ。
彼らが罠を悟る時には、エレベーターの扉は閉まった後だった。間もなく上の階に上昇していった。
5
「思ったよりチョロイ連中だよな」
アンディは笑った。まさか、あんな手が成功するとは夢にも思っていなかった。連中も油断したのだろう。案外やってみなければ分からない。
「ボク、ちゃんとできたよ」
クリスは得意げに言った。彼らに気づかれずに、エレベーターのボタンを押したのは、クリスの活躍だった。ちなみに、彼らがすぐに降りられないように、他のボタンはあらかじめ壊しておいた。
「ホント助かったぜ、お前は小さな英雄だ」
その時、闇の中から伸びた手がクリスの頭を掴んだ。腕の向こうから、赤い目で睥睨する怪物の顔があった。
「貴様ら……《夕餉の間》に着くまでに無傷でいられると思うなよ」
「クリスを離せ、クソ野郎!」
アンディが立ち向かったが、一方の手に首根っこを掴まれた。
「おとなしくしていろ。さもないと、こいつらの首をへし折るぞ」
「やめて!」ニーナが叫んだ。
エレベーターの扉が開いた。新手が来たとニーナは諦めた。だが、中から飛び出したのは大きな布だった。それが怪物達に被さって転倒させる。箱から躍り出たノリスとジャミロが、テントの布で身動きのできない人喰い達を箱の中に押し込んだ。箱は閉まると再び上へと戻っていった。
「ノリスさん、ジャミロ……」
「ニーナ、途中でいなくなって、ごめんなさい」
歩み寄るジャミロに、ニーナは後退した。嫌悪の顔を浮かべながら。
「あなたは最初からわたしを騙していたの?」
間に立つノリスが代わりに弁解しようとする。
「ニーナ、彼の話を聞いてやってくれ」
「ジャミロが答えて! あなたも人喰いの怪物なの?」
ニーナの言葉に、アンディ達は少年から離れた。
「どうなの?」
「……そうだ」彼は頷いた。「僕はナギン一族の息子、人喰いの子だ」
張りつめた空気を裂くようにして、ノリスが二人の間に入った。
「ニーナ、ジャミロ君は奴らみたいに人を喰う事が出来ない。だから、家族から勘当の身だったんだ。君を囮にしようと言ったのは私だ。すまない。彼がオツカイの子共連れて来た事にして手柄にさせれば、ナギンは彼を受け入れる。うまくすれば、君だけではなく、他の子共も救い出しやすいと考えてね」
「どうしてそんな事を? ノリスさん、あなたは一体――」
「今は長話をする暇はない。連中が戻る前にここを離れよう。彼が案内してくれる」
ジャミロに連れられ、建物は外に出た。民家の中に息を殺して紛れながら、ある古びた小屋に行き着いた。
「入って。ここは僕の部屋だった」
廃屋の中に入ると、彼らはすし詰めになった。ジャミロはテーブルに置かれた燭台に火を灯す。薄明りの部屋はガラクタが端に溢れ、寝床らしきゴザが一枚あるだけだった。近くには埃の溜まった本が何段も重ねてある。
ジャミロはゴザの上に座ると、本に被る埃を払った。かわいらしい動物が描かれた絵本だった。彼は本のページを開く。見開きには、ニーナや他の子供達が見た事のない、夢の世界が描かれていた。
天にも届く摩天楼が並ぶその真下を、動物に仮装した子供達が練り歩き、真横の大通りを機械仕掛けの四輪の乗り物が徐行し、車の上には道化師や王子やお姫様の姿をした人が踊っている。まるで舞踏会のようだ。さらに、塔から塔へと羽根の付いた乗り物が飛び交い、星空と重ねるように、大小様々な形の花火が七色に彩った。
王国の夜のパレードだと、ニーナは思った。
「昔、寝る前によく読んだものだ。全部、小さい頃にあの建物で拾った。今はいない古の人々――錬金術師の末裔が残した遺産だ」
「ジャミロ、あなたの知る事を話して」
「残酷な真実だ。君達はきっと、知らない方が良かったと後悔するよ」
「後悔して苦しい思いをしても、知らなければいけない真実もあるわ」
彼は顔を上げて、真剣な眼差しを向ける。ニーナは拒む事なく、ジャミロと向かい合った。外の雨がポツポツとトタンの屋根を叩き続けている。
やがて、ナギンの少年はポツポツと語り始めた。