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お嬢様には絶対に言わないで  作者: renten
ACT 1
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1-32-1【Andante con Moto of Hope】

夕方の柔らかな日差しが学院の敷地を斜めに照らし、長い影が地面を伸ばしていた。多くの生徒が下校したあとの校内は、穏やかな静寂に包まれている。

そんな中、ベアトリスは分かれ道の前に立ち止まった。片方の道はカフェテリアへ、もう一方は屋外フィールドへと続いている。腕に掛けたブレザーがなぜか重く感じられ、どちらへ進むべきか迷いながらも、ベルを探す焦燥が胸を満たしていた。


先ほど、ベルがトイレにいないとわかったベアトリスは急いで教室へ戻った。もしかしたらベルが戻っているかもしれない——そう期待して。だが、そこにいたのは荷支度を整えつつあったメイだけ。彼女は「人混みが嫌いな子だから、静かな場所を探すといいかもしれぬのじゃ」と、どこか示唆的な言葉を残して去っていった。ベアトリスは礼を言い、さらに足早に学院のあちこちを回ったが、ベルの姿はどこにも見当たらない。


学院内がすでに人影まばらとなる中、ベアトリスの焦りは静かな不安へと変わりつつあった。腕の上にかけられたベルのブレザーは、ただの制服ではない。ベルが自分の存在意義をつなぎとめる一端でもある、大切な象徴だ。今朝、ブローチを失ったベルに、これ以上何かを失わせたくない——その思いが、ブレザーを握るベアトリスの手に力をこめさせる。


決意を固めつつ、彼女は近くの道端でたむろしていた数人の生徒に声をかけた。


「失礼いたします。セインツ・スカラーの方をお見かけしませんでしたか?」


振り向いたのは礼儀正しく背筋の伸びた貴族風の少年。彼は一瞬、ベアトリスの胸元にあるブローチに目を留めてから、丁寧な口調で答えてくれた。


「セインツ・スカラーの方ですか? はっきりとは存じませんが、もしかすると生徒会室のある活動棟へ行かれたかもしれません。狩猟大会に申し込むなら、そちらで書類を出す必要があるので。」


ベアトリスはわずかに眉を寄せる。「そうですか……でも、まだ教室には書類が残っていたと思いますし……」


少年は恐縮する様子も見せず、にこやかに頭を下げた。「そうでしたか。でもカエルウィスクからいらした方にお力添えできて光栄です。お探し、頑張ってください。」


彼の友人も軽く会釈をして急ぎ足で去っていく。ベアトリスは礼を言いながら見送るものの、彼らが言うようにベルが生徒会室へ向かう可能性は低い、と心の中で首を振った。そちらをちらりと見やるが、ベルが足を運ぶとは思えない。それでもわずかな可能性を否定しきれず、ため息混じりにまた歩みを進める。


次に出会ったのは、制服に完璧にブローチを付けた貴族の少女だった。ベアトリスが尋ねると、少女は少し目をすがめ、外の中庭を指し示す。


「あの子なら、さっきあっちをうろついてたわね。迷ってるように見えたし、人にぶつかっても気づかないなんて、セインツ・スカラーにあるまじき態度じゃない?」


ベアトリスの穏やかな微笑が一瞬だけ揺らぐ。だが、少女は気づかず続ける。


「それに、あの朝のスピーチ? 馬鹿げた幻想よ。貴族があの理想を本気で受け取るわけがないわ。でも……あえてこの学院でそんなことを口にしたのは、大胆と言うべきかしら。それとも、無謀と言うべきかしら。」


ベアトリスはブレザーを持つ手に力を込めるが、笑みは崩さない。「わざわざ教えてくださって感謝します。」短く礼を述べると、これ以上の言葉を交わすことなく別れを告げる。相手の嫌味はベアトリス個人を攻撃したものではないと理解しつつも、内心は落ち着かない。


曲がり角を抜けると、ベアトリスの視線の先に、ベンチでくつろぐ平民の生徒たちが目に入った。女子のスカートは規定より短く、男子はネクタイを個性的に変え、ブレザーもボタンを外して無造作に羽織っているなど、それぞれが自由なアレンジを加えた制服だった。


一瞬、ベアトリスは足を止めた。貴族に話しかけるのは彼女にとって日常茶飯事で、形式や礼儀作法に慣れている。しかし、このような派手で型破りな雰囲気の集団に近づくのは、彼女にとってほとんど未知の感覚だった。それでも、ベルを探さなければならないという思いが彼女の背中を押し、不安を抑えて前に進ませた。


「すみません、セインツ・スカラーの方を見かけませんでしたか?」


振り向いた少女が明るい表情で答える。「ベルのこと? さっき大階段のあたりで教授を探してたよ。今も一緒かもしれないね。」


別の生徒が楽しげに付け加える。「スピーチ、かっこよかったよな。貴族に一矢報いたって感じでさ。」周囲からも同調する声が上がるが、続く言葉は鋭い。「貴族なんてみんな偉そうにしてるだけじゃん?」


その空気が少し変わったのは、ベアトリスが腕に掛けていたブレザーを動かした瞬間だった。彼女の胸元に光るブローチが見えたとたん、笑い声がぴたりと止む。彼らは互いに気まずそうに視線を交わし、


「わ、悪い、ちょっと用事があるから……」と、足早に去っていく。


ベアトリスはただ見送ることしかできなかった。その熱気が一瞬で冷めるのを感じながら、改めてブレザーを持ち直す。ベルが慕われているのだとわかった一方で、自分の立場が相手を遠ざけてしまったのを実感し、心が痛んだ。


気がつけば、一人きりの静かな小道に出ていた。先ほど耳にした言葉が複雑に胸に渦巻く。ベルへの好意と批判、どちらも正直な声なのだろう。ブレザーに縫い込まれた紋章付近を指でなぞり、これは本当にベルを探し出す手がかりになっているのかと不安がよぎる。


その時だった。


足元の道のど真ん中に、輝く何かが落ちているのが目に入る。ベアトリスは一瞬息を呑み、かがんで拾い上げた。それは見間違えようのない、セインツ・スカラーのブローチ。こんな場所に、これ見よがしに置かれていれば、誰の目にも止まるはずだ。


胸がきゅっと締めつけられる。どうしてベルのブローチがこんなところに? 戸惑いと不安が混じるなか、近くの木の枝が揺れる気配に気づく。


小さな猫が、するりと木から飛び降りて茂みに消えていった。ベアトリスは思わず小さく笑みをこぼす。「あなたがここに運んだの……?」もちろん答えはないが、猫が立ち去ったあとには静寂だけが戻った。


ベアトリスはブローチを握りしめ、決意を新たにする。「ベル、必ずあなたのもとへ返すわ。」


そう静かに誓い、彼女は再び足を踏み出した。ブレザーとブローチ——二つの宝物をしっかり抱えながら、ベルの姿を求めて先へと進む。



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