Chapter 2
マンションに戻ってからも、美穂は少年から借りた青いハンカチを見つめながら、彼の事をずっと考えていた。
結局、今日自分に話しかけてくれたのは、少年だけだった。他のクラスメイトは、まるで腫れ物に触るかのように私に近寄ろうともしない。だけど、彼は違った。一人泣いていた私に、優しく微笑みかけてハンカチも貸してくれた。孤独に打ちのめされていたあの時、私は本当に救われた気がしたのだ。
私ってば、一体どうしたんだろう。名前も覚えてなかったくせに、彼の事を想うと胸がドキドキする……。
惚れやすい性格なのだろうか。弱っている自分に、優しくしてくれた人の事がすぐに気になってしまう。先生の事だってそうだ。あんなに煙たがっていたのに、いつのまにか頼りにしている自分がいる。それに、家族が殺されたと言うのに、こんなに浮かれてていいのだろうか。
優しい両親、可愛いかった弟。確かに、皆の顔を思い出すたびに、すぐにでも泣きたい衝動に駆られるのは本当だ。でも、あの出来事は自分の中ですでに過去の物として扱われ、あの時の悲しみも恐怖も少しずつだが薄らいできているのも事実だ。あの忌まわしい事件からまだ二週間しか経っていないというのに、なんて自分は薄情な人間なのだろうか。
行き場の無い、自己嫌悪にも似たような感情が美穂の中でぐるぐると渦巻く。
自分に恋なんてする権利なんて無いのに。今は、死んだ家族のために喪に伏せてなくてはならない時期なのに。
そう自分に言い聞かせようとするも、美穂は一人で生きて行くにはこの世界は辛すぎる事も知っていた。突然一人ぼっちになってしまった自分の自我を保つためには、誰かが側に居てくれないと駄目なのだ。
美穂は、頭をかきむしりながらバタリと机の上に突っ伏した。
「……駄目な人間だなぁ、私は」
ポツリと呟きながら、美穂はぼんやりと青いハンカチを見つめる。
彼の目には私はどう映ったのだろうか。一体彼は私の事をどう思っているんだろう。明日、どんな顔でこのハンカチを彼に返せばいいんだろう。なんて話しかければいいんだろう。
――ピンポーン。
その時、不意にチャイムの音が鳴り響いた。その音に美穂はビクッと体を振るわせた。
あの事件以来、美穂はチャイムの音を聞くと反射的に身構えてしまうようになっていた。悪夢の始まりを告げた、あのチャイムの音が恐ろしくてたまらないのだ。
――ピンポーン。
再びチャイムの音が鳴り響く。
先生だろうか? それともマスコミの人間?
背中を丸めながら、美穂は玄関まで辿り着くと、恐る恐る覗き穴から外を窺った。そして、扉の向こう側に佇む来訪者の姿を見て自分の目を疑った。
「ひっ!」
表情が窺えないフルフェイスに、黒いレーサースーツ。そこには、あの男がいた。
男は、まるで幽霊のように扉の前で佇んでいる。その手には、家族を皆殺しにしたあの金属バットが握られていた。
何故? 何故あいつがここに? なんでこの場所を知っているの?
予想だにしてなかった突然の来訪者に、美穂はパニックに陥った。
全身から汗が噴出し、美穂の膝がガクガクと揺れる。カタカタと自分の歯が鳴る音が、扉の向こうにまで聞こえるくらい大きく鳴り響いた。
……きっと、心変わりして私を殺しに来たんだわ。
ゴクリと唾を飲み込み、美穂は必死で落ち着きを取り戻そうとゆっくりと深呼吸をした。そして、ポケットから携帯を取り出すと、震える手でアドレス帳を開こうとした。だが、手が震えて上手く操作ができない。
――ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。
その間にも、不気味なチャイムの音が狂ったように部屋に鳴り響く。続けて、ガチャガチャとドアノブが乱暴に回された。
あまりの恐怖に、美穂は失神しそうになった。だが、残り僅かの気力をなんとか振り絞り、やっとの思いで美穂は電話をかけた。そして、相手が電話に出た瞬間に叫んだ。
「た、た、助けて! 殺されるっ!」
「どうした? 何があった?」
電話の向こう側の信一に向かって、美穂は泣きそうな声で今の状況を伝え助けを求めた。
「分かった。今すぐ向かうから!」
「待って! 電話を切らないで!」
「すぐに行くから! 絶対にドアを開けるなよ!」
そう言って、信一は無情にも電話を切ってしまった。
途端に、悪寒と共に耐えられないほどの恐怖が美穂の全身を襲った。
薄れかかっていたあの忌まわしい記憶が鮮明に蘇り、目に見えない恐怖と言う名の悪魔が美穂の心臓を鷲掴みにする。
助けて! 助けて、神様!
美穂は必死に心の中で祈る。だがその時、美穂はある事に気がついた。
そうだ、あまりの恐ろしさに思わず先生に助けを呼んでしまったが、今この場所に先生が来たら、奴に襲われて殺されてしまうのではないのか? もしかして、自分はとんでもない事をしてしまったのでは……。
すぐに美穂は信一に電話をかけた。だが、信一は電話に出ない。
お願い! 早く出て!
その時、カチャリと鍵の外れる音が扉から聞こえた。その音に、思わず美穂は携帯を床に落とした。
ゆっくりとドアノブが捻られ、ギィィィと音を立ててドアが開いていく。目を見開き、美穂はその一部始終を見つめていた。
そして、扉の向こう側から現れたのは……信一だった。
「大丈夫だったか?」
信一の声を聞いた途端、安堵に包まれた美穂は体から力が抜けた。その場に崩れ落ちそうになる美穂を、慌てて信一が抱き止める。
「怖かった……」
泣きながら美穂は信一にしがみつく。
信一は美穂を抱き寄せ、優しく頭を撫でた。
「大丈夫、もう怖くないから……」
その言葉に、美穂は泣きそうになった。
自分には信一しかいない。家族を皆殺しにされ、友達からも見捨てられた自分が頼れる人間は、もう信一しかいないのだ。
とその時、美穂は開かれた扉の先に人影を見つけた。少し離れた突き当たりのエレベーターの前で、一人の男が佇んでいる。それは、今日美穂にハンカチを貸してくれたクラスメイトの少年だった。少年は、微動だにせずこちらをジッと見つめていた。
……何故、こんな所に彼がいるの?
少年はその小脇に何かを抱えていた。美穂は目を凝らして良く見てみた。それは、あの男が被っていたフルフェイスのヘルメットだった。
「ひっ!」
驚いた美穂は思わず信一から飛び退いた。
突然の美穂の行動に、信一は思わず振り向く。だが、すでにそこに少年の姿は無かった。
自分で自分を抱きしめながら、美穂はガタガタと全身を振るわせた。
尋常でない美穂の怯え様に、信一は必死で呼びかけるが彼女には聞こえない。
ま、まさか彼が……?
その時、美穂はあの青いハンカチを握り締めていた事に今更気がついた。ハンカチは、美穂の手汗でしっとりと濡れていた。美穂はそのハンカチをまるで恐ろしいものに触れるかのように、慌てて床に投げ捨てた。