第一章 選ばれた少女
今年も“オツカイ”の夜が始まろうとしていた……。
1
暗い雑木林の中を、大柄な男が急いでいた。丸太みたいに頑丈そうな二の腕には、灯りとなる松明をかかげている。
その男からやや遅れて、ニーナは小走りで追いかけた。頭からフードを被り、ねずみ色のローブを着ている。少女が持つランタンは、今にも消えそうな明かりを心細げに照らし出していた。
フードの奥で不安に揺れる瞳は、どんどん先を進んでいく大柄な背中ばかりをうかがっていた。男の名はハンス。粗暴な性格が災いして、村での評判は日頃からあまり良くなかった。これ以上、彼を怒らせてはいけない。
そう思った矢先、地面から突き出た石に足を取られてしまい、ニーナは手を突き出すより先に転倒した。
「このノロマが何してやがる! “見送り役”の俺の身にもなれ」
怒声を響かせたハンスは、メラメラと燃える松明の炎を向ける。汗玉の浮いた険しい顔を紅潮させ、血走った目で少女を睨みつけた。二メートル近いハンスは、小柄な彼女からすれば、巨人にしか見えない。
「……ごめんなさい」
膝小僧の痛みを我慢しつつ、ニーナはランタンを拾って立ち上がった。
「ふん!」と鼻を鳴らし、ハンスは再び先を急いだ。
村を出てから、一体どれだけ歩いただろうか。辺りに乱立するブナはどれもひどく痩せこけ、地面は色の悪い砂利や石しか見当たらない。草木は至って乏しい。村長は、大地が腐っているからだと言っていた。
陽はとうに落ち、時刻はすでに宵の口。周囲は闇夜に包まれ、どこかでフクロウが鳴き、夜行性の虫や動物が眠りから覚め、茂みで蠢き始めていた。
いきなり、ハンスの足が止まる。
「さあ、着いたぞ」
雑木林がいつの間にか終わっていた。目の前には、丸太の壁が果てしなく並んでいる。高さは四、五メートルぐらいあった。
ハンスは古い鍵を取り出すと、丸太の壁にある鍵穴に差し込んだ。重い軋みを響かせ、丸太の壁に人ひとり分の隙間ができた。
「俺の同伴はここまでだ。ここから先は、お前一人で行け」
ハンスは銀色の磁石をニーナに渡した。
「このコンパスを頼りに北へ向かえ。しばらく進むと、山腹にそびえる塔が見えてくる。そこが目的地の《ガイコツ帽子の塔》だ。塔に辿り着けば、お前の役目は終わる。塔の中には、お前の親が待っているだろう」
ニーナは、門の向こうにある樹海を見た。そこには、すべてを吸い込んでしまうような闇の口が広がる。吹き込んでくる風を受け、少女の膝は震えた。
すると、ハンスが肩に掛けていた猟銃を急に構えだした。
「もう後戻りはできんぞ。掟その一、選ばれた子供は、たった一度でも門から外に出たら、二度と村の中へ踏み込んではならない」
ラッパの形をした銃口を闇に向けながら、彼は言った。
無事、《ガイコツ帽子の塔》に辿り着けた子供もまた、二度と村へ足を踏み入れてはならない。両親から聞かされた掟を、少女は思い出した。
「もっとも、この門を越えるのは簡単ではないな。他の六つの村々を囲っているから、もう一度、人里へ戻れるとは夢にも思わん事だ」
森には、ニーナの住む村を含めて、七つの村落が点在する。各自の村から選ばれた七人の子供達は、違う地点から異なる日時に、北の方角に位置するとされる《ガイコツ帽子の塔》を目指さなければならない。
――きっと、わたしがビリなんだわ。ニーナはなんとなくそう思った。
ハンスが銃を肩に持ち直して、門の中へ踵を返そうとする。
「あの……」ニーナはなんとか一言を絞り出した。「見送り役の務め……お疲れ様でした。どうも、今までありがとうございました」
村の外まで送迎してくれた“見送り役”には礼を述べよ。両親からそう言いつけられていた。タイミングを計りかねていたところだった。
「確か、七年前だったな……お前の兄貴を見送ったのも俺だった。あの時も同じように感謝されたよ。やはり本当の兄妹だな、血を争えん」
兄の話題が不意に出て、ニーナの鼓動は一段と高鳴った。
そんな彼女の反応を知ってか知らずか、ハンスは珍しく甲高い声で笑うと、夜空に向けて宣言した。
「いざ旅立て、オツカイの子よ! すべては家族と村の繁栄のために」
丸太の門が閉じられ、“見送り役”の姿は消えた。
樹海の入り口に立つ、ニーナただ一人を残して。
2
オツカイ――それは、村に古くから伝わる風習だった。
夏と冬が近づくと、十二歳を迎える子供の中から一人が選ばれる。新月の夜、選ばれた子は、丸太の壁の向こう側、すなわち、村の外に広がる樹海を一人で分け入り、森の奥にあるとされる《ガイコツ帽子の塔》を目指す。もちろん、樹海の途中で命を落と者も少なくない。獣に襲われ、命を落とす者。森に迷った末に、行き倒れになる者もいるらしい。
無事に塔へ到達すると、一人前の大人として認められる。同時に、両親と決別する運命が待っている。独り立ちした子は、同じく塔にゴールした同年代やその先輩らと手を取り合い、第二の故郷を作っていかなくてはいけない。そして、故郷の村の繁栄に貢献しながら、子孫を増やしていく。
