第三章 大冒険家ノリス
1
ニーナが家に帰ると、両親が顔を鎮めながらテーブルに着いていた。何やら深刻な雰囲気が肌に突き刺すように感じ取れた。
「ただいま、パパ、ママ。どうしたの?」
父親のヴィクターはハッとして顔を上げた。
「ニーナか。おかえりなさい。さあ、そこに座りなさい」
母親のエブリンはおとなしい人だが、ニーナには優しかった。顔を沈めて泣く姿に、少女の胸は痛んだ。自分のせいで泣いている罪悪感に襲われた。
「どうしたの、二人とも? ダルトン達の事なら気にしないで」
彼らにいじめられている事を、両親は知っているはずだ。小さな村では隠し事など、空を飛ぶより難しい。しかし、兄との約束を守るために、家の中では、できるだけ元気に振る舞うように心掛けていたつもりだった。
顔に憔悴の色が浮かべ、父は言った。
「実は――ニーナ、お前が今年のオツカイに選ばれたんだ。さっき、村長が伝えに来た。今朝の寄合で決まったと」
オツカイ……。
七年前の記憶がおぼろげによみがえる。青いランタンを片手に、手を振りながら、暗闇の森へと消えたブライアン。吸い込まれるように消えた兄。
ついに、自分の順番が回って来たのだ。
「どうしてよ。どうして、うちの子供ばかりがこんな目に……」
母が嗚咽を漏らしたまま、奥の部屋へ走り去った。
「ママ……」
「許しておくれ、ニーナ。お父さんが不甲斐ないばかりに」
「心配しないで。わたしは絶対に塔へ行ってみせる。お兄ちゃんの失敗を帳消しにしてあげる」
「無理は言ってはいけない」
「強がりなんか言ってないわ。絶対に塔へ行って大人になってみせる。いつか、こっそり会いに来てもいい?」
父は、ここ数年でしわが多くなった。母が三十八の時に生んだ娘だと、ニーナは彼らから聞かされてきた。二人の子供がいなくなり、年老いた両親はこれからどう暮らしていくつもりなのだろう。少女は気懸りでならなかった。
「ニーナは本当に強くなったね。でも……」
「でも?」
顔を上げた父の顔は、見覚えのあるブタに様変わりしていた。
「人見知りするのはかまわんが、気絶するのはあんまりじゃないか!」
2
悲鳴を上げながら、ニーナは目覚めた。
「あれは……夢?」
「人見知りするのが良いが、気絶するほどかね?」
後ろからの声に振り向くと、やはり、豚の顔をした男がいた。ニーナは後ろへ下がる。頭がズキズキと痛んだ。
「落ち着きなさい。私はれっきとした人間だ。君は気絶した時に頭を打ったのだよ。これが何本に見える?」と、ブタのひづめに似た指を立てた。
「ええと……四本です」
「よろしい」小さな黒い目は彼女を見据えた。「仕切り直しといこうか。私の名はノリス。大の付く冒険家だ。君の名前は何という?」
ニーナは口を堅く閉じた。万が一、村以外の人間に出会っても何も話してはいけない。オツカイの掟の一つである。ノリスのつぶらな黒い瞳は、一見優しげだが、逆に何を考えているのか心の内が読めない。そもそも初対面に気安く話す義理もない。
「そうか。やんごとなき生まれの子ならば、容易く名乗るわけにはいかないな」
黙ったままのニーナに、ノリスは肩をすくめた。
「ここに着くまで何があったかは知らんが、私は、いきなり銃をぶっ放したりはしないから安心したまえ」
「どうして、それを?」
「鼻と耳には自信がある。火薬のほのかな臭いが風で流れてきた。銃声らしき音も何度も聞いた。いつ、こちらに来るのかと冷や冷やしたものだ」
ノリスは丸太に腰かけた。彼に薦められるまま、ニーナも対面の丸太に座る。二人を挟んで、たき火の上には鍋がくべてあった。
「君の方は、こんな樹海の中で、しかもこんな夜更けに一人でお散歩かね?」
「いいえ、その……親から“おつかい”を頼まれたんです」
言うに事欠いて口から出た言葉に、ノリスは妙に納得した様子だった。儀式のオツカイを普通の意味として取ったのだろう。
「おつかいか。なるほど」
「ノリスさんこそ、ここで何をしているのですか?」
「私はこの森を探索しに来たのだ。周りも暗いし、ここでキャンプしているところだった。ところで、君はこの森で住んでいるのか?」
「いえ、別のところで……」
「そうか。この森は何だか妙だと思わんかね?」大冒険家はそう言うと、三角形の耳をピクピク動かした。「動物の声も聞こえない。獣の咆哮、鳥のさえずりさえも、この川だってそうだ。川底が見えるほど綺麗なのに、魚が全く泳いでいない」
