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先に断ち切ったのはドロテアだった。視線を冷やし、その声を職務の調子へと切り替える。
「ベアトリス・カイルイスク様。本日、私の管轄たる学園にて発生した事案について、いくつか確認させていただきます」
ベアトリスの指先がスカートの上で震える。笑みはそのままに、唇が開いても声は出ない。
「ん……」
か細い音がこぼれ、続いて不安な吐息が漏れる。涙が光りかけた瞳に、彼女はさらに笑みを広げた。あたかもその笑顔で、ドロテアの冷たい口調が刻んだ距離を埋められると信じるように。
「本日の襲撃は、多くの者の目に触れました」ドロテアは淡々と告げる。その声はほとんど司法の響き。
「学園としても、これを公にせざるを得ません。その際、声明にあなたの名を記すべきか――お伺いします」
ベアトリスの瞬きが速くなる。喉が詰まり、声がひき裂かれる。
「わ、わたしは……だれも……気にしてなんか……」
途切れ途切れの言葉。笑みはひび割れ、仮面が崩れかける。
「お嬢様!」
隣から、エドワードの声が鋼のように響き渡る。その鋭さはドロテアすらわずかに揺さぶった。
ベアトリスはびくりと震え、見開いた瞳から笑みが完全に消える。
「はっきり答えろ」
エドワードは鋭く促す。その口調は叱責めいていたが、同時に彼女を暗闇から引き上げる綱のようでもあった。
ベアトリスは凍りついたまま動けない。ドロテアの視線が部屋の向こうから圧し掛かる。耳にはエドワードの声が残響し、自分の砕けた言葉が苦く舌に残っていた。
そのとき、内側で何かが変わる。
いま胸に刺さる痛みは、自分の我がままから生まれたものだと気づいた。幼き日の「ビー」と呼んでくれるドッティを、まだどこかで望んでいたから。だがドロテアはもう遊ぶ少女ではない。義務を背負い、ベアトリスには背負えぬ重さを担っている。そして自分は——追放された王女。存在そのものが負担にすぎない。
衣擦れの音に、ベアトリスは顔を上げる。
エドワードがそっと手を差し出していた。指にはハンカチが挟まれている。
一瞬ためらった後、彼女はそれを取った。
視線を上げると、彼の瞳がようやく開かれていた。まっすぐに彼女を見つめ、穏やかで揺らぎのない眼差し。唇には小さな笑み。それは言葉を持たぬ微笑みだったが、彼女に自ら答えを見つける余地を与えていた。
胸が締めつけられる。けれどその小さな笑みに支えられ、彼女はハンカチを目元に当て、まるで埃を払うように涙を拭った。
ひとつ、深い呼吸を吸い込む。
ベアトリスは深く息を吸い込み、もう笑みは揺れていなかった。
「その件について……わたくしは除外を願います」
ドロテアの視線が彼女を射抜く。読めぬまま、冷たさを保って。
「……本当に、それでよろしいのですね」
「はい」ベアトリスは答えた。笑みは穏やかで、もう崩れない。
「本日の襲撃は急進派による無差別のものにすぎません。わたくし個人を狙ったものではございませんので……名が公になる必要はございません」
ドロテアは小さく首を傾けた。
「分かりました。お望みのとおりにいたしましょう」
身を翻し、去ろうとする。
ベアトリスの指が、エドワードから渡されたハンカチを強く握りしめた。言葉が、思わず口をついて出る。
「ちょっと、お待ちください――ドロテア様。もう一つだけ……」
足を止めるドロテア。
「……申されたいことがあるのでしょうか」
ベアトリスは逡巡した。なぜ呼び止めたのか、自分でも定かでない。ただ、どうしても欲しかった。心が疼いていた。息を整え、言葉を絞り出す。
「あ……い、いえ、その……セルヴィリア様は……ご無事でいらっしゃいますか……?」
ドロテアの目がわずかにエドワードへ流れる。彼は口の端を上げ、どこか愉快そうに微笑む。その直後、ドロテアの眼差しがほんの一瞬だけ柔らぎ――すぐにまた、石のように冷たく固まる。
「詳しい状況は申し上げられません。ただ、数日の休暇を求める嘆願書を出されております」
「そう……」ベアトリスは視線を落とし、ハンカチをさらに握りしめる。唇に浮かんだのは、小さく幼い笑み。口実に過ぎないことは自分でも分かっていた。それでも、ほんの一瞬を引き延ばせる。それで充分だった。
ドロテアは沈黙のまま彼女を見つめ――やがて、ほとんど儀礼のように言う。
「何かお伝えすることはございますか。これよりセルヴィリア様にお目にかかりますので」
「結構です。屋敷に戻る前に、わたくし自身で訪ねます」
「……ええ。では、ベアトリス様。これにて失礼いたします」
「ええ……」
ドロテアが扉へ辿り着いた時、ベアトリスの声がもう一度届く。今度は小さく、かすかな響き。
「どうか……ご無事でいてください、ドロテア様」
半ば振り返ったドロテアは、冷たくも無礼ではない声音で答えた。
「……あなたも、ご自愛を。ベアトリス様」
扉が閉ざされる。
ベアトリスは言葉もなく、静かに茶器を持ち上げた。震えぬ手で一口含み、微笑みを浮かべる。その笑みは小さく、脆く――だが確かに残った。何年ぶりかで、ドロテアが長く言葉を交わしてくれた。それだけで十分だった。
沈黙を破ったのは、エドワードの声。
「……ご機嫌のようですね、お嬢様」
彼女は振り向いた。一筋の涙が頬を伝う。悲しみではなく、光を帯びた涙。その輝きが、笑みをさらに深くした。
「もぉ……エドなら分かるでしょ」