第一話
何年か越しの投稿でドキドキしております。
どうぞよろしくお願いいたします。
自分が特別なものであると考えたことはあるだろうか。
僕、茅野息吹はどうだろうか。少なくとも自分が一番優れているなんて夢見がちなことを考えたことはないけど、他の人と違った力を持っているとは思う。
例えば、普通の人は風の音が人の話すような声には聞こえないらしいし、木の揺れる音が意味のある音に聞こえることはないらしい。
でも、特別っていうのはいいことばっかりじゃない。人が多いところで話しかけられたことに答えてしまって気味悪がられたり、話し声が四六時中聞こえて眠ることが出来なかったりとこの力のせいで大変なことも多い。
今だってこの力のせいで巻き込まれた事件であり、
「頑張って!あともう少しで人の里に着くはずだからっ!」
「はいっ!」
10歳くらいの小さな男の子の手を引いて山を下りる羽目になっている。しかも全く知りもしない土地で次どうすればいいのかもわからずに!
いったいここがどこで、この子を助けることが本当に正しいことなのかも正直分かっていない。でも、今ここでこの子を助けなければ一生後悔すると自分の心が言っている。なら、できることをやるしかない。
なんでこんなことになっているかをきちんと話しておかなくてはならないだろう。
話すには少し時間をさかのぼらなくてはならない。
始まりは、数少ない友人と別れた帰り道であった。
僕の住む田舎は、少子化の進む現代の煽りを十二分に受け、小・中学校は生徒数が2桁にギリギリ届くほどになっている。中学一年生となった僕には3人の友人がおり、寂しいと感じることはない。母校である小学校の新一年生は同級生がおらず、寂しい思いをしていると元担任から聞いている。数年としないうちに廃校になってしまうのではないかと言われているが、地域の人たちは何としても残したいらしく町おこしの一環としての課外活動が今年も行われるらしい。他の地域で行われている総合の授業がすべてこの課外活動のために使われるほどの力の入れ方なので、同級生との会話は自然と話の流れは活動についてだし、考えている時間も長い。
しかし、自分とて友人との思い出の残る学校は残してほしいが、そのことよりも考えなければならない悩みというのが僕には存在していた。
それが、四六時中聞こえているといっても過言ではない“声”である。
物心ついたころにはすでに聞こえていた草木や風の声。聞こえてくる声はたいしたことない今日の天気のことであったり、どこそこで野生の動物が困っていて人里に降りてきそうというとんでもないものであったりが気まぐれに聞こえてくる。僕以外の人には聞こえないと分かるまではいろいろやらかしてしまったが、今ではうまく付き合いながらなんとかやっていた。
しかし、帰り道に聞こえてきたその声はいつもとは違い擦れるような性能の悪いトランシーバーをはさんだような声だった。
“おねがっ…、息吹……て”
“きみが…、……世界が…”
上手く聞き取れないし、焦燥感を覚えるような声色のように思う。いつもは木や花の声、風の声、雨の声が“紫陽花の道で転んでいた子がいたね”“花がつぶれちゃうね”というように僕の住む小さな村で起こったことを噂するのだ。このような声が聞こえた時、転んだ子を助けて花がそのまま成長できそうならそのままに、もう折れてしまっていたら花瓶に生けて愛でであげる。そうすると、人からだけじゃなく木や花たちからも感謝される。それが嬉しくて、そして叔父からのとある教えをしっかり守れていると自覚出来て安心できた。
いつもの声は、どのような状況であっても穏やかで木漏れ日のような心地なのに、今聞こえる声はそんな心地は一切感じられない。
聞こえてくる声に、どうしようなく不安に駆られる。
でも、どうしようなく切実で、そしていつもは聞こえない方向からの声であることもあり無視するには気になることが多すぎる。もし、この小さな村に何か起きようとしてるなら防ぎたい。不安がないわけではない。だが、自分にしか聞こえない声しか動く理由がない。声のことを話していない友人たちには、頼ることはできなかった。
さらに僕には実の叔父からのどうしようもなく心を縛っているとある教えがあった。
「いいか、本来生きることは罪だ。この罪を償うには人を助けなきゃいけない。…いいか、息吹。他人を見捨てることだけは、絶対に許されない。誰かを救え。それが、お前の罪と力を釣り合わせる、ただ一つの方法だ。」
