第六章 オツカイが終わるとき
1
「元気でね、ニーナ」
出立の支度を終えた時、そばで見守っていたエブリンが言った。涙が流す母に、何を言うべきか言葉がなかなか出てこない。普段から物静かで、あまり気丈とは言えない母を心ならずも泣かしてしまう罪悪感は、見えない棘となって、心臓を痛く突いてくる。
「十二年間……私の娘で、いてくれて……ありがとう」
母に促されて、ニーナは玄関に出ると、その足を止めてしまう。
大勢の村人達が集まっていたのだ。見知った顔も、中には今日初めて会う顔も混じり、今か今かと待っていたのが分かった。松明に照られた彼らは、ニーナが出て来た途端、私語を一斉にやめて沈黙に徹した。
「ニーナも準備ができたみたいじゃな。それでは始めようかの」
隣人達の先頭に立つ長老が、緑内障気味の眼差しを大きく見開いて宣言すると、小さなざわめきは静まった。ニーナは村長の目がどことなく怖かった。白い眼のせいではない。一見生気が衰えていながらながらも、その双眸からは企みというか狡さとも表現できる、陰湿な雰囲気を放っているような気がしたからだ。小さな頃から、長老が好きになれないまま今日に至った。
父のヴィクターは長老の隣に立った。家のそばにあるかがり火の炎が反射して、父の眼鏡を赤く染める。白髪混じりの髪といい、痩せた頬に度の強い眼鏡の風貌は、学者を思わせる。実際、父は慎重で物腰も柔らかい。今夜も恐ろしいほど落ち着いていたのが、ニーナにとって唯一安心できた。父の姿が、何とかやっていけそうな気を起こさせる反面、親に捨てられるのではないかと不安もかき立てさせる。
「皆さん、今夜は不肖の娘のためにお集まりいただき、誠に感謝いたします。今夜限り、娘のニーナは、この村を立ち、そして、オツカイの子として我が家と村の名誉のために、《ガイコツ帽子》の塔を目指します」
村人達の顔は能面のように表情が消えている。父の言葉を噛みしめるように頷く者もいた。ただ、玄関ですすり泣く母の声だけがニーナの心をわずかだがかき乱した。耳を塞ぐ事も出来ないし、母を慰めるのに引き返すのも無作法に過ぎる。そう、オツカイの儀式は、自分が選ばれた時から始まっているのだ。
「さあ、ニーナ、こっちへおいで」
事前の段取り通り父に呼ばれて、少女は小走りで玄関から家の外に出た。
無論、大勢の前に立った経験などなく、緊張のせいで足が震えているのが分かる。舌が乾燥し、喉もなんだかヒリヒリして仕方がない。頭の中は、さっきまで紙に書いたばかりの祝辞を反芻する。
別れの際にオツカイの子は感謝と旅に対する抱負を述べなくてはいけない慣例があった。すべての子供が上手くできるわけではない。言葉を失くす者もいれば、その場で泣いたり、逃げ出したりする者もいる。
ニーナは前者の方に陥りつつあった。事前に考えていたはずの言葉はスッカリ頭の中から消えている。さほどの分量ではないので、メモは家の中に置いてきた。よりにもよって、一言一句も思い出せない。こういう状態をホワイトアウトらしいとどこかの本に書いてあったのだけは思い出した。
「ニーナ?」
父に肩を叩かれ我に返ると、ニーナは慌てて、「あの、ええと……」と切り出したのはいいが先が続かない。計画性がないのが自分の悪い癖だと、いくら後悔しても遅かった。「あー」とか「うー」とか漏らしながら、差しさわりの良い言葉を即興で考えようとする。
「今日は集まって下さり、本当に……ありがとうございます。今日まで、育ててくれた御恩は決して忘れません」
両親の顔を見ると自然と浮かぶ台詞は諳んじて言える。ここから、村に対する感謝を述べないといけない。
「村の皆様、どうかお元気で。わたしは《ガイコツ帽子の塔》へ必ず着いてみせます」
ふと、兄の事を思い出した。ブライアンもこうして、両親や村に感謝しながら森の中へ入っていった。そして、掟に従って二度と帰っては来なかった。
ただ違うのは、彼はオツカイに失敗した。自分は決して、兄のようにはならない。幼い頃から、不名誉な家の子と蔑にされながら絶対にオツカイを達成してみせると誓ったのだ。自分が絶対に汚名返上する。
「オツカイに行ってきます」
自分でも信じられないほどの、凛とした声を大きく出した。見知った顔の大人らは、意外そうな顔を浮かべた。
「行ってきなさい。掟に従い、二度と戻ってはならぬ」
村長は厳かに言った。
人垣から、一際大柄な男が松明を掲げながら現れた。オツカイの子供を、村の境界線まで案内する、“見送り役”だろう。抽選ではなく、数年おきの当番制らしく、大抵は屈強そうな男が選ばれる。
