1-28-1【The Scent of Shadow】
ベルは教室を飛び出すと、背後のざわめきが遠ざかり、廊下の静寂が彼女を包んだ。
目指す先には、あの教授がいた。今朝、誰も信じてくれなかった「存在しない教授」。薄闇色のローブを揺らしながら、悠然と大階段の向こうへ消えようとしている。
胸の奥で、見えない圧迫感がひたひたと迫る。呼吸がやけに苦しい。
なぜ、彼を追うの?礼を言うため?説明を求めるため?それとも問いただすため?思考は渦巻き、定まらないまま、足だけが先走るように動いていた。
大階段に差しかかると、彼は優雅な足取りで降りていく。周囲を学生たちが行き交うなか、その背中を見失わないよう、ベルは視線を固定した。心臓が速く打ち、彼が通りがかりの生徒に軽く会釈する様子さえ目に映る。
「先生 !」ベルは高く声を上げた。音は高い天井に反響し、数人の学生が驚いたようにこちらを見る。しかし、ベルは気にしない。あくまで彼の背中を捉え続ける。
「先生 !」再び呼ぶ。その声は喉を引き裂くような必死さを帯びる。
それでも彼は立ち止まらない。振り返りすらしない。
ベルは速足から小走りになり、磨き上げられた床に靴音を響かせる。周囲の学生たちの囁きや好奇の眼差しは意識の端でわずかに痛むが、今はどうでもいい。胸の不安はますます重くなり、呼吸を苦しくする。
なぜ、止まらないの?
廊下は果てしなく続き、曲がり角の先には新たな通路が現れる。やっと追いついたと思えば、また彼は前を行く。まるで空気が彼を運んでいるように、捕まえられない。
一瞬足を緩めたベルは、息を乱しながら辺りを見る。空気が冷たく、甘い花のような匂いが漂ってくる。それは不自然なほど濃厚で、頭をぼんやりさせる。
ここはどこ…?
ベルは首を振り、思考を振り払う。教授は先のアーチ状の扉を抜けようとしている。その匂いがますます強くなり、視界がわずかにゆらめく。
扉を抜けると、そこは打ち捨てられた中庭だった。
荒れ果てた石畳には雑草が絡みつき、乾いた噴水が苔むしている。朽ちたベンチが取り囲むように配置され、長く手入れがされていないことは明らかだ。
遠くには学院の鐘楼が木々の隙間から覗いている。
ベルの胸が軋む。(この場所、知ってる…?)
教授は噴水のそばに立ち、待ち構えているかのようだった。ローブは不動で、風すら感じさせない。
ベルは石畳を踏みしめながら重い足取りで近づく。「先生 …」声はかすれ、息が浅い。「教室から…呼び続けたのに……」視線は中庭をさまよい、混乱と不安が混じり合う。
ここは何処なの…?
再び教授に目を向けると、彼は穏やかな微笑を浮かべている。その微笑は奇妙なほど優しく、それがベルの背筋に冷たい電流を流した。
「来てくれて嬉しいよ。」教授は絹のような滑らかな声で言う。その手が中庭を示すかのように軽く動く。「ここはね、いずれセインツ・スカラーの遺体が見つかる場所なのだよ。」
ベルはその場で凍りついた。
空気が重く甘く、喉を絞めつける。その微笑は変わらず穏やかで、けれど底知れぬ闇を孕んでいる。




