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お嬢様には絶対に言わないで  作者: renten
ACT 2
95/176

2-1-2

教室の緊張感が高まるなか、ベアトリスは自分のハープに違和感を覚えていた。弦をはじいてみると、普段のように広がるはずの響きが、どこか鈍くくぐもっている。周囲の騒ぎを耳にしつつも、彼女はハープに身をかがめ、原因を探ろうと指先を走らせた。


ちらりと教師のほうを見るが、そこには楽器の不具合に戸惑う生徒たちが群がっており、彼は一人ひとりに声をかけて回っている。手を貸してもらう余裕などなさそうだった。

ベアトリスは目を伏せ、迷った末に弦のほうへ意識を戻す。自分で対処するしかない——そう決めたそのとき、ハープのサウンドボード(共鳴板)と弦の根元に、細かな木くずのようなものが付着しているのに気づく。


「木の粉……?」


彼女は不思議に思いながらも、それ以上は考え込まず、ハープの弦をほんの少し緩めてから席を立った。足早に教室の隅にある備品の棚へ向かい、柔らかなブラシやクロス、チューニングレンチを手に取る。教師がちらりとこちらを見やるのが視界の端に映ったが、言葉はかけず、ただ興味を抱いている様子だった。


再びハープの前に戻ると、ベアトリスは座り込み、周囲など気にも留めずに弦を少しずつ持ち上げてはサウンドボードを丁寧にブラッシングし始める。ほとんど無意識のうちに集中していたため、いつの間にか教室が静まっていることにも気づかなかった。


「何してるの……?」

「すごく手慣れてるね……」


そんな囁きがあちこちから聞こえるが、ベアトリスは一切耳に入っていない。音を殺すように慎重にブラシを動かし、クロスで拭い、チューニングピンのずれもレンチで微調整していく。その一つ一つの動きは滑らかで、まるで何度も繰り返してきた作業のように的確だった。


遠くから見つめる教師は、じっとベアトリスを見守りながら少し目を細める。否定的な意図ではなく、純粋な探究心に満ちたまなざしだった。


やがて汚れを拭い終わったベアトリスは、弦を元に戻しながらチューニングを始める。しんと静まった教室に、軽やかな弦の音がこだまする。最初はわずかに狂いのある音も、彼女が慎重にペグを回すたびに澄んでいき、柔らかくも豊かな音色へと変わっていく。


最後に弦全体を軽く爪弾くと、ハープが透き通った響きを放った。その音は教室を満たし、まるで暗い雲を吹き払うように空気を浄化していくかのようだった。ベアトリスは小さく息を吐き、ほっと微笑む。


そのまま自然な流れで指先が動き、静かな旋律を奏で始めた。優美な音色が生まれ、聴いている者の心から苛立ちや不安をそっと消し去っていく。まるで魔法のように、教室に安らぎが広がった。


しかし、教師が両手を叩き、穏やかな声で「さあ、皆さん、自分の楽器に戻ってください」と告げると、その“魔法”も一時の休息として解かれ、生徒たちは慌てて各々の作業に戻る。それでも、ベアトリスの演奏に残った余韻を思い返すように、時折こちらを振り向く生徒もいた。


隣ではベルがヴァイオリンを膝に乗せたまま唖然と座っている。「すごかった……」と呟くように言葉を落とす。その目は感嘆の色に満ちていた。


「たいしたことないよ。ちょっと弾いただけ……」

ベアトリスは顔をそむけ、頬をわずかに染める。


「“ちょっと”って……あれは魔法でしょ。」

ベルは納得いかない様子で首を振る。


ベアトリスは恥ずかしそうに笑いながら髪を耳にかけた。「楽器について本を少し読んだだけよ。」彼女はそう説明しつつ、どこか懐かしそうに続けた。「昔、メイドのアンがいろんな楽器を持ってきてくれたの。私が大人しくしてると思ってたみたいで。」その笑い声には、温かな懐かしさが滲んでいた。


ベルは彼女の照れた表情に、心が和むのを感じる。「じゃあ、練習もたくさんしたんだね。」


「そんなにしてないよ……」

ベアトリスは控えめに否定するが、その瞬間、ベルが自分のヴァイオリンを差し出した。


「ねえ……ベアトリス、これも見てくれない?」


ヴァイオリンを手に取ったベアトリスは、光に透かすように角度を変えて観察する。「古いけど、きちんと手入れされてるみたい。いろんな人が使ってきたのかもね。」


ベルは笑顔を返す。「見た目はそこまでよくないけど、なんとなく“この子なら私を助けてくれそう”って思って選んだの。いろんな生徒を支えてきたような気がして。」


その言葉に、ベアトリスの笑みが深まり、ベルに目を向けた。その視線には温かさが宿っている。『外見は控えめだけど、周りを支える静かな強さ……いつかベルもそうなれるかもしれない』と心の中で思いながら、柔らかく安心させるような声で言った。「じゃあ、どこが問題か見てみようか。」


ヴァイオリンを机に置き、弦や駒、ナットなどを丹念に調べたあと、ベアトリスは微妙に眉をひそめた。「うん、ナットの溝に少しばかりホコリや削れが溜まってる。深刻じゃないけど、音には影響あるかも。」


