現実の幻想世界へ
心地よい振動が僕をどこかへ運んでいく。この感覚、僕は電車に乗っているんだと気づく。瞳を閉じてその小気味よいゆりかごに身を任せる。まだ目を開けてはいけない、そんな気がした。あれ、どうして僕は電車に乗っているんだっけ。たしか、図書館にいたはずなのに。そこで、あの子の手を握って、あの絵の中へ……そこから今に繋がる記憶がない。でも、何故か不安も恐怖も感じない。気持ちの良いまどろみに導かれるまま僕は瞼を閉じ電車に運ばれる。しばらく、そんな時間が続いた。
体を揺らしていた振動が止まった。プシューと電車が息を吐くようにしてブレーキをかけていた。どこかへ止まったらしい。そこでやっと僕は目を開けた。どことなく感じていたがやっぱり車両には僕が一人座っているだけだった。またもやプシューと息を吐くような音とともに扉が開く。外の様子を見ると、小さな駅のホームが。寂れてはいないがどこか、古めかしい、そんな印象を受けた。僕は腰を上げ、電車から、一歩、ホームへと足を踏み入れる。刹那、強い風が僕の眼前を撫でるように吹き抜ける。それはこの世界が僕という来客を歓迎してくれたように思えた。プシューという音、そして電車の扉は締まる。一両編成のその電車は僕を置いてまた線路をたどって進んでいった。
僕は不思議と落ち着いていた。この非日常的な空間がむしろ現実よりなじんでいる気がした。駅の看板を見る。しかしそこには駅の名前は書いていなく、ただ真っ白な、無垢な存在に見えた。
こじんまりとした駅の改札へと向かう。しかしよく思えば今の自分は切符もお金も持っていない。ポケットから何まで全身を探るがやはり身一つ、このまま遮りのある改札を通っていいのかとこんな場所でさえ律儀な考えに縛られている。
ふと、改札の先へと意識が働く。そこには、彼女がいた。僕をこの世界へ誘ってくれた、濃い空色のワンピースを着た、彼女が。
彼女は僕が改札に足止めされて戸惑っている様子がおかしいらしく、くすくすと口元を片手で隠しながら笑っていた。僕はなんだか恥ずかしく顔が熱くなるのを感じた。
少女は、何も言わず僕を手招きしている。そこで僕は意を決して、数歩改札から遠ざかって助走距離を確保し、そして走り、地をけり、改札の遮りを飛び越えた。そして彼女の元へ。
「ようこそ、幻想の世界へ!」
それがこの世界での彼女の第一声だった。少女は、とても、とても嬉しそうだった。
「あの、ここは……」
「聞くだけ野暮じゃない? ここはここ。あなたが感じてる世界が今のあなたにとっての現実」
僕の当然の質問は軽くあしらわれてしまったが、確かになんて答えられても今まさに目にしているこの世界は、僕にとってまがうことのない現実だった。深く息を吸ってみる。その呼吸は僕の肺の中の細胞をひんやりと、しかし全身を活性させるように巡っていく。こんな感覚は今まで僕のいた日常ではありえない。五感でわかる、幻想が現実になったのだと。
ふと、また素朴な疑問が思い浮かぶ。彼女は僕がこの世界を本物だと感じている様子に満足げににやけている。そんな彼女についてだ。
「あの、キミは、名前は?」
「あら、それこそ野暮ってものよ?」
彼女はおどけた笑いをしながら僕をたしなめる。
「でも、ほら、キミの事なんてよべばいいのか……なんというか……」
「そうね、不便かもね。じゃあ」
「じゃあ?」
「少女って呼んで。私の事は」
「少女? それだけ?」
「そう、私は少女。これならわかりやすいでしょ?」
少女は自身の事を少女と呼ぶようにと、確かにわかりやすいがなんとも歯がゆい感じがする。少女はその呼び名に違うことがないように凛とした笑いをしながら、可憐に踊るようにステップを踏み僕をこの世界の先へと導くように歩みだす。僕はその後を風に導かれるようについていく。
彼女についていくと広がる周囲の風景は樹木が生い茂る自然豊かな森の中である。僕が下りた駅も森の中にひっそり建っていた。しかしただ自然豊かなだけでなくその時折やや朽ちた煉瓦造りの小屋がみられた。人は住んでいる気配はなかった。なんとなくだが、ここには僕と彼女だけしかいないんじゃないかとも感じていた。少女は嬉しそうに軽快な歩みを続けながらどんどん僕を誘っていく。
「あの、えと、少女さん」
「なにかしら? 少年くん」
「あ、僕は少年くん呼びなんだ」
「そうよ。だってこの世界にはあなたの名前は書かれてないから」
「え? それってどういう意味?」
「そういう意味よ。深く考えなくても大丈夫よ。少年くん?」
彼女はそれは大したことじゃないんだとでもいうように軽く答え、そのまま軽い足取りを続けている。たしかに、僕には親から与えられた名前があるが、今この世界では、それはそんなに重要じゃないんだという思いに落ち着いた。よし、僕は「少年」、彼女は「少女」それだけだ。それだけのことだ。呼び名なんて大したことはないんだろう。
「わかったよ。少女さん。そういえば今どこに向かっているんですか?」
「あら、特にどこへ向かってるわけじゃないわよ」
「へ、そうなの?」
僕は彼女の迷うことのない足取りから、てっきりどこかへ案内してくれてるのかと思ったが、そうではなかったらしい。呆気にとられて気の抜けた顔で歩みを止めてしまった。
「でも、そうね、きっと、どこかに着くわ」
「そりゃあ、そうなのかな」
「少年くんはどんなところに行きたいのかな?」
少女は手を背中の後ろで組み、体を傾げ、艶のある黒髪を垂らし訪ねてきた。僕は少し考えた。頭で考えると、今この直面している現実に不安や疑問が過ってくるが、心臓の鼓動のままに、五感で感じる思いのままに答える。
「どこでも!」
「あら、気が合うわね!」
少女は嬉しそうにまた歩みを進める。僕はそれについていく。
「そうね、たぶんだけど、私はこの嬉しい気持ちを、もっと感じれる場所に行きたいかな」
「と、言うと、どんなところだろ?」
「それはね」
少女は僕を正面から向かい、微笑む。周囲はまだ樹木で囲まれているが、彼女の背には切り開かれ広い土地が広がっているようだった。やや眩しい光が射し込み何があるかはわからなかった。
「この街にあるはずよ」
そこには、白い建築物が連なる街があった。大小さまざまな建物がある中を少女に連れられて街を歩く。やはり人の気配はしない。しかしそんなことより気になるのが街の中央にある巨大な白い塔だ。少女の足取りもそこに向かっているようだった。
「あの白い塔は何なの? 少女さん」
僕は塔のてっぺんを覗こうと見上げるが太陽の光が眩しく、片手で陽射しを避ける。少女は相変わらず含みのある笑顔を浮かべたまま僕を見つめている。
「少年くんは何だと思う?」
「そうだな……わからないけど」
「けど?」
「あそこの屋上からの景色は気持ちよさそうだね」
「ふふっ、そうね」
少女は再び歩みを始める。僕はそれについていく。その謎の白い塔へと向かっていく。