すべては、家族のため、村の繁栄のために。オツカイについて、ニーナが両親から聞かされたのはそれだけだった。
今年の夏、一人が村を去った。冬はニーナの番だった。
3
数メートルも歩かないうちに、ニーナは言い知れぬ恐怖を感じた。見渡す限りが同じ景色ばかりが映るのだ。さっき来た方角さえ、見当もつかなくなりそうだった。風の音はまるで、女の震える声に聞こえてくる。小枝がガイコツの指に見える。彼女は思わず門の前に戻った。
『樹海の中には恐ろしい魔物がいる。魔物に喰われた子供の霊魂は鬼火となり、死んでもなお、出口のない森の中を永遠にさまよう』
同年代の間で交わされる噂が脳裏によみがえり、たまらず地面にしゃがみ込んだ。今はとても歩けそうになかった。朝になるまで待とう。少女はそう決めた。日が昇れば、樹海の中はきっと明るくなる。そうすれば――。
閉じたばかりの門が再び開いて、ハンスが顔を覗かせた。太い眉を寄せる。
「足が動かんのか?」
恐る恐る彼女が頷いた直後、鼓膜が破れるような轟音がこだました。ニーナは小さく叫んで、体をよろめかす。ハンスが空に向けて、猟銃を発砲したのだ。鳥が羽を立てて一斉に飛び出すのが聞こえた。
「お前の兄の名前を何だったか?」
「ブ、ブライアンです」
「そう、ブライアン。いつも、人を小馬鹿にした目で大人を観察していた、あの小賢しい小僧だ。自分以外はみんな馬鹿だと思っていたに違えねえ」
ハンスは頭をかきながら、門から樹海の中に踏み込んでくる。
「兄が兄なら、妹も妹だな。奴は結局、塔へ辿り着けずに終わっちまった。死体さえも見つからずにな。道に迷って行き倒れたか、はたまた獣に喰われたか。いずれにせよ、ただの負け犬に過ぎん。お前もそうなりたいか?」
フードの下から薄く涙を浮かべ、ニーナは首を横に何度も振った。
「なら、さっさと行け。“見送り役”を村長に頼まれなかったら、今頃、俺は家で酒を飲んでいたところだったんだぞ。それをだな――」
突然、ガサッと頭上から音がした。不平不満が途切れ、突如、野太い悲鳴に変わった。ハンスが地面に転がり、松明を振り回している。
ニーナはランタンを向けて、必死に目を凝らした。
巨漢の体に、黒い物体がまとわりついていた。影は、彼の体に染み込むようにして消えていった。
ハンスの動きがピタリと止まった。やがて、「うう……」と低く唸りながら、ゆっくりと立ち上がろうとする。
少女は胸をなで下ろして駆け寄ろうとして、一瞬、その足を止めた。
何か様子がおかしい。ハンスの動きがぎこちない。松明の手をダラリと下げながら、酒の飲み過ぎで腹の出た体を無理にねじらせる。彼は、呆然と立ち尽くす少女を見つけると、唇を吊り上げて奇声を発した。
「ハンスさん?」
次の瞬間、彼は猟銃を構え、銃口を迷わずニーナに向けた。
「オイラは狩人だ……百発百中の狩人だアァ!」
轟音と共に、銃口から火を噴いた。ヒュッと風を切り、ニーナの耳元を通過した銃弾はフードに穴を開け、背後にある大木の表面をえぐった。衝撃で、彼女は後方へ転倒した。
体を起こした時、“見送り役”の豹変した顔が見えた。ねじれた唇からは泡を吹き出し、黄ばんだ歯はむき出しになり、目は白く濁っている。
ニーナは逃げようとしたが、足は石のように動かない。
ハンスはもう一度、猟銃の先を少女に向けた。
今度こそ撃たれる。そうしたら死んでしまう。そんなのはイヤだ。死にたくない……。
どこかで鳥が勢いよく飛び立った。ハンスが一瞬だけ、視線を外した。それがきっかけとなり、金縛りが嘘のように消えた。
ニーナは立ち上がり、一気に駆けだした。背後に銃声が響き、耳元を銃弾が横切った。転んではいけない。一心不乱に少女は走った。もう二度と、生きて出られないかもしれない、深く黒い樹海の奥へ。
4
ニーナは、木々の間をジグザグに縫いながら逃げ続けた。まっすぐ走れば狙われやすくなる。地面はコケで滑りやすく、ぬかるみ、岩肌や木の根っこが地面に張り出している。一瞬でも止まれば撃たれる。
笑いの混じった銃声が背後で響き、細い風が頭上を二度かすめる。
「待ちやがれぇぇ、憎たらしい子ぎつねがぁぁぁ!」
絞り出された喚き声は、闇を裂いてしつこく追いかけてくる。
一体、どうしてしまったのだろう?
“見送り役”のハンスは、気性の荒さを無視すれば、決して評判は悪い人ではなかった。腰の曲がった老人の代わりに、重い荷物を持ってあげたりするのを見かけた事もあったというのに。
今、追いかけてくるハンスは、まるで別人だった。体は本人でも、身の内に何かが憑りついているかのようだ。
そう、例えば……樹海に住む魔物に――?
木々が途切れた途端、足元の重力が消えた。フワッとした浮遊感は一瞬だった。斜面に飛び出したと気づくのには遅く、少女の体は前のめりのまま、坂を転げ落ちた。暗がりの視界が二転三転する。手から離れたランタンが、風前の灯を揺らしながら、奈落へ消えていくのを見たのが最後だった。
やがて、少女の意識は、闇の底へと落ちていった。