Chapter 6
今からちょうど一年前、この町で日本中を震撼させる大きな事件が起きた。絵に描いたような幸せな家族が、突如家に乱入した殺人鬼によって皆殺しにされたのだ。
他に類を見ないあまりにも凄惨でおぞましいこの事件は、そのショッキングな内容からマスコミたちが一斉に食いつき、連日連夜ニュースで取り上げられた。
事件があった当初、突如謎の失踪を遂げたクラスの担任である日下部信一が重要参考人として疑われていた。警察は、捜査官を総動員し威信をかけて日下部の行方を追っていた。が、結局彼の消息を掴む事はできず捜査は難航。国民の興味も、時が経つにつれ少しずつ薄れていき、やがてこの事件は風化していった。
そして今、少年はその一家惨殺事件が起きた家の前に佇んでいる。
目の前に聳えるその外観を眺めながら、少年は一人なるほどと頷いた。
外はまだ明るいと言うのに、家の周囲はまるで暗いもやがかかっているかのように薄暗い。家全体には、なんの植物か分からない蔓が複雑に巻きついており、一層不気味さをかもし出している。さすが噂にたぐわない立派な幽霊屋敷だと、少年は納得した。
「まさか、あなたがこんな場所に私を連れてくるなんてね……」
腕を組みながら、隣にいる内田が言った。
「前に言っていたじゃないか。一家惨殺事件の現場観光がしたいって」
少年の言葉に、内田は複雑な表情を見せた。
「確かに言った記憶はあるけど……。せっかくの日曜日に、若い男女が来る場所じゃ無いわよね……」
内田のイマイチな反応に、少年は首をかしげる。
普段から、三度の飯よりも心霊スポットが大好きだと豪語している内田。彼女は、こう言った場所に目が無いはずだ。だが、今日の彼女は心無しかガッカリしているように見える。一体、何が気に入らなかったのだろうか。やはり、女心って言うのは難しいものだ。
「まぁいいわ。せっかく来たんだし、楽しまなくちゃね」
そう言って正面の門を身軽に乗り越えた内田は、そのままの勢いで玄関のドアノブをガチャガチャと回し始めた。だが、最初から予想していた通り、扉には鍵がかかっていて開かない。正面突破を諦めた内田は、そのまま一人で裏庭の方へさっさと歩いて行く。
いくら人が住んでいない廃屋とは言え、これは立派な不法侵入である。少年は辺りを注意深く見回すと、無謀な進軍を続ける内田の後を追いかけた。
手入れのされていない裏庭には、ふとももまで埋まるほどの草が生い茂っていた。まるで侵入者を絡め取ろうと巻きついてくる草を踏み潰しながら、内田は縁側を指差した。
「あそこから中に入れそうね」
縁側には土足で踏み荒らされた足跡があった。その目の前には、ガラスが割れ朽ちた引き戸がある。恐らく好奇心旺盛な先人達がここから侵入したのだろう。少年もそれに習う事にした。
家の中は、完全に締め切って光を遮断しているせいか、まだ昼だと言うのにやけに薄暗い。廊下には、割れた窓から入り込んだ枯葉や先人達が残したゴミが散乱している。
ねっとりとした湿気った空気の漂う廊下をゆっくりと進んでいくと、目の前に先程入れなかった正面玄関が見えてきた。そのすぐ側には、上へと続く階段が見える。
「ねぇ、あそこを見て」
内田の指差す方を見ると、玄関の入り口に大きく広がった黒ずんだシミがあるのが見えた。話によれば、被害者の一人である母親はここで頭を金属バットでかち割られて殺されたらしい。恐らくあの黒いシミは、被害者の母親が撒き散らした脳髄の跡なのだろう。
その黒ずんだシミは、まるで犯人の行動を示すかのように二階へと続いている。その道しるべに従い、少年は上へと続いた。
階段に足をかけると、キィキィと女の悲鳴のような音が足元から聞こえてきた。
軋む階段を登るたびに、まるで上から押さえつけようとするかのような重苦しい空気が、進行を阻むように纏わりついてくる。
その時、階段の中央辺りで少年の足がピタリと止まった。
「どうかした?」
少年の背中に向かって内田が話しかける。
「君には、この声が聞こえないのかい?」
少年は耳を澄まし、微かに聞こえるその声に聞き入った。それは何かの歌だった。
どこかで聞いた事があるようなメロディ。確かこれは、誕生日を祝う時に歌うあの歌だ。だが、どうやらその歌は僕だけに聞こえているようだ。何も聞こえていない内田は、不思議そうに首をかしげてる。
二階に辿り着くと、血のりの跡は一番奥の部屋へと続いていた。そして、先程から聞こえてくるあの歌もその部屋から聞こえていた。