僕の力を知った叔父は、当時10歳の両親失ったばかりのこどもにそれ言った。
いや、当時10歳の両親失ったばかりのこどもにそれ言うか、この叔父さん。とは、思った。しかし、人を助けるという考えを否定するものではなかったし、必要最低限の衣食住を整えるだけで全く会話すらしない叔父が喋ったこの言葉を忘れることはできなかった。まあ、当時傷心していた甥っ子にこんなことを話すなんてと、13歳になった今でも呆れてしまうけれど。
「罪を償うには人を助けなきゃいけない…だったよね。」
罪というのがなんであるかというのは、考えたくない。
叔父は1年前に死んだ。
まるで猫のように山小屋でひっそりと死んだ叔父は、僕に教えたように小さな村の人たちを愛想が悪いながらに助け続けみんなに惜しまれながら永遠の眠りについた。
本当に保護者としてはどうしようもない人だったが、尊敬できる良い叔父だったと思う。その叔父が残した言葉だ。
気づけは僕の足は声の聞こえた方へ進んでいた。
「こっち、で合ってるかな。」
人が通っていないのか草が生い茂り、道らしい道もない。先にあるはずのため池もビオトープと言っているが以前の大雨でできたため池をそう呼んでいるだけで人は全然寄り付かない場所である。あの声がこっちから聞こえてきたということは、“困った状況”というのはその周辺で起きている可能性が高い。
その相手が人間か、動植物かは行ってみないとわからないけど。
草木をかき分けて、少しぬかるんだ地面に足を取られないように慎重に進んでいく。普段から多少険しい道も歩くため体力には自信があったが、疲れからなのか心臓が激しく鼓動し始める。胸を左手で抑えながら木を支えに足を止めることはしなかった。
なぜだか進まなければとせかす気持ちがあったからだ。
ぬかるんでいる道なのだからしっかりと地面を踏みしめて歩かなければと思うのに、なぜか足が早まる。気づけば息が乱れるほどに疾走していた。
早く、はやく、はやく。
足が滑って膝をついて制服が汚れてしまうが気にせず起き上がり光が差し込みだした道の先へ急ぐ。
生い茂る枝を手でどかしてようやく足を止めた。
「…ここ、こんなにきれいなところ、だった、のか。」
息が切れて声を出すのも苦しかったけれど、そう声を出さずにはいられなかった。人が踏み入れないからなのか、神々しさすら感じるのだ。
“おねがっ…、息吹……て”
「あ、また、」
声が聞こえた。お願いと聞いてとれるが、具体的に何をしてほしいというのはないし、何に困っているのかもわからない。それに今気づいたのだか、普段は呼ばれるはずのない名前が今回に限って呼ばれている。
“おねがっ…、息吹……て”
また、同じように聞こえた。
声のした方を見ると、どうやらその声は祠から聞こえてくるようだった。祠は苔が生えていて扉の部分には蔦が絡みついていた。祠を観察している間にも声は聞こえ続けている。なんだか祠に近づくごとに声が鮮明になっている気がする。
膝をつき祠を壊さないように慎重に蔦を外し、扉を開ける。
「え…、草の、冠?」
そこにはまるで今作ったような青々とした葉とシロツメクサのような野花を使ったきれいな冠があった。でもおかしい。だって、今僕は自然に絡まっていたはずの蔦をとって扉を開けたのにどうしてこんなに真新しいものが置いているのだろうか。
草の冠に疑問を持ちながら祠の中をもう一度観察する。
そこには、拝むような姿勢の御神体と御神体の身体で隠れているが何かが書かれているお札が入っていた。
「ん-、神と契…?もう一文字がみえないな…。」
お札や御神体も気になるが、やっぱりそれよりも気になるのはこのおかしな草の冠だ。祠の様子には合わない神々しさすら感じられる。
それに、
“おねがっ…、息吹……て”
やはり、声はこの草の冠から聞こえてくる。帰り道から聞こえてきた声よりは鮮明になってきているが、それでもこんなに近くに来てもいつものようには聞こえてこない。
「触るのは怖い…。けど」
誰に言うでもなく呟く。
僕の力はわからないことも多いが、どうやら草木や花であればそれらに触ればもっと鮮明に考えていることがわかったりするのだ。全く嬉しくない能力だが、ここまできて尻尾を巻いて逃げるみたいなのもなんだがやるせない。
よし、と覚悟を決める。
