Chapter 1
日曜の早朝、人気の無い雑居ビルの間を通り過ぎ、少年は市内の病院へと向かっていた。
乾いた肌寒い空気が少年の頬を凍てつかせる。少年は身に纏う黒いウィンドコートの前を閉じ、上空を見上げた。空は灰色に濁り、今にも雪が産み落とされそうだ。季節は、秋から冬へと変わろうとしていた。
暫く歩くと、中心街から少し離れた場所に目的地である霧島病院が見えてきた。この市では最大級の面積と収容人数、そして最新設備を誇る大きな病院だ。
病院内に入ると、暖かい空気が少年を出迎えた。見渡すと、早朝にも関わらず結構な数の来院者がいる。受付の前には、既に人の列が出来ていた。
少年は、カウンター奥にいる顔見知りの看護婦に声をかけた。少年に気がついた彼女は、ニコリと微笑むと身振り手振りで手続きをせずに中に入って良いと合図を送ってくれた。一年近く通い続けていると、こう言った特権が生まれる。この病院では、少年はすっかり顔なじみだった。
「よう、王子様。今日も白雪姫の見舞いかい?」
受付の前を少年が通り過ぎようとした時、人懐っこい笑顔で白い歯を見せる若い医師が話しかけてきた。
「おはようございます、岩澤先生」
愛想笑いを浮かべ、少年は軽い会釈をした。
頬の無精髭をボリボリと掻きながら、岩澤はいやらしい笑みを浮かべ少年を見つめている。その笑みの理由を少年は知っているが、あえて彼女の様子を聞いてみることにした。
「今朝の回診の担当は、霧島先生だからな、姫様の事は彼に聞いてみるといい。ちょうど今頃、彼女の病室に居る頃なんじゃないか?」
そう言うと、岩澤は大きなあくびをした。
「悪い悪い、昨日は夜勤だったから眠くて仕方ねぇや。さっさと帰って俺は寝るとするよ。姫さんによろしくな、王子様」
もう一度大きなあくびをし、岩澤は眠たそうに目を擦りながら病院から出て行った。その背中を見送り、少年は彼女の病室へと向う。
エレベーターに乗り、最上階へのボタンを押す。
ゆっくりと動き出したエレベーターの中から、少年は扉の外を眺める。少年の瞳に、各階の様子が上から下へと移り変わって行く。その光景は、まるで過去へと誘うタイムトンネルを移動しているような、そんな不思議な錯覚を覚えさせた。
あれから一年か……。
少年の脳裏に、一年前に起きたあの忌まわしい事件が蘇る。
あの事件で唯一生き残った彼女。だが、彼女はあれからずっとこの病院で眠り続けている。そんな彼女に付けられたあだ名が『白雪姫』だった。
雪のように肌が白く、美しい容姿をしている彼女にぴったりなあだ名だと思う。だが、自分のあだ名が『王子様』と言うのは納得がいかない。僕は王子様なんてガラじゃない。
八階につき、エレベーターから降りた少年は、彼女の病室へと向かった。
あれほど活気のあった一階とはうって変わり、このフロアは驚くほど静かだ。長い廊下を歩いていても、人とすれ違う事はほとんど無い。それもそのはず、このフロアは余命いくばくも無い末期患者が集められている場所で、なんでもこのフロアで今まで生きて退院した者は、この病院が設立されてから一人も居ないらしい。
この階の窓には、全て鉄格子が付いていた。噂では、このフロアに運ばれ絶望した患者の飛び降り自殺が多発したからだと言われているが、本当の理由を少年は知っている。この処置が施されたのは、彼女がこの病院に入院してからだ。
暫く歩くと、廊下の突き当たりにある病室に辿り着いた。開け放れた扉から部屋を覗き込むと、白衣に身を包んだ一人の医師がベッドの傍らに佇んでいるのが見える。この病院の院長である霧島医師だった。
「彼女の容態はどうですか、霧島先生」
微動だにしない霧島の背中に向かって、少年は話しかけた。
霧島は彼女を見据えたまま、力無く首を横に振る。
「彼女の体は、もうだいぶ前から完治しています。顔の傷も、来週の手術が成功すれば綺麗に消えるでしょう。ですが、肝心の意識が戻らない事には……」
白いベッドの上で、死体のように横たわる彼女。少年は、雪のように白い彼女の腕を見つめた。うっすらと見える頚動脈には、まるで十字を切るように横切る一本の傷跡が見える。少年は、その十字架にそっと触れた。体温を感じないほど、彼女の腕はひんやりと冷たい。だが、ほんのわずかだが少年の指先に彼女の鼓動が伝わってくる。彼女は確かに生きていた。
……先輩。あなたは、いつまでここで眠り続けるつもりですか?
少年は無言で少女に語りかける。だが、彼女からは何の返事も無かった。
きっと先輩は、本当の王子様が来るのを待ち続けているのだろう。
「僕は王子なんかじゃない。僕は、彼女に毒のリンゴを食べさせた魔女なんだ……」
ポツリと呟き、少年は病室を後にした。