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エドワードは、しばらく彼女を見つめていた。
ベアトリスがさっき、ようやくひとつの壁を越えたことを知っていた。
他人から見れば些細でも、彼女にとっては大きなことだった。
必要だったのは、ほんの小さな後押しだけ。
言葉を探すように黙っていたエドワードは、不意に手を伸ばし、珍しく優しく彼女の髪をくしゃりと撫でた。
「え、ええっ!? な、なにしてんの、エド!」
ベアトリスは頬を赤らめ、慌てて机の上の菓子に手を伸ばし、ひとつ口に放り込む。
食べるのが早すぎて、ぷくっと頬を膨らませるその姿は、拗ねた子供のようだった。
部屋に漂っていたわずかな緊張が、ふっと和らぐ。
王の護衛のひとりがちらりと視線を向けてきて、呆れたように眉を上げた。
それに気づいたエドワードは、すぐさま眉をひそめる。
「……なんだよ、じろじろ見てんじゃねぇ」
「エド、だめだってば!」
ベアトリスは慌てて飲み込み、咳き込みながら小声で叱る。
そして菓子皿を押しやり、わざとらしく真剣な顔を作った。
「ほら、クッキー食べなさい!」
エドワードは気にも留めず、立ったままひょいとひとつつまんで齧った。
ベアトリスは瞬きをして、思い出したように声を上げた。
「あ、そうだ」
ポケットから折り畳まれた紙を取り出す。
エドワードは眉をひそめた。
「なんだ、それ」
「学院から渡されたの……」
ベアトリスは紙を開き、皺を伸ばす。
「今日、校舎の備品を破壊したとかで……一週間の停学処分だって」
エドワードはクッキーを噛みながら、興味なさそうに舌打ちする。
「チッ……ブリジットからも言われたよ」
「チッ、じゃない!」
ベアトリスは紙をパタンと閉じ、睨みつける。
「そんなことばっかしてたら、本当に大ごとになるんだから! 何やらかしたの、エド?」
「ちょっとした誤解だよ。使用人連中と揉めただけだ」
エドワードは肩をすくめて言う。
「気づいたら食堂の壁が壊れてたってだけ」
ベアトリスは目を細める。
「ほんとに?」
「俺がお嬢様に嘘つくわけないだろ」
そう言いながら、もう一枚クッキーを取る。
――事実だった。
ランドルと大立ち回りをやらかし、食堂の壁半分が犠牲になったのだ。
「でもまぁ、大したことじゃねぇ」
エドワードは指についた欠片を払って、得意げに笑う。
「それより気にしないで、いつもどおり俺が付き添えばいいだろ」
「だめよ」
ベアトリスの声が急に冷えた。
「そんなこと続けてたら……オフェリアに頼んで、アンと交代してもらうから」
エドワードの笑みが消える。
しばし黙り込み、無理に歪んだ笑顔を作った。
「……チッ。分かったよ、一週間だけだろ」
またクッキーをつまみながらぼやく。
「それに、アンのほうが俺より最悪だぜ……あいつ、機嫌悪い時なんか特にな」
ベアトリスは紙を手のひらに打ちつけ、考え込む。
「じゃあ……その間は誰がつくのかしら。アメリアでもいいかも」
「アメリア? 俺と大して変わんねぇだろ。わざわざ替えるだけ手間だし、結局あの紙は無視しときゃいいんだ」
エドワードはまた菓子を口に運ぶ。
ベアトリスは肩を震わせ、笑みをこぼした。
「ふふ……エドワード、クロカンブッシュも作れないくせに。お菓子だけなら、もうアメリアの勝ちよ」
エドワードの眉がぴくりと動く。
むっとした顔で、彼女に茶を注ぎ、自分の分は一気に飲み干した。
「はぁ? 菓子作りで俺に勝ったからってなんだよ」
ベアトリスは得意げに頷く。
「そういうこと」
エドワードはまたクッキーに手を伸ばす。
ベアトリスは身を乗り出し、瞳を輝かせる。
「一週間のうちに、アメリアにお菓子を作ってもらうわ。お昼に配れば……」
エドワードはクッキーをもぐもぐと噛み、無表情で返す。
「要するに、見せびらかしたいだけだろ」
「違うわ」
ベアトリスは首を振る。
「アメリアの神様みたいに美味しいお菓子を、みんなに食べさせたいの。そうすれば、また欲しくなった時――私の家に来るしかなくなる」
エドワードは乾いた笑いをもらす。
「ハッ……まさかお嬢様がそんな浅ましいこと考えるなんてな」
「浅ましくなんかないもん。戦略よ。友達を作る一番早い方法」
ベアトリスはぷくっと頬を膨らませる。
エドワードは首を振る。
「お嬢様、人の目を集めたいなら小細工なんかいらねぇ。お嬢様なら、放っといても目立つんだ」
ベアトリスは瞬きをして、ゆっくりとクッキーを手に取った。
「……わ、私……そうなの?」
エドワードは手を振り、また菓子をつまむ。
「本当に友達増やしたいなら――新入生大会に出ればいい」
ベアトリスは答えず、ただクッキーを齧りながら、その言葉を反芻した。