Ep.1-02 少年ヘル
「記憶がない? 名前以外何も覚えてないの?」
フェリの問いに、ヘルは不安そうに頷いた。本当に、名前しか思い出せないのだ。……しかも、本当に自分がその名前だったのかという根拠すら曖昧で。自分で自分をヘルと呼んでも、妙に馴染みが薄い。記憶がないから、という言葉だけでは、片付けられないような気がする。
自分のヘルという名前は最後に聞いた言葉の一部で、本名は別にあるのではないか。そんな疑念が、内心で鎌首をもたげていた。
「はい、だから妖精族とか人間族って言われても、俺には意味がわからないんです」
そう、と簡潔に返して、フェリはまず彼にスープを飲ませることにした。普段ならこんなことなどしないが、彼はただの行き倒れではない。夜な夜な吹雪が渦を巻き狼が吠えるセツナ雪原で、狼の前に自分たちに見つけられ助けられた……恐らく、自分には預かり知らぬ何かがあるのだろう。フェリが、干し肉と野菜のスープを手渡した。
「これ……いいんですか?」
「いいわよ」
ありがとうございますと言ってヘルは受け取った。何やら聞き慣れない祈りの言葉を唱えると、餓えた獣のようにスープを貪る。食料も水袋もなしに倒れていた姿を思い出して、アリアはフェリに許可をもらいスープを飲み終わったヘルに干し肉を多めにしたスープのおかわりをよそった。
「あ、ありがとうございます……なんか、すいません」
「いいですよぅ。パンの余りはありませんが、水も干し肉もアテがあるんでいくらでも飲んじゃって下さい。師匠はあまりお肉食べないんで、消費も遅いんです」
そう言って苦笑に似たものを漏らすアリアと静かにお茶を飲むフェリにヘルは頭を下げると、今度はゆっくり味わうようにスープを飲んだ。
干し肉と干した野菜を水で戻して煮ただけの簡単なスープだったが、干し肉の塩気がほどよくスープに溶けて中々の美味だった。温かい干し肉を飲み込むと、腹にじんわりと温かい熱を感じる。セツナ雪原を吹き抜ける風は冷たいが、スープの熱が全身を温めてくれたためにそこまで苦にならなかった。
「おいしかったです……ありがとうございました」
「あなた、さっきからお礼しか言ってないわね」
「おいしかったからよかった。これ、私が作ったの」
スープを飲み終わったヘルが礼を言うと、二人はひらひらと手を振って別にいいと言った。人心地がついたヘルは、ふと自分の姿を見てみようと思い首から下の自分の服装を見下ろした。
まず目に入ったのは、雪原と見事に対照的な夜闇の漆黒。ヘルの服は全てが黒一色で統一されていた。触れた感触から金属製とわかる、しかし不思議と軽い鎧の色は黒。中に着ているインナーやズボンの色も、また黒。何らかの革をなめして作られたブーツや外套、手袋もまた余す所なく黒だった。
「俺、見事に黒ずくめだなあ……」
「髪も瞳も黒いよ〜、アリア黒い瞳なんて初めて見た!」
「あと、あなたの剣も黒いわね」
このカルチェ=ルクシアという世界において、黒い瞳の持ち主は現実には存在しない。遥か昔、古代文明の頃の文献に載っているだけで、今の世界ではお伽噺とされている程度だ。フェリはヘルが倒れていた時に握っていた黒い剣を出しながら、それを伝えるべきか否かを考えていた。
「ほら、これがあなたの剣よ」
「返しては……」
「それはちょっと、困るわ。これを抜かれたら困るもの」
剣にも鎧にも、古い魔法の力を感じる。今のところヘルは無害だったが、だからといって武器を持たせていい理由にならなかった。鎧をそのままにしてるのは、単に魔術師である二人は自分がつけてる胸当てや脛当ての外し方しかわからなかったからである。
ヘルは剣への思い入れの記憶もないからか、フェリの言葉にあっさり頷いた。再び外套の裾を地面に敷いて座ると、「この世界について聞きたい」と言った。
「この世界のこと? アリア達のいるここのこと?」
「そう、この世界について、これから生きるのに知っておいた方がいいことです」
「わかったわ」
フェリは頷いて、どこから話そうか考え始める。師匠がずれたことを言ったら自分が訂正しようと思いながら、アリアはお茶を淹れた。