文化人になりたい新卒のエッセイ
文化人とはいったい何なのだろう。藝術に対する造詣が深いこと、歴史や哲学に関する膨大な知識を持つ人こと。なんとなくインドアでエリート主義な匂いがする。
勿論、正解などないのだろう。それを前提としてこの文章を書いているわけであるが、僕のような『小説家になろう』に取るに足らない物語を掲載する人間からすれば、最も身近なカテゴリーとして”文学”が挙げられることは、想像に難くないであろう。
現在僕は、森茉莉による『貧乏サヴァラン』を読んでいる。森茉莉は、森鷗外の二人目の妻との娘で偉大な父親と同じ物書きの道を歩んだ女性である。
昭和の時代に生きる一人の女性の感性を、独特なキャラクターで語る味わい深い一冊であるが、今回の主題はそこではない。
昭和の文豪と呼ばれる人の作品を読んだことのある人間にはよく分かるだろうが、現代の文章とのギャップを感じることが多い。価値観とか思想とか、そういうより高尚と捉えられそうなものではなく、単純に言葉に違いがあるのだ。
かっこいいを「いかす」と言っていたり、クーラーを「くうらあ」と言っていたりと、使う言葉の選択肢が異なっているのだ。
僕が文章を書く際には、どうしてもこのような”伝わりづらい”言葉をチョイスしてしまう。難しい語彙、言い回しを使うことでとっつきづらさを産み、それが高尚なものだとカモフラージュしようとする。読解力、語彙力を要する文章を書くことで、その水準に達する人間を筆者が餞別しているわけだ。ターゲティングともいう。
ここまでの文章を読んですでにそう感じている人もいるだろう。すごーく分かりやすくまとめる。つまり、小難しい文章を書くことでカッコつけているわけだ。
だが、単純に文章が分かりにくいだけで文学として評価される筈はない。やはり中身が大事である。その点最近芥川賞を受賞した『コンビニ人間』は痛烈だ。この作品を語れるほどの文章力、表現力はないので中身については触れない。しかしこのエッセイよりも簡易な言葉を用いてより深く現代社会を貫いている。
文化人とは単純に小難しい話が読める、書けるということだけではない。スマホが発売された当時は「スマフォ」と表記されたこともあったように、言葉は中身を伝えるためのツールでしかない。
今日、電車で女子高生を見た。その手には東野圭吾の『クスノキの女神』があった。このご時世に単行本を読んでいたのだ。ルックスに特筆すべき部分はないものの、僕はその姿に強烈なエロスを感じた。抱きたいとかそういう意味ではない。
大衆小説で文学という類ではない。しかし僕は彼女を強烈に文化人だと感じたのだ。
時間を経てあの瞬間を振り返り気づいたことがある。
文化人とは、難しい文章を読めることや映画のうんちくを語れることではない。物事を真っすぐ受けよることだと。それを僕はあの女子高生から学んだ。活字の羅列から一切目を離さなかった彼女は、まごうことなき文化人だ。
僕は家の風呂場で彼女を思い出し、文化人とは他人との比較によって生み出されるものだと考えていた自分を慰めた。顔はおぼろげだが、出たものは濃い。
僕は文化人だ。間違いなく文化人だ。