「凄いわね。霊感の無い私にもビンビン伝わってくるわ。この先がヤバイって」
緊張した顔で目の前の部屋を指差しながら、内田が言った。
少年は無言で頷くとドアノブに手をかけた。そして、ゆっくりと回し扉を開いていく。
扉を開けると、少年の耳にあの歌が先程よりも鮮明に聞こえてきた。だが、聞こえていない内田は、躊躇せずにそのまま部屋の中へと入り込む。そして、驚きの声をあげた。
「なんなの、これは……」
一言で言えば黒、いや、赤褐色と言った方が表現としては正しいのか。
壁、床、窓、天井に至るまで、部屋一面が赤褐色で覆われていた。
「ねぇ、もしかしてこれって……」
「血の跡だね」
部屋を人間に例えるなら、それはかさぶたのようだった。乾いて凝固した血の塊が、部屋一面を覆いつくしていたのだ。当時の事件の凄惨さを物語るその部屋の様子に、内田は言葉を失って立ち尽くしていた。
そんな彼女の横で、少年は部屋の片隅に置かれているテーブルを凝視していた。少年の様子に気がついた内田は、強張った表情で同じ方向を見つめる。そして、恐る恐る尋ねてきた。
「ねぇ……もしかして、居るの?」
「ああ。皆さんお揃いだよ」
少年には、テーブルを囲んだ父親と母親、そして若い男の子が座っているのが見えていた。三人は狂ったテープレコーダーのように、あの歌を楽しそうに歌い続けている。
そして、三人は一斉に振り返った。
頭の真ん中が陥没し、眼球が飛び出している母親。
頭蓋が割れ、脳みそをむき出しにして笑う父親。
そして、首から上がほとんど失われ、もはや人間とも判別が難しい、恐らく彼女の弟だった男の子。
三人の視線の先には、一人の少女が居た。そして、彼らは口を揃えて言った。
「お帰り、美穂ちゃん」
だが、その声は彼女には聞こえていない。
「ねぇ、何処に居るのその家族? 例の少女はそこにいるの?」
後ろから尋ねる内田に、少年は静かに首を横に振った。そして、ゆっくりと振り向き、きょとんとしている内田をジッと見つめた。
「なに? 私の顔に何かついている?」
その時、内田の頬を伝い、何かがポタリと床に落ちた。それは、涙だった。内田はいつの間にか泣いていた。
「あれ? おかしいな、私ったらなんで泣いているんだろ?」
そんな内田に、少年はスッと青いハンカチを差し出した。
「これを使いなよ」
ゆっくりと手を伸ばし、内田はハンカチを受け取った。
それは、何処にでも売っているような何の変哲も無いただの青いハンカチだ。だがそれは、彼女にとって特別な意味を持つ品だった。
手に持つハンカチを見つめたまま、内田はその場に立ち尽くしている。彼女の体は小刻みに震えていた。
「私……これをどこかで……」
その時、突然の頭痛が内田を襲った。内田は頭を抑え、その場に蹲る。
そんな内田を置き去りにし、少年は静かに部屋を出た。
一人部屋に残された内田は、溢れる涙を抑える事が出来なかった。そして、全てを思い出していた。
彼に言われるがまま、私はこの場所にやってきた。だが、今なら何故彼が私をこの場所へ連れて来たのか、その理由が分かる。あの事件が起きてから、今日でちょうど丸一年。そう、今日は私の十七歳の誕生日だ。これは、彼からの誕生日プレゼントなのだ。
現実を受け入れる事ができなかった私は、結局あれからずっとこの世を彷徨い続けていた。孤独で寂しかった私は、人の多い学校に居座り続け、私の姿を唯一見る事の出来る彼と再会した。私は彼の側に居る事で、孤独から逃れようとしていた。こんな姿になっても、一人ぼっちは嫌だったのだ。だけど違った。私は一人じゃなかった。私を待ってくれている家族がここに居た。みんなは、私が帰ってくるのをずっと待ち続けてくれていたのだ。
「待たせて、ごめんね……」
いくらハンカチで拭いても、涙は留め止めも無く溢れてくる。内田は、泣きながらその場に膝をついた。
楽しげなあの歌が部屋中に木霊する。
優しい家族に囲まれ、内田は今最高の誕生日を迎えていた。
時刻は既に夕方を過ぎており、辺りはすっかりオレンジ色に染まっていた。
家の外に出た少年は、帰り際にブロック塀に埋め込まれていた表札を見た。かすれて読みずらいが、なんとか判別は出来る。表札には「内田」と書かれていた。
少年は家を見上げる。
家を覆っていたあの黒いもやは既に無く、代わりにまるで太陽が彼女達を祝福しているかのように、家は暖かな光に包まれていた。
「誕生日おめでとう、先輩」
少年は、かすかに聞こえてきたあのメロディを口ずさみながら、その場を後にした。
――第五章 プレゼント 完