だが、自分の担当がハンスだと分かると、ニーナの表情は曇った。暴れん坊のハンスは村の中では評判が悪い。
「行くぞ」
ハンスは無愛想に言うと早足で村の入り口に向かった。ニーナは手に持ったランプに火を灯すと、彼の後に続いた。両親の同伴は村の入り口までと決まっている。村の入り口に立つ父と母に手を振り、ニーナは「行ってきます!」と叫んだ。さようなら、なんて死んでも言えるわけがない。皆がそうだったように……。
村の光りが小さくなり、やがて、蛍の光りのようにか細くなるまで、ニーナは手を振りながら漆黒の小道を歩き続けた。村の光りが見えなくなり、前進するのに意識を回した際、自分が今間泣いていたのに初めて気づいた。
2
橋の欄干に巻きつく影憑きの触手から逃れるために、ニーナ達は橋を渡った。目の前にある赤黒い鉄門を抜けると、すでに観覧車の照明は届かなくなり、青いランタンだけが煌々と点るだけだった。
深い雑草が茂る空間に出た。程なく進むと、地面は瓦礫の山に変わった。周りには六階ほどの建造物が乱立している。それらは今まで見た事のない石造りの外装だった。薬箪笥のようにベランダが縦横に等間隔で並んでいる。ベランダや壁自体が崩れ、室内が丸見えになっている部屋もあった。テーブルやイス、棚が縁にぶら下がり、壁の断面から鉄柱がむき出しだった。
建物の壁面には数字が刻まれている。【十二】の建物の前まで来ると、ニーナは足を止めた。建物の入り口に誰かが立っていた。
不安になって振り向くと、ニーナは「え?」と声を上げる。一体いつからなのか、ジャミロとノリスの姿がない。はぐれたのか、それとも……。
「二人とも……どこへ行っちゃったの?」
彼女の困惑をよそに、その人物がぎこちない動きで手招きしていた。仕方なく建物の方へ向かう。
「ヨウコソ、オジョウチャン、ヨクガンバッタネ」
あっけらかんとした声で出迎えた相手は、ハンマーで叩かれて腫れたような大きな手を差し出しながら、三日月の形をした靴を躍らせた。赤と白の縞々模様の衣装に、サスペンダーで吊り下げたダブダブのズボンという出で立ち。白い顔の上に乗る、太い眉に丸い目、さらに、大きな口からのぞく歯が、どことなく薄気味の悪さを醸し出していた。
その正体は、ニーナの腰ぐらいの高さをした、ピエロの人形だった。
「あなたは誰?」
「オイラハ、案内役ノ、ジェントル坊ヤ、ダヨ。キミヲ、パパトママノ所ニ案内スルノガ、オイラノ役目ナノサ」
「パパとママに会えるの!」
「モチンンサ。キミガ最後ノ子供ダ。ミンナ、君ガ来ナイノヲ心配シテ待ッテイタンダゾ!」
人形は建物の中へ消えていった。奥にある階段の前で立ち止まり、首だけを振り向かせ、「コッチダヨ!」と呼びかけてくる。もう一度周りを見渡しても、ジャミロ達の姿はなく、今更ながら心細さを感じた。
「パパトママニ、会イタクナイノカイ?」
間が悪く、ポツリポツリと雨が降り始めた。傘までは持ってきていなかった。このままじっとしていても、らちが明かない。
ニーナは建物の中に足を踏み入れて、冷たい石段をゆっくりと上がり始めた。ジェントル坊やは軽やかに飛び跳ねながら、先へ先へと上がっていく。
天井には蜘蛛の巣が張り、ペンキの落ちた壁にはヒビ割れが枝分かれしたように走っている。ポタリッポタリッと、どこかで水滴が落ちた。
ニーナは階段に腰を下ろした。腰布から水筒を取り出し、干上がる口に冷水を流し込む。
ここに来るまで、本当に色々あった。怖い目に遭った一方で、ジャミロやノリスとも出会えた。一人だけでは、決してここまで辿り着けなかっただろう。今まで家族以外の誰かと、あんなに怒ったりで笑い合ったりしただろうか。そう思えるぐらい、村のいた頃の少女は孤独だったのだ。
道化の人形は階段の手すりから顔だけを出して、こちらを窺う。
「ゴールはまだ遠いの?」
「アト少シダヨ。アト少シデ、オツカイガ終ワル。今年モ大収穫サ」
クスクスクスと、ジェントル坊やは不気味に笑った。
「大収穫?」
ふと、背後の壁に落書きがあるのに気がついた。
『すべてを滅亡に任せろ! 王国がよみがえる事は二度とない!』
意味不明の文句の横に、また別の走り書きが続く。
『否! 王国はナギンの手で生き返った。一族に久遠の栄光あれ!』
『ナギンの牙は強靭だ。ナギンならざる者は餌と化す』
『汝らが黄金を欲するならば、ナギンは与えん』
『汝らも差し出せ。差し出せ、生贄を。拒むなら、ナギンの血肉となれ!』
さらに、壁を埋める『差し出せ!』の文句が四方に書かれている。ニーナは怖気が走らせ、再び階段を上がり始めた。