お供え物とったな的な感じで祟られませんようにと現実逃避気味に考えながら、ゆっくりと両手を伸ばす。誰に咎められることもないはずなのに、なんだか壁を挟んだ隣の部屋に親がいるのに、深夜に友人と電話をしているようなちょっとの背徳感がある。悪いことであると思うのにやめられないあの感じ。
どんどんと聞こえてくる声が鮮明になってくる。
いつもより切迫詰まったような、困っている声が聞こえる。
ああ、なんで自分がこんなにも必死になってここにきてこんな不気味な物を触ろうとしているのかなんとなくわかった気がする。
“おねがっ…、息吹…来て”
いつも聞こえる声は、誰かに助けて欲しいと思いながらその誰かは誰でもよかったのだと思う。圧倒的な他力本願な考えがたまたま垂れ流しになっていて、たまたまそれを僕が聞いていただけ。本当に僕に助けて欲しいなんて思っている声なんてなかったのだ。
だけど、今回の声は違った。
僕の名前を呼んで僕を求めてくれている。その声にどうしようもなく答えたくなったのはきっと、僕がどうしようもない大馬鹿だったからだろう。
草の冠に触れたとき、じんわりと温かさを感じたような気がした。
そして、声は今までにないほど鮮明になる。
“お願い、息吹!帰って来て!”
え、帰ってきて?
次に瞬きしたときには祠どころか傍にあったため池すらなくなっていた。
そして手の中にあったはずの草の冠もなくなり、周辺で生い茂っていた草木は少し背が低くなり萌黄色の若々しさを感じた。
「え、…ここは、いったい…。」
なにかが起こってしまうような感覚はあった。自分を変えてしまうような天変地異的な難にかが起こってしまうようなそんな予感が。でも、こんな、こんなどことも知れない場所に放り出されてしまうなんて思いもしなかった。
焦った気持ちが足を動かし、やってきたときのように草をかき分けて僕の通学路であったはずの道に進む。この時の僕はあれだけ焦がれていた声の主のことなんてすっかり忘れていたのである。
走れど進めど、見たことのある気のする川に出ても土地の形を見ても、どう考えてもおかしいのだ。コンクリート造りの家は一つもなく、最近できた若者移住者向けにと作られた真新しいアパートも、子供が少なくなり錆びだらけの遊具のある公園もない。あるのは、木製の粗末な民家に他の民家とは異なる昔の地主が住んでいるような大きな塀に覆われたお屋敷だ。あとは、田んぼや畑、空き地が広がるばかりである。
不安が膨らみ過ぎて、いるはずもない友人たちの名前を呼ぼうとして、そして、絶望した。
なんで。
どうして。
…なんで。
友人の名前が思い出せない。え、あれ…。顔もうまく思い出せない。いたという事実は覚えている。でも、その事実以外が僕の頭には何も残っていなかった。
「なんで、いったいどうして…」
混乱する頭を落ち着かせるように粗くなった息を落ち着かせる。でも、混乱は大きくなるばかりでうまく体が動かせなくなり小川の傍に腰を下ろす。
これから僕はどうなってしまうのだろうか。
「そういえば、声の主あの場所にはいなかったな…。」
腕を支えにして空を見上げるとぽつりと呟いた。
いったん腰を落ち着けると忘れていたことを思い出す。僕の名前を呼んで、「帰ってきて」と求めてきたあの声はいったい何だったのだろう。何か変なものに目をつけられてしまったのだろうか。こんな、こんな力があったから変な目に合っているのかな。
嫌味なくらいに青い空が目に染みる。
なんだか疲れたなと思った瞬間、聞こえてしまったのである。
川の上流から流れてきた風の音は慌てたような声色で助けを求めているようであったのだ。
“里の子供が捕まってしまう”
“これ以上被害を出しては戦争になってしまう”
“草木の枯れて水も枯れて、闇の時代が来てしまう”
その声がなんとまあ物騒なことも言っていたし、そしてこの声が聞こえるのは自分だけだと嫌なほど知っている。
「罪を償うには人を助けなきゃいけない…だったよね。」
友人のことは思い出せない。他にも忘れているのではと思いつく限り周囲の人を思い出そうとしているが、友人や先輩に後輩、隣人の顔が全く思い出せなかった。けれど、両親や叔父、そして呪いのような叔父の言葉はすんなりと思い出すことが出来た。
また、確かめるように口の中で転がした言葉が空っぽな心にじんわりと広がっていく。
身体を起こすと声の流れてきた方に向かって歩き出す。そして、山を登って少し経った頃、草や花の声が次々と聞こえてくる。
“里の子供が捕まってしまった”
“戦だ!戦だ!”
