2-1-1【String of Connection】
音楽室には静かな熱気が漂っていた。高い天井にこだまする生徒たちの小声、そしてそこから差し込むやわらかな日差しが、磨かれた木床と、丁寧に並べられた楽器たちを温かく照らしている。
部屋の中央に立つのは、白髪をきちんと束ねた年配の音楽教師。痩せて背の高い体躯は年齢を感じさせず、姿勢は凛としていて、その動きにはどこか優雅な気配があった。弱々しさはなく、生涯を音楽に捧げてきた者の静かな力強さを湛えている。
「音楽とは、ただの音ではありません。」
教師はゆったりとした口調で話し始める。その声は穏やかでありながら芯があり、聞く者の心を和ませる。「演奏者と楽器が結ぶ“架け橋”なのです。楽器は弾き手の心を映す鏡。感情も、強みも、時には弱みさえも表します。自分と響き合う楽器を選びなさい。そうすれば、きっと今のあなた自身を教えてくれるでしょう。」
生徒たちは顔を見合わせる。うなずいて感心する者もいれば、退屈そうにあくびをこらえる者もいる。
「では、好きな楽器を探してみましょう。」
教師は部屋の中にある数々の楽器を示し、「心が惹かれるもの」を選ぶように促した。
ベアトリスとベルは部屋の中央へ進む。ベルはあまり気乗りしない様子で、ずらりと並んだ楽器に目を走らせている。
「ベルは何を選ぶの?」
ベアトリスが軽い調子で声をかけると、ベルは腕を組んでため息をついた。
「なんでもいいよ。正直、芸術には興味ないし、こんなの覚える時間がもったいない。」
ベアトリスはベルの素直な物言いにも動じず、くすりと笑う。「そうなんだ。じゃあ、バイオリンなんてどう?表現の幅が広いし、きれいな音が出せるよ。」
ベルは顔をしかめる。「バイオリン? あれ、難しそう。上手く弾けるようになるまで何年もかかるんじゃない? 私はフルートとか、もっと簡単そうなのにしようかなって思ってた。管楽器って息さえ合わせればいいんでしょ?」
ベアトリスはわずかに目を輝かせ、「フルートも素敵だけど、呼吸のコントロールがかなりいるの。伸ばす音とか、息の強さを一定に保たなきゃいけないし、意外と大変だよ。」
「あ……確かに、そこまでは考えてなかったな……」
ベルは一瞬たじろぐように瞬きをする。
ベアトリスはバイオリンのほうを見つめながら、少し興奮気味に続ける。「バイオリンは弓の動かし方とか、コーディネーションが大事だね。難しいのは本当だけど、ベルは身体の動きの感覚がいいと思うよ。ずっと完璧な呼吸を保つよりは合ってるかもしれない。……まあ、先生が“好きなのを選べ”って言ってたんだし、あくまで私の感想だけど。」
ベルはちらりと置かれているバイオリンに手を伸ばし、その磨かれた木目を軽くなぞる。少し考え込んだあと、小さく苦笑して言った。「……ベアトリスがそう説明してくれるなら、納得できるかも。これ、なんかしっくりくる気がする。やってみる。……ベアトリスを信じてみるよ。」
その言葉にベアトリスの表情が明るくなる。ベルは控えめなバイオリンを手に取り、そっと抱え込んだ。
そのとき、素早い足取りでメイが姿を現す。腕には琵琶が大事そうに抱えられており、丸みを帯びた胴体ときらめく弦が目を引く。
「見よ! これがピーパなのじゃ!」
メイの声は嬉しそうに弾んでいる。「わらわの故郷ではよく見かけたけれど、触る機会はなかったのじゃ。なんとも美しいのう!」
「ほんとだね。」ベアトリスは微笑を返し、その細工を見やる。「すごく丁寧に作られてるみたい。」
「ベルはどれにしたのじゃ?」
メイが首をかしげながら、ベルのほうをうかがう。
ベルは手にしたバイオリンを示し、「これ。ベアトリスが似合うって言うから。」と、少し照れくさそうに答える。
するとメイの唇が楽しげに上がる。「ほう?それなら、わらわもベルの演奏が楽しみなのじゃ。」
続いてメイはベアトリスのほうを向き、好奇心いっぱいのまなざしを向ける。「ではそなたは何を選んだのじゃ?」
ベアトリスは部屋の隅を指さし、そこにある大きなハープへ歩み寄る。そっと黄金色のフレームに手を触れた。
「これ……ハープだよ。昔から好きで、弾くときはまるで音楽を抱きしめているみたいで……大好きなの。」
その瞳は幸福感に満ちていて、まるで秘密を打ち明けているようだ。
「ふむ、ハープは大きいゆえ、抱きしめるように弾くのは当然なのじゃな。」
メイはくすっと笑い、冗談めかした口調で返す。
ベルも思わず吹き出し、口元に笑みを浮かべた。
やがて、教室のあちこちで各々が楽器を選び終えたのを見て、教師が手を叩いて全員の注意を引く。
「それでは皆さん、まずは楽器の調弦から始めましょう。あなたと楽器の最初の会話です。しっかり耳を澄まし、調和へ導いてあげてください。」
すると教室の中央あたりから手が挙がる。「先生、調弦の仕方がわからないんですけど……」
教師はその生徒に暖かい眼差しを向け、柔らかく微笑んだ。「いい質問ですね。大事なのは、“わからない”を怖がらないことです。調弦とは楽器との対話です。まずは試行錯誤してみてください。あなたが苦闘するからこそ、楽器の声が聞こえてくるのです。」
そう言って、背筋を伸ばしたまま教室全体をゆっくり見渡す。「失敗を恐れる必要はありません。そこから学ぶのです。さあ、始めましょう。」
部屋には静かな集中が広がり、各自が選んだ楽器に向き合い始める。ベルはバイオリンのペグや微調整ネジに苦戦し、指先を滑らせながらも真剣な表情で取り組んでいる。メイはピーパの弦を一つずつ弾いては首をかしげ、ずれた音に戸惑いを見せる。ベアトリスは慣れた手つきでハープのチューニングピンを調整し、次第に澄んだ音色を響かせ始めていた。
しかし、ほどなくして静かなはずの教室が、不調和な音の洪水に見舞われる。あちこちで弦が突然はじけるように切れ、懸命に調整していた管楽器は変な息漏れやかすれ音を出す。風のように柔らかな音色が出るはずのフルートからは、頼りない空気のうねりが聞こえてくるだけ。メイは弦を爪弾いて、そのずれたピッチに気づき、フレットにわずかな狂いがあるのを見つけて難しい顔をする。
次第に学生たちは顔を見合わせ、混乱の色を浮かべてざわめき始める。教師でさえ思わず眉をひそめ、思わぬ事態に一瞬驚きを見せたが、その厳かな姿勢は揺るがず、静かな興味を抱くように教室を見回す。
「興味深い状況ですね……」
教師は低くつぶやき、瞳の奥に奇妙な光を宿していた。