階段は四階で終わっていた。彼らは、そこから横の通路に出た。細長い通路には、向かって右の壁に番号の付いた鉄扉が等間隔に並び、左は不安定そうな手すりが連なっている。手すりの向こうは、黒一色に包まれている。
少し離れた山の中腹辺りに、小さな光が二つ点っているのがボンヤリと見えた。ニーナは遠くを指差した。「あっちは何かあるの?」
「アソコハネ、“夕餉ノ間”ダヨ」
「夕餉の間?」
「ミンナハ“夕餉ノ間”デ食事ヲスルノサ。トテモキレイナ場所ダ。君モ招待サレルハズダヨ。他ノ子ト一緒ニ、マモナクネ」
ジェントル坊やは通路の突き当りまで飛び跳ねて行った。追いついたニーナは、思わず飛びのきそうになった。
突き当りの壁にある鉄扉が、誰も触れる事なく勝手に開いたのだ。
「サア、中ニ入レヨ」
ゆっくりと、人形に続いて箱の中に入った。機械の力で扉は閉まると、鉄の箱――エレベーターが動き出した。まっすぐ、上に向かって。
「行キ先ハ屋上。コレニ乗レルノハ、オイラト、オツカイノ子供ダケ」
「ねえ、教えてほしい事があるの」ニーナは心に貯め込んでいた最大の疑問を、ジェントル坊やにぶつけた。「オツカイって一体何なの?」
両親も含めて、村の大人達は誰も教えてくれない通過儀礼。村の子供は皆知りたがっている。やっとここまで来たのだ、教えてもらってもいいはずだ。
「ミンナノタメ、サ」
ジェントル坊やはそれだけ言った。みんなのため――その中に自分は入っているのだろうか? 少女はぼんやりと思った。
やがて箱の上昇は止まり、扉がまた勝手に開いた。
箱の外は暗く、ランタンをかざしても部屋の様子が分からない。ただ、丸い天井の輪郭が薄く見えただけだった。
「君ノ名前、ナンテ言ウンダイ?」
「ニーナ」
「ヨク頑張ッタネ、ニーナ。ミンナ、オ待ちチカネダ」そして言った。「オイラノ家族ハ、ミンナ、オナカペコペコサ!」
突如、眉毛の太い顔が反転した。両目が血走り、口から牙が突き出した、鬼の顔へと変貌した。
ニーナは悲鳴を上げて走り出した。
飛び込んだ部屋の床は、おかしいほどに柔らかく、何度も足が埋まり、バランスを崩した際にランタンを落してしまった。
慌てて拾い上げると、それの周りに小さな何かがたくさん蠢いているのが見えた。目を凝らした途端、彼女は悲鳴を上げて、ランタンを放り投げた。自分のだと思っていたランタンには、無数の蛆虫が覆い尽くすように蠢いていたのだ。
早くも暗闇に慣れた少女の視界に、奇妙な光景が映る。
自分が持っているのと同じランタンが、辺りに転がっているのだ。どれも端が欠け、さびが浮いている。ガラスの向こうの青いロウソクは、中心の紐だけを残し、とうの昔に燃え尽きたようだ。
さらに、幾重にも打ち捨てられたマントは、どれも色褪せ、何かの力で引き裂かれた跡があった。
鉄骨の軋みが悲鳴に聞こえ、少女の鼓膜を震わせた。小さな子供のすすり泣きや金切り声が、床を埋めるオツカイの残骸から漏れ出ているようだ。
過酷な試練を乗り越えた子供を迎える、輝かしいゴール。ここはそんな場所では決してない。墓場、という言葉が浮かんだ。
踏みしめた足元で何かが割れる音がした。荷物からマッチを出すと、ほのかな明かりを頼りに音の正体を確認する。小さな眼鏡だった。それもまだ目新しい感じがする。ふと、ニーナはそれを拾い上げた。左右の細いフレームと蝶番がテープで頑丈に固定されている。
「エリアス……?」
そう、間違いない。これはエリアスがかけていた眼鏡だ。今年の春頃、ダルトンに殴られたせいで壊れたと聞いていた。彼の親は新しい眼鏡を買うと言ったが、本人はテープで補強したまま使っていた。見やすくて使い勝手がよかったのだと、自分やアリスに話していたのを思い出した。
短くなりつつあるマッチの光りは、矢継ぎ早に別の遺留品を発見させた。それは、エリアスの眼鏡と違って、かなり年月が経っていそうなヘアピンだった。 元々、蝶をかたどっていたらしいが、今では片方の羽根が無残にも折れ、残っている方の塗装は剥がれて錆びついている。
前触れもなく、一人の年上の少女の面影がよみがえる。
「マリー……」
ニーナが九歳の頃、向かいの家に住んでいた女の子がマリーだった。とてもおしゃれに気を使っていた。毎朝、毎晩、自慢の赤毛をいつも窓際でといで、十二歳には同年代よりも早く化粧を覚えた。身に付けていたアクセサリーもきれいだったのは記憶にある。特に、赤毛を止めるための、蝶を似せたヘアピンは彼女のお気に入りだった。冬の夜も、マリーは同じヘアピンを止めていた。
間違いなく、彼らはここへ来たのだ。自分の使命を見事に全うした。そして……ここで――ここで……何かに襲われた。では、一体何に?
