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お嬢様には絶対に言わないで  作者: renten
ACT 2
175/176

2-31-2

先に断ち切ったのはドロテアだった。視線を冷やし、その声を職務の調子へと切り替える。


「ベアトリス・カイルイスク様。本日、私の管轄たる学園にて発生した事案について、いくつか確認させていただきます」


ベアトリスの指先がスカートの上で震える。笑みはそのままに、唇が開いても声は出ない。

「ん……」

か細い音がこぼれ、続いて不安な吐息が漏れる。涙が光りかけた瞳に、彼女はさらに笑みを広げた。あたかもその笑顔で、ドロテアの冷たい口調が刻んだ距離を埋められると信じるように。


「本日の襲撃は、多くの者の目に触れました」ドロテアは淡々と告げる。その声はほとんど司法の響き。

「学園としても、これを公にせざるを得ません。その際、声明にあなたの名を記すべきか――お伺いします」


ベアトリスの瞬きが速くなる。喉が詰まり、声がひき裂かれる。

「わ、わたしは……だれも……気にしてなんか……」

途切れ途切れの言葉。笑みはひび割れ、仮面が崩れかける。


「お嬢様!」


隣から、エドワードの声が鋼のように響き渡る。その鋭さはドロテアすらわずかに揺さぶった。

ベアトリスはびくりと震え、見開いた瞳から笑みが完全に消える。


「はっきり答えろ」

エドワードは鋭く促す。その口調は叱責めいていたが、同時に彼女を暗闇から引き上げる綱のようでもあった。


ベアトリスは凍りついたまま動けない。ドロテアの視線が部屋の向こうから圧し掛かる。耳にはエドワードの声が残響し、自分の砕けた言葉が苦く舌に残っていた。


そのとき、内側で何かが変わる。


いま胸に刺さる痛みは、自分の我がままから生まれたものだと気づいた。幼き日の「ビー」と呼んでくれるドッティを、まだどこかで望んでいたから。だがドロテアはもう遊ぶ少女ではない。義務を背負い、ベアトリスには背負えぬ重さを担っている。そして自分は——追放された王女。存在そのものが負担にすぎない。


衣擦れの音に、ベアトリスは顔を上げる。

エドワードがそっと手を差し出していた。指にはハンカチが挟まれている。


一瞬ためらった後、彼女はそれを取った。


視線を上げると、彼の瞳がようやく開かれていた。まっすぐに彼女を見つめ、穏やかで揺らぎのない眼差し。唇には小さな笑み。それは言葉を持たぬ微笑みだったが、彼女に自ら答えを見つける余地を与えていた。


胸が締めつけられる。けれどその小さな笑みに支えられ、彼女はハンカチを目元に当て、まるで埃を払うように涙を拭った。


ひとつ、深い呼吸を吸い込む。


ベアトリスは深く息を吸い込み、もう笑みは揺れていなかった。


「その件について……わたくしは除外を願います」


ドロテアの視線が彼女を射抜く。読めぬまま、冷たさを保って。


「……本当に、それでよろしいのですね」


「はい」ベアトリスは答えた。笑みは穏やかで、もう崩れない。

「本日の襲撃は急進派による無差別のものにすぎません。わたくし個人を狙ったものではございませんので……名が公になる必要はございません」


ドロテアは小さく首を傾けた。


「分かりました。お望みのとおりにいたしましょう」


身を翻し、去ろうとする。


ベアトリスの指が、エドワードから渡されたハンカチを強く握りしめた。言葉が、思わず口をついて出る。


「ちょっと、お待ちください――ドロテア様。もう一つだけ……」


足を止めるドロテア。

「……申されたいことがあるのでしょうか」


ベアトリスは逡巡した。なぜ呼び止めたのか、自分でも定かでない。ただ、どうしても欲しかった。心が疼いていた。息を整え、言葉を絞り出す。


「あ……い、いえ、その……セルヴィリア様は……ご無事でいらっしゃいますか……?」


ドロテアの目がわずかにエドワードへ流れる。彼は口の端を上げ、どこか愉快そうに微笑む。その直後、ドロテアの眼差しがほんの一瞬だけ柔らぎ――すぐにまた、石のように冷たく固まる。


「詳しい状況は申し上げられません。ただ、数日の休暇を求める嘆願書を出されております」


「そう……」ベアトリスは視線を落とし、ハンカチをさらに握りしめる。唇に浮かんだのは、小さく幼い笑み。口実に過ぎないことは自分でも分かっていた。それでも、ほんの一瞬を引き延ばせる。それで充分だった。


ドロテアは沈黙のまま彼女を見つめ――やがて、ほとんど儀礼のように言う。


「何かお伝えすることはございますか。これよりセルヴィリア様にお目にかかりますので」


「結構です。屋敷に戻る前に、わたくし自身で訪ねます」


「……ええ。では、ベアトリス様。これにて失礼いたします」


「ええ……」


ドロテアが扉へ辿り着いた時、ベアトリスの声がもう一度届く。今度は小さく、かすかな響き。


「どうか……ご無事でいてください、ドロテア様」


半ば振り返ったドロテアは、冷たくも無礼ではない声音で答えた。


「……あなたも、ご自愛を。ベアトリス様」


扉が閉ざされる。


ベアトリスは言葉もなく、静かに茶器を持ち上げた。震えぬ手で一口含み、微笑みを浮かべる。その笑みは小さく、脆く――だが確かに残った。何年ぶりかで、ドロテアが長く言葉を交わしてくれた。それだけで十分だった。


沈黙を破ったのは、エドワードの声。

「……ご機嫌のようですね、お嬢様」


彼女は振り向いた。一筋の涙が頬を伝う。悲しみではなく、光を帯びた涙。その輝きが、笑みをさらに深くした。


「もぉ……エドなら分かるでしょ」


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