“風が来る!僕らはお終いだ!世界はお終いだ!”
ああ、もうすごく物騒!行くの怖いんだけど!
ちょっとの自暴自棄とこんなにたくさんの声が一気に聞こえたことがなかったので、いったい何が起こってしまうのかという好奇心、そして叔父からの呪いのような言葉が僕の足を前に動かす。
でも、もう行くしかない。
“あそこだ、あそこだ”
“里の子だ。風の子だ”
“人がさらった。里の子がまた捕まった”
声が聞こえて足音が出ないよう慎重に体を隠しながら声の示す方に近づいていく。
声を出さないようにゆっくりゆっくりと進み、陰から見つからないように顔を覗かせる。
そしてそこで見つけたのが檻に入れられた、10歳くらいの白髪の髪を緩く結んで傷だらけの小さな男の子だったのである。
警備が雑で、13歳の自分でも助けられた。まさか、十数人も警備で周りにいたのに少し待てば、5人ほどは居眠りをはじめ、石を投げればなぜかわらわらとみんなで移動し、警備が一人もいなくなるとは思わなかった。まさにザル警備。
しかし、そのあと音を立ててしまい追いかけまわされているのだから、泣きそうである。
少年も息が大きく乱れはじめ、足が上がらなくなってきている。もともと捕まっていてたいして休めてもいなかったのだろう。僕自身、今日は大した休む暇もなく動き続けており疲れが溜まってきているし、体力は限界だ。かといって僕にも少年にも武装している大人に勝てるほどの力も残っているとも思えない。
後ろからは怒号とともに複数人の足音が忙しなく聞こえてくる。
それならば、助けるために行えることは一つしかない。自分の命を懸けるなんて本当の本当に嫌だけど、このまま捕まっても殺される可能性の方が高い。
ああ、もうなんで殺されるとか冷静に考えてるんだ。
もっと、何も考えられず、茫然自失になってしまったってきっと誰からも責められないだろうに、なんでこんな知らない場所で人助けなんてして殺されるような思いをしているのだろうか。
“里の子だ。風の子だ”
“よかった、よかった”
“こっちこっち、こっちにとんで!”
「はあ!?飛んで!?」
「お、おにい、さん。どう、どうしたの?」
「な、なんでもない!ちょっとおかしくなってたかも!」
少年がかわいい顔いっぱいに困惑の表情を浮かべている。
少年よ、僕も困っている。もう今日は絶対厄日だ。
怒号の距離は近づいてくる。この間にも“こっちこっち”と声が急かしてくる。だが、こっちと声が流れていくのはどう考えてもここから落ちたら怪我だけでは済まないかもしれない高さの崖である。これはもはや死に方を選べと言われているようにすら感じてしまう。
「少年!僕に命預けられる!?」
「え!?命ですか!?」
「うん!!もうね、これしか方法が思いつかないんだ!人の里に着く前にこのままじゃ捕まって僕はきっと殺されるし、君はまた捕まって世界平和はさようならかもしれないんだ!もう自分でも何言ってるかわかんないんだけどさ!ごめんね!」
「……はい!わかりました!いや、よくわかりませんが、おにいさんに命預けます!」
何やだこの子、しっかりしすぎでは?