ニーナは目をつぶり、耳を傾けた。ノリスの言う通りだった。今まで、全く気がつかなかったのが不思議なくらいだ。
「この森は実の成る木が極端に少ない。大半の木々は腐っている。肥沃な土地には自然と草木は茂り、動物や人が集まるものだ」
「私が住む村も、森の中にあるのに畑はありません」
「木の壁に囲まれたところだね」
「はい――!」しまった、とニーナは地団太を踏みたかった。
ノリスは気にする様子を見せず、軽快に鼻歌を鳴らしながら、沸騰している鍋の蓋を上げた。湯気が一気に立ち上ぼり、おいしそうな香りが広がった。
「君も食べていくかね?」
「いいえ、お構いなく」
その時、彼女の腹の虫が盛大に鳴り響いた。
「君も冒険家ならば無理をするな。食える時に食う。サバイバルの鉄則だぞ」
ノリスはドンブリにスープを入れると、ニーナに渡した。
見知らぬ人から食べ物を貰うのは良くない。そう思いながらも、ゆっくりとスープをすすっていた。凍てついた体を瞬く間に温まった。深い味わいが痩せこけた胃袋を満たし、空腹の虫を鎮めてくれた。
気がつくと、ニーナは泣いていた。今まで味わった死と暗闇の記憶が溶けて、抑えきれない安堵へと変わる。
「よほど、辛い目に遭ったようだね」
「わたしは、森の中で迷ったの……とても怖かった」
「そうか。森の外に出たいのなら、私が案内しよう」
「ありがとうございます。このスープ、とてもおいしいです!」
「うまくて当然。我が家の先祖伝来のレシピで作った特製の豚汁だ」
ニーナの食欲に急ブレーキがかかった。共喰い……。目の前で笑顔を浮かべる冒険家が、同類が大鍋に放り込んだり、自ら鍋に入って出汁を染み込ませたりする光景が目に浮かんだ。
「さあ、いっぱいあるからどんどん食べなさい」
結局、初めの一杯で終わり、残りはノリスがすべて平らげてしまった。
「ノリスさんは、何のために冒険をしているのですか?」
よくぞ聞いてくれたと言わんばかりに、つぶらな目が輝いた。
「この世界は広い。そして、多くの財宝が各地に眠っている」
「財宝を見つけた事はあるのですか?」
待っていたという感じで、ノリスは長い鼻を鳴らした。突き出した二つの穴から、興奮という蒸気が噴き出す勢いだった。
「もちろんだとも。もっとも、大半の秘宝は偽物であったり、すでに誰かに発掘された後だったりする」
大冒険家はそう言うと、リュックから雑多な品々を取り出した。
銅像に壺、青い石ころ、古ぼけたアンティークの人形に、ボロボロの巻物数点と枚挙に暇がない。
「ノリスさん、この石は何ですか?」
「それは賢者の石。持ち主に不老長寿をもたらす魔法の石だ」
赤い石を得意げに説明するノリス。ニーナには彼が何百年も年を取らずに生きている風には見えなかった。
ニーナは、気になる物をまた見つけた。それは薄い金属の板だった。手鏡みたいに磨かれた面があるが、何も映らない。同じような板は二枚あった。賢者の石よりも、本物の秘宝っぽい気がする。
「ノリスさん、これは?」
「古の人々が使っていた通信機器だよ。“スマートな電話”と呼ばれていたらしいが、使い方が謎だ。それよりも、コイツを見てくれ!」
ノリスが見せたのは、手の平に乗る小箱だった。ほどこされた飾りは薄れ、角が何か所か欠けている。
「これこそ正真正銘の財宝であり、神話の遺物、パンドラの箱だ」
「パンドラの箱?」
「左様。すべての災いを詰め込んだ、禁断の箱だよ」
パンドラの箱にまつわるギリシャ神話を、彼はとうとうと話し始めた。その間、疲れと安堵のため、ニーナはうたたねしていた。頭をコックリコックリと前後に揺らし、その度に眠りから覚めてはまた沈み込んだ。睡魔が引いた頃には、長い講釈は終わっていた。
「――という事だ。分かったかな?」
「はい」
何が分かっていて「はい」と答えたのか、ニーナは分からなかった。
「かくして、エピメテウスの妻、パンドラは誘惑に負けて、神々からの贈り物である箱を開けてしまった結果、この世にあらゆる災いが蔓延ったのだ。疫病、犯罪、妬み、憎しみ、戦争、嘘……」
あくまで真顔で語る冒険家が、おかしくてたまらなかった。目の前にあるのは、何の変哲もない箱にしか見えない。
「これを持っていた持ち主はタダ当然で私に譲ってくれた。なぜか、持ち主の骨董商は大層安心して、逆に私よりも多く感謝してくれた」
