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大きな両開きの扉が、ゆるやかな軋みを立てて開かれた。
最初にカッシウスの鼻をかすめたのは、わずかに漂うワインの香り。
冷たい空気の中に混ざり合い、かすかながらもはっきりと感じられる。
彼が一歩踏み入れば、ノーサム家の大広間が視界に広がった。
高いアーチ窓から射し込む淡い日差しに照らされているものの、そこに灯る炉は今は消えており、
広大な空間にはほのかな寒々しさが残る。
暖炉の上に掲げられたノーサム家の紋章――鋭い爪で天秤を掴む鷹――が厳かに影を落とし、
ここに集う者たちを監視しているようだった。
カッシウスは足音を最小限に抑え、磨き上げられた石床を進む。
視線を横切ると、大広間には数名の人物がそれぞれ特有の立ち位置に陣取っていた。
部屋の奥、中央に近い位置で座しているのは、精緻な刺繍が施された重厚な衣をまとった初老の男性。
その瘦せた身体は、その衣の重みをそのまま威厳へ変えているかのようだった。
彼の右手側には、引き締まった体格の若い男がワイングラスを手にゆったりともたれかかっており、
気怠げな姿勢ながら、その鋭い眼差しには油断ならぬ警戒心が見え隠れする。
炉の近くには、繊細なレースのヴェールをまとった女性がいて、
グローブをはめた手でカフスを整える。
鋭い鷹の眼光にも似た視線でカッシウスを追うその様は、まるで獲物を狙う猛禽のようであった。
カッシウスが広間の中央まで進むと、そこにいた者たちは一斉に言葉を切り、彼の姿を見つめる。
期待と厳しさが入り混じった、容赦のない視線の集中だ。
ワイングラスを手にしている若い男が、退屈を紛らわすようにグラスを揺らしながら口を開いた。
どこか軽妙だが、その裏に鋭さを潜ませている。
「おやおや、オーギュスト叔父上。
そんな怖い顔で睨んじゃあ、せっかく到着した“坊や”が息をする前に縮こまってしまいますよ。
椅子のひとつでもすすめてあげるのが礼儀ってもんじゃありませんか?」
そう言うと、彼はカッシウスへと視線を向け、軽くグラスを振って空いている席を示す。
厳かな雰囲気をまとう老人――オーギュストが、冷ややかだが威厳ある口調で応じる。
「マルタン、これは恐れさせるためではない。
カッシウスが“安逸の身”ではないと、まず理解させることが肝要なのだ。」
マルタンは苦笑めいた笑みを浮かべながらグラスをぐるりと回す。
「へえ、まあそれも一理ありますけどね。
それにしても、父上がここにいらっしゃらないのは、ちと寂しいってもんじゃありませんか?
……まあ、“あの体調”じゃ仕方ないでしょうけど。」
オーギュストは眉をひそめ、声を一段と鋭くする。
「いい加減にしろ、マルタン。戯言は要らぬ。
公爵が不在でも、今この場の意味が失われるわけではない。」
カッシウスは言葉を挟むことなく静かに佇んでいたが、
ほんの一瞬だけ、部屋の最奥に置かれた主の椅子へと視線をやる。
そこが空席であることが、ひどく無情に映る。
やがてオーギュストはゆるやかな動作でカッシウスを手招く。
その声は弱々しさを伴いながらも、なお余裕のある響きを保っていた。
「カッシウスよ。きょう、そなたはウィットリンガムの跡取りとして、我らの前に立つ。
だがこれは栄誉というより、義務の重荷を担うということ。
ノーサム家の名は、精密さと粘り強さで築き上げたもの。
そなたは今から、それを受け継ぐのだ。」
レースのヴェールをかぶった女性が、整った所作でカッシウスへと歩み寄る。
その足取りは静かだが、床に響くヒールの音がこの広い空間に吸い込まれ、冷ややかな存在感を示している。
その手には、小さな装飾箱を携えており、細工の精緻さがひと目でわかる逸品だ。
カッシウスの前で立ち止まると、彼女は冷たい眼差しのまま箱の蓋を開いた。
その中にはシルバー製の家紋ブローチ――鷹が天秤を掴む形が形作られている。
磨き上げられた金属の縁が淡い光を反射し、不思議な威圧感を放っていた。
彼女はどこか刺すような口調で、しかし冷静に問う。
「言わずともわかっているはずでしょうけれど、念のため聞いておくわ。
あなた、自分の義務は理解しているのかしら?」
カッシウスは彼女の瞳を正面から受け止め、一切揺るがない声で答える。
「ええ……ジョゼフィーヌ叔母上。」
ジョゼフィーヌの表情からは感情が伺えず、わずかにうなずくと、箱からブローチを取り出した。
「これはただの飾りではないわ。わたくし達一族、そして学院、そしてこの国に向けた宣言のようなもの。
あなたはノーサムの名を背負っているのよ。誇りを持ちなさい。」
彼女はカッシウスの胸元へゆるやかに手を伸ばし、そのブローチを留める。
動きには一切の迷いがなく、そして留め終えると、じっと彼の顔を見据えたまま、言葉を落とす。
「学院に知らせなさいな。ノーサム家の者がやって来た、と。」
カッシウスはわずかに頭を垂れ、表情を乱さないまま受け入れる。
しかし、ブローチの重みが通常以上に感じられるのは否めない。
そのとき、白髪をきっちりと撫でつけた初老の男性が姿を現す。
動作には長年培われた規律が感じられ、控えめな制服の端正さが彼の立場を物語っていた。
彼はカッシウスの隣にゆったりと歩み寄ると、部屋に向かい軽く頭を下げる。
口調は落ち着いており、しかし一目でこの家の首席執事だとわかる気品が漂っている。
「皆様、失礼いたします。ランダルの報告を、いくつかお伝えさせていただきます。」
オーギュストはわずかにうなずく。
すると、マルタンは隣に立っていたメイドから新しいワインを注がせ、興味深そうに執事へ視線をやる。
「フランコ、息子さんが何か興味深いことでも?」
執事――フランコと呼ばれた男は姿勢を正し、その声を一同に響かせる。
「はい。ランダルより、若様カッシウスは学院にてセインツ・スカラー、それからカエルウィスクのベアトリス様と同じクラスになるとの報せがございました。」
ジョゼフィーヌは瞳を光らせ、ほほう、と興味をのぞかせる。
「ほかには?」
フランコはひと呼吸置いてから、カッシウスに一瞥を向けるようにして続ける。
「それと、かつての婚約者であったアディントン家のセルヴィリア嬢も、同じクラスに在籍されるそうです。」
低い声でざわめきが起きる。
そのささやきが広間をかすめたとき、カッシウスの指先がほんのわずかに強張る。
だが、その微妙な変化を捉えたのは、黒い羽飾りの付いた華麗な帽子をかぶった女性だけだった。
彼女はワインを口に含みながら、まるで面白がるような笑みを浮かべ、
あっという間に消えたその感情の揺れを見逃さない。