でも、分かってもらったのならやることは一つだ。
僕は、引いていた手をグイっとさらに引き寄せ少年を抱きすくめる。この時少年の慌てたような声を聴いた気がしたが何も聞こえなかったことにした。そして、すぐそばから聞こえてきた怒号や足音に一瞬視線を向けるが、すぐに崖の下を見てためらわず一歩を踏み出した。この間にも「え、あ、ちょっと、おにいさん?」と少年の声を聞こえた気がしたが無視である。
「ケセラセラ!なるようになるっ!」
そして、僕は自由落下に身をゆだね少年の頭だけは何とか守るためにぎゅっと抱きしめた。潔く崖から落ちたはいいが僕は情けなくも地面にたたきつけられる前に気を失ってしまう。だが、気を失う前に確かに感じた体を包むような風を感じた気がしたのだが、気を失ってしまった情けない僕には当然確認する術がなかったのである。
草の揺れが肌をくすぐり、僕はゆっくりと目を覚ました。
どこかしらの骨が折れるどころか、死んでしまうことも想像したのに茂みがクッションになったのか今自覚できる大きな怪我はないようだった。
「あ、男の子は…。よかった、気絶しているけど無事みたいだ。」
男の子は僕の服をぎゅっと握ったまま気を失っている。というか、この子ちゃんと見てなかったがハチャメチャに顔がいい。これは、どこかに売られるために誘拐されてしまったのだろうな。
「おい!そっちにいたか!」
「いやあっちにはいなかった。もっと下流に行ったんじゃないか⁉」
聞こえてきた怒号にハッとする。
下手に音を立ててればきっと気づかれてしまう。茂みが大きく音をたてないようにゆっくりゆっくり少年を茂みの下に隠す。そのまま隠れていたいが、質の悪い荒くれたちはない知恵を絞ったのか持っている槍や刀を使って茂みを切り中を探り始めている。
警戒されている今では、先ほどのように子供騙しでは切り抜けられないだろう。全く、いったいどうしたものか。考えている間にも、男たちの足音や話し声はどんどんと近づいてくる。少年はまだ気を失っているし、今から逃げたとしても逃げ切れるとは思えない。
さっきのように追いかけっこが始まり、今度は捕まってしまうだろう。
「お、にい…さん」
制服の裾を寝ているはずの少年がきゅっと掴む。起きたのかと視線を動かすが、少年はいまだ気を失ったまま意識が戻る様子はない。
音を出さず、溜まった緊張を吐き出すように口を開けずに息を出す。刀が草を薙ぐ。眼をぎゅっとつむり、ゆっくりと開ける。槍が木の上、茂みの中、木の大きなウロの中を探る。動物が逃げる。怯えた鳴き声を出しながら遠くへ行く。
冷たくなった手を握りこみまた広げる。少年が制服を握り閉じている拳を起きないように指を丁寧に一本一本ほどいていく。そして、ほどき終われば、少年のまろい額を撫でる。名前ぐらい聞いておけばよかった。僕を信頼して意識を失っても頼ろうとしてくれているこの子ともっと仲良くなりたかった。近くに落ちている枝を手に取る。
おじさん、僕に力を貸してください。無愛想なくせに、山で迷子になった子供を助けるために家を飛び出しちゃう馬鹿でまぬけな人助けしかしない僕の叔父さん。
まあ、その子供が誰だったかも思い出せないだけどね。
1,2,3で茂みから抜け出す。
後ろからは男たちの声が聞こえる。全員が付いてきているかは確認することが出来ない。その部分は賭けになるが僕にできる最大はこれしかない。
少年を茂みに隠したまま、できる限り追手を自分の方に引き寄せる。少年が起きた際に、枝で作った矢印の方向に逃げてくれることを願うしかない。でもきっと大丈夫。あの子はとっさに命を預けるなんて大きな決断をやってのけた賢い男の子だ。
きっと、僕の杜撰な作戦に気づいてくれるだろう。なら僕にできることはない体力を振り絞り、重たい足を動かすことだけである。
それにただ捕まってしまうつもりなんて毛頭ない!