「感謝?」
「そうだ。良い買い物をした。だが、骨董商は強く警告したのだ。決して、こいつを開けてはいけない――」と言いつつ、小箱の蓋を開けてみせた。
突然、箱の隙間から竜巻が起こり、色々な物が舞い上がった。ニーナも見えない力で空中に浮いて、箱の中へと吸い込まれそうになる。ノリスは箱の縁にしがみ付きながら、必死にこらえた。顔の半分は箱の中に埋まっている。
ニーナは岩肌に取りつき這って近づいていくと、ノリスの体を外へと引っ張ろうとした。
「痛い、痛い、痛い、痛い!」
蓋に鼻先を挟まれて、ノリスは叫んだが、仕方がない。さらに力を入れた。スポンッと音を立てて、鼻が箱から抜けた。必死の思いで小箱を閉じると、周りに静寂が戻った。たき火は消え、テントも無残に崩れ、周りは暴風雨でも吹き荒れたかのような惨状だった。
「これで信じてくれたかい?」
ノリスは火を灯すと、目頭をこすった。少し伸びた気がする鼻は赤く腫れている。ニーナは申し訳なく思い、ハンカチを河原で濡らすと、それを大冒険家の鼻にかけた。よほど川の水が冷たかったらしく、「ひええ!」と素っ頓狂な悲鳴を上げた。
「財宝を探す冒険、それが私の使命であり、生まれながらの夢でもある。天職と言ってもいい。故郷に帰りたくとも帰れない私には、もはや冒険しか残っていない。副業として、マジシャンをして資金を稼ぎながら、故郷に仕送りしつつ、私は旅を続けてきた」
ノリスは懐から出した一本のマッチ棒を手にかざすと、それは消えていた。次の瞬間、鼻の穴からマッチ棒を取り出した。彼は煙草に火を点けてスパスパ吸い始めると、二つの鼻の穴から紫煙の輪が出てくる。
できる限りの盛大な拍手を送ると、ノリスは照れを隠さずに笑った。つぶらな瞳はとても優しげだった。この人は、もしかすると、奥さんや子供がいるのかもしれない。ニーナはなんとなくそう思った。
ふと、両親の事を思い出した。二人は、今も《ガイコツ帽子の塔》で自分が来るのを待っている。彼女は、急に居ても立ってもいられなくなった。
「ノリスさん、ごめんなさい。わたしは森に住んでいるの」
「丸太に囲まれた村に住人か? 家に帰るのかね?」
ニーナは首を振った。「ある場所へ行かないといけないのです」
「一人で大丈夫かい?」
「どうしても、一人で行かないといけない決まりなのです」
「決まり? 君は肝試しでもしているのか?」
「事情はお話しできません。本当にごめんなさい」
「……そうか。だが、気をつけなさい。さっきも言ったが、この樹海はどこかおかしい。原生林なのに、生き物の全くいない。なのに、何かの気配を感じる」
ノリスはリュックから古い方位磁石を取り出すと、ニーナに渡した。
「持って行きたまえ。年季が入っているが、まだ使えるだろう」
「ありがとうございます!」
「一人で無理をしてはいかんぞ。危険だと思えば即後退。サバイバルの鉄則だ」
「はい。あの……ノリスさん」
「何だね?」
「わたしの名前は、ニーナです」
「そうか、ニーナか。てっきり、どこかの国の王女様かと思って、粗相がないようにと緊張していたところだ」
「あの、それと、銃を持った人には気をつけて下さい」
「分かった。君の忠告に感謝するよ。お互いの幸運を祈ろう!」
ぎこちないお辞儀をすると、ニーナは闇の森に溶け込んでいった。
3
急に思い出して、ノリスは立ち上がると大声で叫んだ。
「そっちの方角にある家は避けて通りたまえ! 災難の臭いがする!」
冒険家の声が何度も反響した。果たして、ニーナの耳にちゃんと入ったのかは心もとない。彼はため息を着きながら腰を下ろした。
ニーナと名乗る少女は、丸太の壁で守られた村から来たと言っていた。ノリスもここに来る前に通りがかったので一周歩いてみた。結果、あの壁は外敵に対する備えではないと考えた。あれはむしろ、内側にいる者を閉じ込めておくための重きが強い。
一体、誰を、何のために閉じ込めるためのものか?
「地図のない樹海の中を歩く子供。そして、巷に広がる子供の神隠しや人買い、金塊を売り歩く集団の噂と、どう繋がるというのだ……」
ブタの大冒険家は独り言を連ねつつ、たき火に枝葉をくべながら、ようやく輝きを取り戻した星空を見上げた。
ノリスは、これからの自分と共にニーナの加護を祈った。
「どうか、世の冒険家達に幸あれ」