突然、ランタンを持つ手の上に水滴が落ちた。薄明りに照らされた濡れた手の甲を見て、ニーナは小さく叫んだ。付いた水滴は赤い。絵の具みたいだ。だが、それがすぐに血だと分かった。
上を見てはいけない。心の中でほとばしる警告も空しく、ニーナはランタンを掲げて、天井を仰いだ。白い物体がいくつもぶら下がっている。中には赤い塊――肉塊が吊るされている。
「ああ……なんてこと」
赤い塊は、毛皮を剥かれた獣の死骸だ。そして、白い物の正体に、ニーナはたまらず息を飲んだ。万歳をした態勢で逆さづりにされているそれらは、すべては人間の白骨体だった。どれも小さいから子供だろう。垂れる頭蓋骨には毛髪が何本かこびり付いたままで、空っぽの眼窩でこちらを見下ろしている。
ここから逃げないといけない。ここは、《ガイコツ帽子の塔》ではない。学校で聞いていた話とは全く違う。ニーナは昇降する箱に戻ろうとした。
「ニーナ?」
聞き覚えのある声が近くで呼んだ。
「ママ?」
ニーナの両親、ヴィクターとエブリンの夫妻が目の前にいた。彼らを見て、彼女は無我夢中に駆け寄った。
父の手が頭を優しくなでつけ、母がハンカチで娘の顔の汚れを落してくれるのを、彼女は心から期待した。辛い事があるといつも慰める母。綺麗な人形を欲しいと甘えると、すぐに買ってくれた父。いつもの両親がここにいる事に、強烈な安堵を感じずにはいられない。
「ニーナ、よくやったね」
誉める父の顔に笑顔はなかった。母も同様だった。その視線の先は、娘の後ろに移った。ニーナは、父と母が自分の手を強く握りしめているのに気づいたが、まるで逃がした獲物を逃がさない獣のように、有無を言わないほど力がこもっていた。
「どうしたの、二人とも?」
ヴィクターは彼女の背後に向かって言った。
「今年はこの子で最後だ」
3
ニーナが振り向くと、いつからそこにいたのか、背の高い女性が立っていた。気配も何も感じなかった。昔の貴族が着るような赤いドレスに身を包んだ長身。その女の顔はやけに青白く、両目は老人みたいに白く濁っていた。
「ようこそ、お嬢ちゃん」
「あなたは誰?」
「あたしの名はデルザ。《ガイコツ帽子の塔》の主人さ」
すえたカビの臭いが女から漂ってくる。ニーナは距離を取ろうと下がった。彼女の腕を掴む父親がそれを許さなかった。その横にいつの間にか、先ほど人形を背負う若い男がいた。女主人と似た顔をしている。
「パパ、この人達は何か変だよ」
ヴィクターは黙ったままだった。
デルザと名乗った女は、ニーナの顔を掴んだ。爪がこめかみに刺さるほど強い力で、頭が潰れてしまいそうだった。
「まだ、分からないのかい? あんたは捨てられたんだ。ここへ来た数多のガキと同じ運命を辿る。つまり――あたし等の餌になる」
デルザの背が異常に高くなり、頭も膨らんでいき、口元が耳まで勢いよく裂けた。赤く小さな瞳がニーナを見据える。口の中には無数の針山に似た牙が隙間なく並んでいる。
恐怖の洪水が押し寄せ、ニーナの意識は闇の中へと落ちる寸前――。
「あんたが連れて来てくれたのか。でかしたよ、ジャミロ」
怪物の言葉に反応し、入り口に立つ少年の影法師を見た。何かを言おうとする前に、少女の意識は途絶えた。