第一幕:聖母の国
よろしくお願いいたします。
朝の空気はひんやりと澄んでいて、まだ薄暗い街の隅々まで静けさが満ちていた。
街は眠りからゆっくりと目覚め、まだ色づき始めたばかりの空の下で息を整えている。
イリはふと目を覚ました。
柔らかな布団のぬくもりがまだ手に残っている。
窓の外を見ると、東の空にぼんやりと明るい輪郭が浮かんでいた。
彼女はベッドから静かに起き上がり、身支度を整えながら部屋の隅にある小さな祈りの祭壇に向かった。
そこには、建国の母、榊サヨの肖像が飾られている。
イリは静かに目を閉じ、ゆっくりと祈った。
「サヨ様、今日も私たちの国に平和と共感をお与えください」
その声は小さく、けれど確かな祈りの響きだった。
家の外では、まだ静かな足音が響き始めている。
女性たちが仕事や学びに向かうためにゆっくりと動き出していた。
街は静かに、そして確かに動いていた。
人々は互いに微笑み合い、感情を分かち合い、争いは過去のものとなった。
この国に、男性の姿はもうない。
イリはゆっくりと着替えると、制服の青いリボンを整えた。
それは彼女の通う聖母学園高等学校の証。今日もまた、この国の未来を守るための一歩を踏み出す。
「お母さんいってきまーす!」
イリは家を出ると、静かな通りを歩きながら、周囲の景色に目を向けた。
街のあちこちに掲げられた標語が、彼女の胸に響く。
――「母性が紡ぐ未来、共感が織りなす調和」
男女の争いは過去のものとなり、この国には戦争も暴力も存在しない。警備にあたる母性保安庁は、市民一人ひとりの感情の波を読み取り、誰もが安全で安心して暮らせる社会を築いている。
道行く女性たちは皆、平等な立場で、感情を分かち合い、互いに支え合っていた。
感情の衝突はすぐに話し合いで解決され、論争は存在しない。
イリもまた、その輪の中で自分の居場所を確かめていた。
いつもの交差点で、カナがすでに待っていた。
「おはよう、イリ。今日の授業、また男性時代についてやるんだって。」
「え!ってことは母性保安庁の人が来てくれるの??うれしい!」
「イリは好きだねえ。」
「そりゃそうだよ!あんなにきりっとしててしっかりしてて、かっこいいんだもん。憧れだよ。」
「イリみたいなうっかりさんがなれるかなー?」
カナはいたずらっぽく笑った。
母性保安庁の職員は治安維持だけでなく、市民への道徳教育も重要な仕事だ。
憧がれの母性保安庁職員が学校へ来る道徳教育の時間は、イリにとって一大イベントだ。
学校に着くと、教室にはすでに多くの少女たちが登校していた。
学友との挨拶もそこそこに、朝の祈りの時間を終えるといよいよ授業が始まる。
黒板には大きくこう書かれている。
――『男性時代の混沌と暴力を超えて』――
「皆さんおはようございます。本日の道徳教育を担当させていただく、母性保安庁のツバキです。本日はよろしくどうぞ。」
教壇には担当の母性保安庁職員が立っている。
はっきし言って、かっこよすぎる...。イリはそう思った。
鋭い輪郭を持つ白の開襟のジャケットには、金のダブルボタンが整然と輝いている。
袖口や襟裳には細かな刺繍が施され、所属や階級をさりげなく示している。
脚には動きやすさと耐久性を備えた同じく白の布地が使われ、足元は磨き上げられた革の履物で引き締められていた。
そして何よりあの外套!歩くたびに優雅に揺蕩う純白のマントは、
格式高く、どんな装いより優美に見える。
将来は、自分も何としてでもあの制服に袖を通してみたい。
イリの憧れそのものの形であった。
授業が始まると、ツバキは映像を流した。
そこにはかつての戦争や暴力、そして男尊女卑の時代が映し出されていた。
かつての戦争では、人が人を殺すおぞましい行為が平然と行われていた。
しかも、そういったとき真っ先に狙われるのは女性で、
男性が始めた戦争の被害を被るのはいつも女性だった。
戦争が終わった後だって、女性は家庭では家事奴隷として扱われ、
社会でも不当な差別により活躍の機会を奪われ続けていた。
暴力だってそうだ。相手の肉体に損害を与えることで、痛みと恐怖で支配する最悪の行為。
また、男性は暴力をすることに躊躇がなく、力の差もあって女性が逆らうことはできなかったという。
これが珍しい話でなく、ありふれた話だったというのだから、なんと恐ろしいことだろうか。
映像が終わると教室の空気は静まり返り、ツバキが真剣な表情で語り始めた。
「かつての男性時代には、多くの女性が夜に一人で外を歩くことすら危険な時代でした。犯罪や暴力が蔓延し、女性は常に恐怖と隣合わせだったのです。」
イリは映像の中の女性たちの怯えた表情に胸を締め付けられた。
今の女の国では考えられない光景だった。
夜に一人で歩けないというなら、遅くまで遊んだときは一体どうやって帰ればいいのだろう?
それとも、遅くに帰らないよう、行動を自ら制限していたのだろうか?
男性のせいで、不当に自由を奪われていた?
今ではあり得ない、最悪の時代だ。
「そのような時代から解放されたのは、母性の力と共感による新たな社会の実現があったからです。
私たちはその恩恵を享受し、平和な日々を過ごしています。」
ツバキの声は揺るがず、教室中の少女たちが真剣な表情で聞き入っていた。
この国の平和と母性を守るため、私もいつか〈母性保安庁〉で働くんだ。イリはそう心に誓った。
ツバキは優しく微笑みながら、最後にこう締めくくった。
「これが私たちの誇りであり、守るべき未来です。」
イリは純白の制服を見つめながら、その言葉を心に深く刻んだ。
窓の外からは、柔らかな光が差し込み、教室全体を温かく包み込んでいた。
「女の国は、今日も平和です――」
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