“こっちだよ、そこに蔦がたーくさん”
木の枝に引っかかっていた蔦をよけて逃げると、後ろにいた二人の男が絡まって足を止める。
“そこだよ、ここには動物たちの嫌いな沼が出来てるんだ”
ぐっと肺に息をつめてその沼をぴょんと跳んでよけると、後ろで足を取られ苛立った声が聞こえる。
なんだかいつもより良く声が聞こえる。声の教えてくれる情報もいつもより詳しくてわかりやすい。この森が何か特別なのか、それともあの草の冠が原因なのか。
そんな風によそ事を考えていたせいだろうか。
横から急に現れた追手に気づくことなく、手に持っていた棍棒で頭を殴られる。その時の衝撃は、もう死んでしまったと思うほどのモノだった。血がぬらりとこめかみを伝っていく。そこを手で押さえると、殴ってきた男をにらみつける。
「お、おまえ!あの餓鬼をどこにやった!あの餓鬼はなぁ!もう買い手が付いていたんだ。それなのに、お前のせいで計画が台無しだっ。」
眼が充血している。棍棒を持つ手が震えている。ガン。棍棒を横に薙ぎ払い、僕の身体は木の幹にぶつかる。肺から空気が漏れる。変な音が喉からなった。ゴン。腕から変な音がした。なぜが痛いというより先に熱いと感じた。打たれたはずなのに真横に切り傷が出来て制服が赤く染まる。ゴン。今度は足。走り通しで棒のようになった足では感覚が薄いが、また熱さが広がっていく。こめかみを伝った血が目の方にも流れてくる。血が入って目が開けられなくなる。ガシリ。ギュッ。切りに行くのも面倒で伸ばしていたこげ茶の髪は乱暴に掴まれて何本か毛が抜ける。そしてそのまま、身体ごと引っ張られ宙ぶらりんになる。熱さが痛みに代わってきた。ジンジンと痛みが広がっていく。
ああ、もう駄目かもな。
「少年…、助かっていれば、いいけど。」
また、木の幹に体をぶつけようと、髪が強引に引っ張られる。そして、その衝撃を受ける前に痛みの許容量を超えたのか意識が薄れていった。よかった、あんまり痛いのが長いと泣きわめく情けない姿を見せてしまいそうだったから。そんなの、この男に見せるのなんて御免だ。死んでも御免だ。死にそうだけど。
こういう時は走馬灯ぐらい見せてほしいものである。てっきり死んで会えなくなった両親の顔が見れると思ったのに。あーあ。
ガン。
「吽矢、その少年は丁重に扱え。竹丸の恩人だ。」
「はい、阿門兄上。…、ひどい傷だ。竹に見せる前に癒してやらねば、気をもんでしまいますね。学園の保険医に見せましょう。」
阿門と呼ばれた美しい白髪を束ねた紺碧の瞳の青年は持っていた錫杖の血をふき取りと地面に突き立て、阿門にそっくりな青年の吽矢が抱える息吹の顔を覗き込む。抱えたことで血が髪の方にも流れ、顔に張り付く。阿門は、傷に触らないように張り付いた髪を耳にかけてやる。
「では、行くか。」
「はい、阿門兄上。」
「同族を護ったものを、我ら天狗は見捨てない。」
ばさりと音が鳴る。すると、兄弟と思われる二人の青年の背に大きな翼が広がる。そして、ひょいと軽くとぶとそのまま重力に逆らい空に舞い上がる。息吹に負担がかからないように動く様から、息吹への敬意が見て取れる。
そしてその場に残ったのは、頸動脈を着られ血濡れになった男の亡骸だけだった。
「知らない天井だ。」
まさか、このセリフを本当にいうことになるとは思わなかった。ほんのりと優しい草の香りのする布団に寝かされていた。絶対に死んだと思っていたし、骨も折れたと思っていたが広い範囲で包帯がまかれているだけで、意識を失う前に感じた痛みは感じられない。
これはいったいどういうことだろう。混乱する頭を落ち着かせようとしたが、この混乱する状態にさらに混乱することが舞い込んできた。
「……え?」
「まあ、起きたのね!よかったわぁ!」
美しい顔の女の人だ。艶やかな黒い髪は簪でまとめられ、紫紺の瞳はうるんでいて色っぽい。僕が起きたことを喜んでいるのか、持っていた水の入った桶を置いて手を合わせ嬉しそうに布団の傍によって来る。それだけなら、まだここまで混乱することはなかっただろう。
その女の人の下半身が蜘蛛の胴体のようで、足が蜘蛛のように8本なければだけど。
「え…、ええええええぇ!?」
厄日だと感じたこの日は僕にとって忘れられない特別な日になった。そして、少年を助けることでやってきたこの場所で、僕はどうしようもなく代えがたい“特別”を得ることになる。だけど、そんなことを知るはずもない僕はまともな言葉をしゃべることが出来ず、目の前の女性を困らせることしかできなかった。
さあさあ、これは僕の物語。
そのはじまりもはじまりである。
茅野息吹
茶髪のポニーテールに深緑の瞳の優しい少年。風に乗って流れてくる声に日常的に悩まされながら放っておくことのできない。叔父の言葉を呪いっと言っているが、大事な精神の支えとしている。
同級生の三人とは気の置けにない仲であるが、過去のこともあり声のことは言えずにいる。
元の世界のことについては、友人や親しくしてた担任や隣人について思い出せない状況である。