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「怪我はないな?」
その声は落ち着いていながらも、どこか鋭さを帯びていた。ベルは相手を見つめ返そうとするが、言葉は出ない。さっきまでの混乱と恐怖が、波のように押し寄せ、思考を凍りつかせている。唇がかすかに開いたまま、音にならない息だけが漏れた。中庭は沈黙し、ベルの頭の中だけが嵐のようにかき乱されていた。
執事服の男の背後で、微かな擦れる音が静寂を破る。地面に倒れ込んでいた教授が、今にも崩れ落ちそうな身体を引きずり、闇へと逃れようとしている。その姿を見て、ベルは息を詰まらせる。教授の壊れた輪郭が、草むらの中へと紛れ込むように消えかけていた。
執事服の男は肩越しに軽く視線をやったが、表情は動じない。「逃げるか…ご自由に。」低く呟き、唇の端にわずかな嘲笑が浮かぶ。
ベルは胸が締めつけられるような感覚に襲われる。「な、なにが…今…」
声はかすれ、ほとんど聞き取れない。
男は血に染まった手袋を直しながら、淡々と答える。「あいつはおまえを殺そうとした。それだけのことだ。忘れたか?」声は平坦で、焦りも憂慮もない。「もう何もしないさ。ここで手を出せば、奴らの目的を台無しにする。」
その冷めた物言いが、ベルの胸に鋭く突き刺さる。「『奴ら』って…」
弱々しい声で問い返すが、男の態度は変わらない。先ほどまで殺し合いが行われていたのに、彼にとってはもう済んだ話のようだった。
ベルは冷たい石畳に身を下ろし、膝を抱え込む。何度も何度も、教授の刃、執事服の男の信じがたい蹴り、血まみれの手袋、そして教授を逃がす際の冷徹さが頭を駆け巡る。その中に教授が吐き捨てた言葉が鋭い破片のように残響し、ベルの心を抉り続けた。
男は彼女を気遣う様子もなく、その場を離れる。今度はベンチに刺さっていた矢のような凶器を引き抜き、無表情で観察している。
「もう安全だ。」彼は背を向けたまま、ぶっきらぼうに言う。「驚いただろうが、終わったことだ。」
その言葉は、ベルの心を鎮めるどころか、むしろ内なる嵐を激しくする。呼吸は浅くなり、感情が溺れそうなほど渦巻く。
男は再び身を屈め、別の刃を拾い上げる。その動きは冷静で、指先で刃を回しながら独り言のように漏らした。「安物じゃないな。誰かがずいぶん手間をかけたようだ。」
ベルは震える声で囁く。「私のせい…なんだよね…?」
膝を強く抱え込み、視線を下に向けたまま続ける。「私が邪魔で、殺したかったんだよね…私、ここにいるべきじゃないのかも…」
男はすぐには答えない。地面に散らばった武器や割れた注射器を拾い集める姿は、まるで日常の雑事をこなしているかのようだ。血の跡が手袋にこびりつき、肩を痛めているらしき素振りもあるが、その表情は揺るぎない。
やがて彼は立ち上がり、ベルの方へと振り返る。光がその横顔を際立たせ、冷静で分析的な輪郭を浮かび上がらせる。ベルの内面で嵐が荒れ狂うのとは対照的だった。「言ったろう。」彼は感情を欠いた声で続ける。「もう安全だ。本気で殺したいなら、とっくにやってる。もう一度狙えば、奴ら自身の目的を壊すことになる。」
ベルは瞬きをし、胸を締めつける不安がさらに重くなる。「目的…?」声はかすれ、痛みを伴う。「それがわからないから怖いの。なぜ私を排除したいのか、何も知らない!」
声は高まり、苦痛で震える。「私がここにいていいのかわからないの!」
感情が溢れ、言葉が止まらない。「もしかして、私が間違ってるの?偽物なの?ドロテアが本物で、私は……」
男は膝を曲げ、ベルと同じ高さまで視線を落とす。血に汚れた手袋が膝に触れ、静かに身を乗り出した。「ドロテア…ああ、あの金髪のドリル頭か。」口元に嘲笑を浮かべながら続ける。「いかにも貴族様ご用達って感じの、巻き巻きヘアが自慢の人形だな。見栄えだけは良いが、中身はどうだかね。結局は誰かが作り上げた型に過ぎん。」
男はベルに冷たい視線を送りながら、口調を落として続ける。「おまえは、その型には収まらない。」その声は先ほどより低く、硬い響きを帯びていた。「だからこそ『本物』なんだ。」
ベルは声を震わせ、内なる苦さを吐き出す。「でも彼女は完璧…皆が望む存在で、私は比べ物にならない…大嫌い…」
最後の言葉がこぼれると同時に、ベルは自分でも戸惑う。憎悪なのか絶望なのか、判別もつかないほど心が乱れていた。