ベルが覗き込むように顔を寄せ、「そんな細かいところまでわかるんだ……」と感心する。


「慣れればちょっとずつわかってくるよ。」

ベアトリスは棚からナットファイルという小さな工具を取り出し、ほんのわずかに弦を緩めると、慎重に溝を削り始める。かすかな金属音がして、ベルは思わず息を呑んだ。


やがて削りカスを柔らかい布で拭い取り、チューニングをやり直す。一本ずつ音の高さを確かめ、微調整を続けたのち、ベアトリスはヴァイオリンをベルに返した。


「これでたぶん大丈夫だと思う。弾いてみて。」


ベルは少し緊張した様子で弦に弓を当て、そっと音を鳴らす。すると先ほどと違い、はっきりと澄んだ音が部屋に広がった。ベルの顔が一気に明るくなり、「全然ちがう!」と声をあげる。


「ね? さっきみたいに違和感が出ないなら、もう少し弾きやすくなると思う。」

ベアトリスは穏やかな笑みを浮かべ、そんなベルの様子にほっとする。


だが、そのとき、そばのほうから小さなざわめきが起きる。見ると、平民の生徒たち数名が教室の隅で群れており、こちらをちらちら気にしながらひそひそ話をしている。そのうちの一人が背中を押されて前に出されかけるものの、恥ずかしそうに目をそらし、結局だれも近づいてこないまま引き下がってしまった。


ベルはその様子を見てから、ベアトリスを振り返る。「ベアトリス……手伝ってあげたら? きっと困ってるんだと思う。」


ベアトリスは小さな声で言う。「でも……もし嫌がられたら……」 彼女の言葉は途中で途切れ、不安な様子がその表情に表れていた。


「そんなことないよ。私だって、助けてもらってすごく嬉しかった。きっとあの子たちも同じだよ。」

ベルはまっすぐな目でベアトリスに伝える。


しばし逡巡したのち、ベアトリスはそっと立ち上がる。スカートのしわを直しながら静かな足取りで平民の生徒たちに近づいた。最初の少女はシンバルを持ち、ストラップがゆるくて困っているらしく、ベアトリスが近くに来ると身をこわばらせた。


「シンバル、持ちにくそうだね。ベルトがゆるいから音が安定しないんじゃないかな。もしよかったら直してみてもいい?」

ベアトリスは優しく声をかけ、許可を得てからストラップを調節する。「これで少し握りやすくなるはず。振動のコントロールがしやすいと思う。」


少女はおずおずとシンバルを鳴らし、以前よりもクリアな響きが出たことに目を丸くしている。「ありがとうございます、ベアトリス様……」


別の少女も恐る恐る近づき、不思議そうな打楽器を抱えて困惑の表情を浮かべていた。「あ、あの……これ、グロッケンシュピール……ですか? 叩くとポンって木を打つみたいな音がして、全然キレイに鳴らないんです……」


ベアトリスはその打楽器をしげしげと眺め、「バー(音板)がずれてるみたい。ずれると正しい音が出なくて、ただの“叩く音”になるから……ちょっと直してみるね。」と器用に板の位置を修正し、ネジを締め直した。「はい、どうぞ。」


少女がマレットで軽く叩くと、透き通るような美しい音が教室に広がり、彼女は途端に破顔する。「ありがとう、ベアトリス様!」


そうして何人かを順番に手伝っているうち、ベルは少し離れたところからその光景を見守る。いつもは控えめに見えるベアトリスだが、楽器の前だと不思議な自信と安定感があるのがわかる。周りの生徒も、その柔らかくも確かな手つきに引き寄せられるかのようだった。


「やっぱり、ベアトリスはすごいのう。」

不意に声がして、ベルは驚いて振り向く。そこにはメイがピーパを抱えながら、いたずらっぽい笑みを浮かべて立っていた。


「あ、メイ……いつのまに……」

ベルはどこか気まずそうに笑う。


メイはその問いには答えず、ピーパを片腕に抱えたまま軽く微笑む。「そなたのヴァイオリンはもう大丈夫なのかえ?」


ベルは軽く肩をすくめ、「うん、だけど私、こういう授業あんまり得意じゃなくて……メイはどうなの?」


「わらわか? もちろん大丈夫なのじゃ。こんなことで挫けるわらわではないわ。」

メイは誇らしげにピーパを抱きしめるようにし、「これは東の大陸の誇りある楽器なのじゃ。簡単には諦められぬわ。」と笑う。


ベルは少し考え込むように目を伏せる。「……でも変だよね。今日は、どの楽器も問題だらけだったみたいだし。」


メイの目が細められ、ベルを越えて窓の外へと移った。三階の窓際にそびえる高い木の枝に、ぼんやりと人影が浮かんでいる。影の中に静かに佇む男――エドワードだ。


メイの視線がエドワードに留まり、口元に薄い笑みが浮かぶ。彼は葉陰に溶け込むように枝に身を預け、静かにこちらを観察していた。


エドワードの目は、ひたすらにベアトリスへと向けられている。「そうじゃの……何が起きたのか、気になるのう。」

ベルに返事をするようにつぶやくメイだが、その答えはすでに心の中で察していた。


葉の隙間から、彼の微かな笑みが見えた。それは静かで計算された表情――まるですべてが彼の思惑通りに進んでいるかのようだった。

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