旅立ちは図書館から
これはいつかの僕の物語
僕の心が晴れやかにのびやかになんの束縛もなくいられるのは、この世界ではなかった。いつも頭の中は現実ではない幻想を思って埋めつくされていた。そんなんだから小学校でもどこか浮いた存在に。クラスの人からの評価は内気で何考えているかわからない他人だと。その通りだと思うし、それでいいとも思っていた。僕は本のページをめくりながら、その物語の風景を想像する片隅でぼんやり自虐していた。
──はぁ、憂鬱だ。
僕がため息をついたのは市立図書館の片隅。春休みを利用してここ最近毎日来ていた。春休みが終えれば、僕は中学生になる。大きな希望と不安を抱いて皆中学生になる!とか普通は言いそうだけど、僕にとっては全くポジティブに関心が湧いてこない。理由は一つ、ただ新しいしがらみの中に放り込まれるだけなんだから。そして僕はきっと、そのしがらみの中で可もなく不可もなく、いや不可はありそうな生徒の一人として息をひそめていくんだろうな。
ページをめくる手が止まる。今読んでいるのは僕が憧れる幻想の世界が書かれたファンタジー冒険譚だ。もう何度も読んでいる。でもこの幻想が綴られた文字に触れるたび、そこに生きる人々を想像するたび、僕の心に風が吹く。いや僕の心から風が吹き始め僕を包み、現実ではない幻想の世界に浸らせてくれる。その時感じる感情は、体と密接に繋がっていて、感動すると心臓から熱い血が昂る鼓動と共に流れ出すのを感じる。
あとがきまで読み込んで、僕はその本を本棚へ。腕時計を見るとまだ閉館まで時間があった。夕暮れの光が射し込み書架に並べられた本達は不思議な魅力を放っていた。その風景は現実でも、どこか幻想の世界に通じるものがある気がして、僕の憂鬱な気分を溶かしてくれた。
──なにか本を借りてくかな。
椅子を引き固まっていた姿勢をほぐすように背筋を伸ばし天を仰ぐ。大きく息を吸い、少し肺にとどめてから、吐き出す。そしてどうにもならない願いも漏れ出した。
「あんな世界に生きてみたいな」
僕は浸っていた幻想から現実に戻る。はずだった。
背伸びして背面の書架を見上げた際に、一冊、そう厚みのない文庫本が何故か目に留まった。背表紙にタイトルも、作者の名前も書いてなかった。
僕はその不思議と引き寄せられた本を取ろうとしたが、棚の一番上の段にあって残念ながら僕の身長では届かなかったため、近くにあった踏み台を持ってきて、その何も書かれてない背表紙に手をかけた。一冊、取り出す。
表紙を見た。が、そこにもタイトルも作者の名前もない。あるのは無地の紙。だけど、だからか、僕はこの本にひどく欲した渇きを感じた。表紙を指でなぞると、そこからぞわぞわと物語が溢れ出てくる感覚に浸れた。ページをぺらぺらとめくるとそこにはびっしりと文字が。ざっと見だが会話文は無いように見えた。しかしそこからは色に満ちた風が僕をいざなうように漂ってきた。僕は始めのページから黙読する。そこには現代の日本からはかけ離れた、異国情緒と自然と、不思議にあふれる幻想の世界の情景が書き記されていた。
僕は夢中でこの幻想の世界を覗こうと、一字一句じっくり目で追った。ページをめくる。そのたびに僕の目に映るファンタジーの舞台。登場人物はまだ描かれていない。しかしそこに見えた世界はまさに僕が求めていたファンタジー。ページをめくる手が止まらない。昂る心臓の鼓動も止まらない。止まらない。
「ねぇ」
突然、僕の体の芯にひんやり響く声が届いた。驚いてすぐさま顔をあげ、後ろを振り向く。しかしそこは自分以外誰もいない。
──女の子の声がしたような……気のせいかな?
「ねぇ、こっち」
また同じ声が。声がしたほうへと無意識に足を運んでしまう。その片手には名もなき幻想の本が。声は書架が連なる奥のほうから聞こえた気がした。僕を呼んでいる?
不思議な静けさに包まれた図書館の書架の迷路の突き当りに僕は導かれた。そこで、僕は見つけた。
「これは……この本の世界の絵?」
直感的にそうとしか思えない絵画が一枚、飾ってあった。
ただ、今僕が立ち会っているこの状況が、非日常へとなる瞬間でもあった。その絵は生きていた。現実かのように動いていた。いや、絵ではなく、額縁に切り取られた窓から、この本の世界を覗いているのだと僕の全神経に電撃が走るように告げていた。
心奪われた。僕が憧れている世界が目の前にある。あまりの興奮による手の震えから本を落としてしまう。熱い吐息が漏れる僕。その絵に片手で触れようとする。
「あなたはこの世界が好き?」
唐突に、しかしはっきりと僕の後ろから先ほどの声が語り掛けてくる。振り向くとそこには、濃い空色のワンピースを着た、可憐な少女が微笑んでいた。髪の毛は肩までかからない程度で、身長も僕より少し低いくらい、凛とした顔立ちで、聡明そうにも、無邪気そうにも見えた。一言でいうと僕の恋心を貫くほどの衝撃で、幻想の世界に恋焦がれ熱い鼓動を起こしていた心臓がさらにきゅっとなって顔まで熱くなり、ぞわぞわ全神経が飛び上がってしまった。
僕が赤い顔をして固まっているのを、楽し気にその少女は見ながら、僕と絵画の間へと音もなく移る。そしてまた僕に告げる。
「ねぇ、この世界は好き?」
絵画をバックに少女は問う。その眼はすごく深い色合いをしていて僕の何かを探るように見つめてくる。僕はその瞳の問いに答えなければと、昂る熱と鼓動を抑えて答える。
「好き……です」
何とか振り絞った言葉は情けなく震えていたが、本心だ。
「そう、嬉しい」
少女は絵画の額縁をそっと撫で、その中の世界を愛でるように額を寄せる。
「ねぇ、よかったら、キミも来ない?」
少女が手を差し伸べてきた。動きに合わせてしなり、舞うように見える濃い空色のワンピースが僕に告げていた。この先は非現実だと。そう思いがよぎった瞬間僕はやや戸惑いを覚えた。未知への恐怖が一本、僕の体を動かすまいと締め上げている。
「この先は、きっとみんなにとっては幻想の世界ね。でも、私には本当の世界」
額縁が徐々に大きく広がっていき、扉のように移り変わる。そこに少女は体半分浸かっていく。絵が小石を投げ入れた水面のように揺らめく。
「あなたにとっても、じゃない?」
「……はい」
僕は少女から差し出された手を掴む。そしてその絵の中に。
その時の少女の手は柔らかく、表面はひんやりとしていたが、奥底に熱を感じる、不思議な感覚だった。