2-0-0【Prologue】
屋敷は厚い雲に覆われた夜空の下、わずかな月光すら隠されて、黒い影を空に溶かすように立っていた。空気は重々しく静まりかえり、ときおり吹く風が木の葉を揺らしてかすかな音を立てるだけ。屋根の上には、小柄な二つの人影がぎこちなく身を潜め、その背後にはさらに二人の姿があった。
後方に控えるメイド服の年配女性と執事服の女性――オフィーリアとアメリアは、鋭い視線を外壁近くに向けている。そこには複数の怪しげな人間がうろつき、ただの盗人とは違う落ち着きのなさを見せていた。
「奴らは盗みに来たんじゃないわね。」
オフィーリアの声はきっぱりとして冷たい。「お嬢様を傷つけに来ている。月に数回、多いときは毎週……今さら驚きもしないけど。」
「殺っちゃう?」
屋根の上の小柄な人影のひとり、アンが投げやりに問いかける。まるでそれが当然の手段であるかのようだ。
「だめよ、アン。」
アメリアの静かな声がすぐに返す。「追い払うか、無力化するだけで十分。」
「でもさぁ、ベアを狙ってくるなら、いっそ殺ったほうが楽じゃない?」
アンはあからさまに不満げな口調だ。
「そういう者のほとんどは、金貨に釣られたただのチンピラよ。自分が何をさせられているかも分かっていない。」
アメリアは視線を動かさず淡々と言う。
「本当に必要なときだけ殺す。」
オフィーリアが厳かに言葉を挟む。「それは奴らがお嬢様の名前を知っているときだけ。」
「なるほど、大半は誰が住んでるか知らずに来てるわけか。」
もう一人の小柄な影、エドワードが抑えた声で尋ねる。
「その通り。」
オフィーリアは彼に短く答える。「使い捨ての駒みたいなものよ。」
「あたしたちと同じ駒、ってことか。」
アンが乾いた笑いを漏らす。
「違うわ、アン。それにエドワード、あなたも。」
オフィーリアがきっぱりと否定する。「あなたたちは今や“プレイヤー”なの。先を読まなければならない。二手、三手……もっと先まで。」
「はい!」
二人は同時に返事をするが、アンは嬉しそうに目を輝かせ、エドワードは考え込むような表情を見せる。
「じゃあ、誰が先に行く?」
アメリアがちらりと屋根の上の二人を見やりながら言う。
「はーい、あたしが行く!」
アンが手を挙げ、一歩前へ踏み出す。
「隠し武器はなしよ。」
アメリアが注意を促す。
「えー、それじゃあ首を思いっきり殴るのはいいでしょ?」
アンが頬をふくらませる。
「やりすぎないこと。死体が増えると、こっちが後始末に追われるから。」
アメリアの声には微かな微笑さえ感じられる。
「ちぇっ……」
アンは舌打ちし、不満そうに呟く。
オフィーリアはじっとアンを見つめ、小さく息をついてから口を開いた。「骨を折るのは構わないわ。ただし、脚は避けて。走れるようにしておきなさい。」
その言葉に、アンの顔に再び笑みが浮かぶ。「それと、ちゃんと最初に聞き取りなさいよ。」
オフィーリアがさらに念を押す。
「了解!」
アンは嬉々として屋根から飛び降り、闇に紛れて消えていく。
アメリアは口元にわずかな笑みを浮かべつつも、その目は緊張を解かない。対してオフィーリアはエドワードに目を向ける。
「何かあるの、エドワード?」
エドワードは少し考え込むように視線を伏せ、低い声で問う。
「もし奴らがポーンなら、王を狙ったほうが手っ取り早いんじゃ……?」
「正論よ。でもこれは長い勝負。手勢や準備なしに王を狙うのは危険すぎる。」
オフィーリアの口調が僅かに柔らいだ。「急いで突っ込めば、こっちが詰められるわよ。」
エドワードは納得したように頷き、「それでも“プレイヤー”になったなら、俺も自分の駒を持てるのか?」と尋ねた。
アメリアはオフィーリアに不安げな視線を送る。しかし、オフィーリアはその視線を静かに受け止めるだけで、揺るぎない表情のまま、やがて口を開いた。
「構わないわ。ただし、わたしたちの“ルール”を忘れないこと。ポーンは無駄に切り捨てるものじゃない。他の駒との連携がすべてよ。」
彼女は少し間を置いて続けた。「エドワード、あなたがチェスで学んだ通りね。ポーンにも、ビショップにも、ルークにも、ナイトにも、それからクイーンにも——すべてに意味がある。」
その言葉に、エドワードの唇が初めてわずかにほころぶ。彼の視線は下の庭へ向かい、アンが嬉々として侵入者たちと向き合う様子を捉えた。
「……勝てそうな気がします。」
エドワードの声は低く、自信に満ちていた。
アメリアはその言葉に一瞬眉をひそめたが、オフィーリアはただ静かに目を閉じた。その表情からは何も読み取れない。
下からアンの元気な声が響いてきた。「あっ! 両腕いっぺんに折っちゃった! それから目も……ま、いっか!」
再び夜の静けさが戻り、雲はさらに厚みを増して月光を遮った。オフィーリアは静かに目を開け、闇に溶け込む屋敷を見つめながら、囁くように言葉を落とした。
「またひとつ、駒が消えたわね……」
その声は夜風にさらわれ、闇に溶けるようにして消えたが、その重みはこの場の全員の胸に確かに響いていた。




